ルーズソックスをはいた猫(3)

 

 

 もう一つの事件は僕のその日の帰宅時に起きていた。僕ががっくりとうなだれるようにしてマンションの入り口に入っていくと、そこでいつもの女の子が「ルーズソックスをはいた猫」に魚をやっていた。

 誰もが、猫は魚が大好物で魚なら何でも食べる、と思っているかもしれない。ところがそんなことはない。彼らにも多少の好き嫌いがあって、たとえ好物の魚でも、調理法によっては見向きもしないことがあるのだ。女の子が差し出していたのは鰊のフライで、それは「ルーズソックスをはいた猫」がもっとも苦手とする料理だった。彼女はいやがる彼にそれを無理矢理食べさせようとしていて、怒った彼はこともあろうに大の仲良しに爪をむけたのだ。

 言葉を発する間もなかった。女の子はものすごい勢いで泣き出し、「ルーズソックスをはいた猫」の奴は彼女をもう一度威嚇しようか、という構えを見せると、すぐについ、と横を向いて家に帰っていってしまった。
 僕の家のマンションは、背中に正面玄関のあるコの字型に部屋が並んでいて、裏側はとてもよく声が響く。おかげで彼女の泣き声は、マンション中に警報サイレンのように鳴り渡り、すぐさま母親が飛び出してきた。僕は急いで事情を説明し、母親は笑顔で納得してくれたが、僕は申し訳なさと恥ずかしさで、すぐにでもその場を離れたかった。

 家に戻ると、「ルーズソックスをはいた猫」はなにも変わったことがなかったような風情で、僕の部屋で顔を洗っていた。でも僕にはその小さく背中を丸めた姿が、友達に苦手なものを差し出されて、傷ついているように見えた。

 僕はそのすぐそばに座って「ルーズソックスをはいた猫」に話しかけた。

  「そんなに怒らなくったっていいじゃないか。彼女はおまえがあれが嫌いだって知らなかったんだ。おまえを喜ばせようと思ってやったんだぜ。おまえのために必死になってたんだ。おまえの気持ちが分からないことだってあるさ。それくらい許してやれよ。それに必ずしもおまえの考えが正しいってわけじゃないんだぜ。」

 最後には僕が誰に向かってしゃべっているのかわからなくなっていた。一生懸命に鏡に向かって言葉を投げているような気がしていた。自分がだんだん悲しい気持ちになっていくのがわかっていた。それでもどうしようもなかった。「ルーズソックスをはいた猫」は僕の方をちらり、と見ただけで、また外に出て行った。慰めを請いに、恋猫のところに行ったのかもしれない。彼には彼のやり方があるのだ。

 友人の好意が裏目に出りした時、人は怒って全てをぶちこわすか、我慢してもう一度解り合うか、どちらかしかない。僕には前者の選択はできないな、とふと思った。

  僕と「ルーズソックスをはいた猫」は二人とも友達を無くしてしまった。

 

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 結局、夏休みの間、酷いことを言ってしまった彼とは一度も会わなかったが、後期の授業が始まって、僕らはまたもと通りの関係になった。可愛い彼女も、あの日のことは一言も口にしなかったし、今まで通り、可愛い素敵な彼女だった。
  ある日家に帰ると「ルーズソックスをはいた猫」がいつものように女の子の横で昼寝をしていた。通りすがりの高校生がそれを見て笑っている。いつの間にか少しずつ涼しくなってきていた。

 

 これが8月の出来事だ。今思うと、「ルーズソックスをはいた猫」の奴は、僕に合わせて女の子と仲違いをしたのではないか、という気がする。あるいは僕がそう思いたいのかもしれない。彼が、後悔と寂しさを、共に味わってくれていたんじゃないかな、と思うのだ。彼は絶対に認めないと思うけれど。

 今では僕は大学を卒業し、例の友達とはたまにしか会わなくなった。マンションの女の子は、幼稚園を卒園すると同時に引っ越していった。僕と「ルーズソックスをはいた猫」は、今でも結構仲良くやっている。

 

 

おしまい

 

 

 

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