読み週記 4

 

第5週(4/29〜5/6)

 かなり充実した連休を送ったような気がして満足。毎日遅くまで(正確に言えば朝早くまで)思う存分本を読み、テレビで映画は見るしサッカーは見るし、楽器も吹き放大、おまけに部屋の片づけまでやって、本の置き場所もいくらか確保し、かなり実りのある連休を堪能した。なによりも、家中に散らばっていて、どこに何があるかわからなかった仕事関連の書籍も整理して、スペースを作った棚に整理できたのが大きい。
 なんでこんなに連休の充実具合を自慢しているかというと、実は言い訳で、充実した部屋の片づけの過程で、この週に読んだ本をどこかにしまってしまって、一体何を読んだのかさっぱり覚えていないのだ。それも、片づけてしまったので、どこにあるかわからない。書名を見れば思い出すとは思うんだけど。
 というわけで、今週の読み週記は、手元に残っていた分だけである。この連休中に読んだことだけは確かだけど、今週か先週かは定かではない。

 エド・マクベインの<87分署シリーズ>にはすっかりはめられた。そのことはこの段落の最後に書くとして、まず『通り魔』(ハヤカワ文庫)は、女性を襲ってカバンの中の現金を奪った後、「クリフォードはお礼をもうします、マダム」とメッセージを残していなくなる謎の通り魔を追う物語。この通り魔がやがて殺人事件に結びつき、87分署のメンバーが犯人を追う。
 大事な登場人物の一人であるスティーブ・キャレラは前作の最後に結婚した相手と新婚旅行中。残った刑事達と、ふとしたことから殺人事件を個人的に捜査することになった警官バート・クリングが今回の主人公。とにかく刑事達を覚えるのが大変。シリーズがシリーズとして楽しめるのはずいぶん先になりそうだ。
 「やられた!」と思ったのは、これではなく、読み終えた後すぐに手に取った3巻の『われらがボス』(ハヤカワ文庫)だ。
 いつものように最初の人物一覧を眺めていると、2巻の終盤を考えると意外な人物の名前がある。「ふーん、そうなんだ」と思って読み始めてすぐ、これが前作の13年以上後の物語であることがわかって衝撃をうける。あわてて巻末の解説を読むと、この3巻は、翻訳順が3番目であるだけで、実際は第29作目にあたるものであることがわかるのだ。
 このシリーズは、ミステリであるだけでなく、登場する刑事達の様々な人生の物語でもある。それだけに、物語単体でなく、刑事達の人生の大きな出来事が次の巻で急に過去のこととして語られるのは衝撃的だ。先がわかってしまうので何があったかは書かないけど、これから<87分署シリーズ>を読む人は、3巻目を買ったら、読まずに巻末のマクベイン著作一覧だけを見て、次の巻を買うべし。酷いよ、まったく。

 ドナ・アンドリューズ『庭に孔雀、裏には死体』(ハヤカワ文庫)は、かなり忙しい感じのユーモアミステリ。中途半端に頃の悪い題さえ気にしなければ、かなり楽しんで読める作品になっている。
 著者のデビュー作であるので、素人臭い展開や、序盤の一抹のぬるさが気になるが、なんと、三つの結婚式の花嫁付添人になってしまった主人公がわがまま勝手な家族、親戚のために忙殺されるスピーディな展開とユーモラスな家族達は、読み手を飽きさせない。
 それにしても、花嫁付添人ってえらく大変。それぞれの式の準備から、花嫁の不安、ドレスの準備となにからなにまで一手に担うのが本当なの?というくらい恐ろしい急がしさ。殺人事件よりもそっちの方に気を取られてしまうけど、それと事件が上手く絡まっていて、全体の構成はよく出来ている。多少素人臭くても、こういう面白いのは楽しく読めて良い。

 スティーヴン・カーナル『Jファクター−臓器移植順位』(ハヤカワ文庫)は、臓器移植を独占した大企業が、独立国家のごとき権力を持った近未来のサスペンス。その背後に隠された正体に直面した心臓外科医と、その恋人の弁護士が主人公。
 まさに息をもつかせぬ展開と、彩り豊かな登場人物がうまく描かれていて、こちらも勢いが付いて一気読み。医療サスペンスとリーガルサスペンスとSFが混ざったような盛りだくさんの内容でとにかく面白い。
 気になったのが、このてのサスペンスが実にハリウッドチックであるところ。登場人物のモノローグや文学的な描写が少なく、物語を語ることに集中するような構成は、いかにもアメリカの小説、という感じがする。このスタイルに疑問も感じるし、小説が全部そんな風になってしまったら嫌だな、とは思うけど、これはこれで面白いのは事実。朝までページを繰り続けた俺の手が証人だ。エンターテインメントに徹している。

 連休の読書のいい点は、2、3日の間、次の日の朝起きることを気にせずに平気でいつまでも本を読み続けられるところ。昔のように夜中になれば自然と眠くなったりしないので、時計を気にしながら本を読むよりも、ただ眠るまで本を読み続けられるのは幸せだ。朝方7時くらいに本を読み終わって、「ああ、面白かった」と呻ってから次の本を手に取るときのちょっとした罪悪感がたまらない。

 

第3週(4/16〜4/22)

人に本を薦めるのは何が面白いのか。時折夢中になって誰かに本を薦めている自分に気付いて、それがなぜそんなに嬉しいことなのかじっくり考えてみたくなる。単純に面白い本を薦めていい気になる、という喜びもあるだろうし、一種の自己顕示意欲の発動でもあるだろう。だが、それ以外に、人間のもっと根元的な欲求みたいな物の影を感じることがある。

 ちっとも個人的でない、有名な作家であるだけに発見でもないんだけど、北原亞以子は抜群の見つけ物だ。『東京駅物語』(新潮文庫)は、「グランドホテル形式」で書かれた短編集。巻末の北上次郎の解説にあるとおり、「グランドホテル」形式の変形版で、時代が東京駅が完成する直前の明治時代から、終戦後、最初は原っぱに囲まれていた東京駅が、ビルも建ち、戦後の復興に向けて華やかになりつつある、時代までが描かれている。東京駅でであり、すれ違っていく何人かの人物の物語を、「東京的」という象徴的な建物を通して語っていく。
 作中の人物がまた別の人物と結びつき、時代が進んでいくわけだけど、その結び方が実に巧み。その物語たちの背景に静かにたたずむ東京駅の存在がまたひかえで力強い。読めば読むほどその巧妙でありながら繊細な組み立てに漂う幸福感を味わう。圧倒的に誰かに薦めたくなるような作家なんだけど、身の回りに時代小説好きの人は少ないし、そもそも好きな人はきっと知ってるだろうなぁ、と思ってちょっとげんなり。ただ、時代小説好きでなくても、この本は楽しめるはず。

 人に本を薦める動機の中に、同じ喜びを、同じ興味や趣味を共有したい、という願望があるのは間違いないと思う。その人が読んでくれれば嬉しいし、楽しんでくれればさらに嬉しい。本を読むことは極めて個人的な作業ではあるけど、人に薦める、というのは、それ以外のもっと人を求める欲求があって、それというのは本を薦めることに限らず、人間の根本的な欲求なのではないかと思う。その欲が色んな不安とも結びつくわけで、それについてはどんどん本と話がずれていくので、更新日記のほうで。

 来週はゴールデンウィーク休みである。

 

第2週(4/9〜4/15)

 ゴールデンウィークが近づいている。この機会に溜まっている本を読もうとも思ったが、それよりも溜まっている読み終えた本の整理の方が急務。本だけでなく、家中の整理が必要なんだけど、ゴールデンウィークなんてちんけな物では全然足りない。片付け年度を要求する。

 多分先週読み終わったんだと思うけど、書き忘れた気がするので書き留めておく。綱淵謙錠の『乱』(中公文庫)の下巻をようやく読み終える。様々な資料を駆使したその著作の力強さには脱帽。義心から滅び行く幕府軍と行動を共にし、五稜郭にまで向かったフランス軍士官ブリュネが主人公の物語なんだけど、下巻後半に到っては、全く出番無し。所々に名前はでてくる物の、結局登場はしてないと思う。五稜郭入場、松前城の陥落に到るまでの幕府軍の戦いの様を、資料を基にした推測を交えて語りつぐそのエネルギーこそ、歴史小説のパワーといえる。これだけ書いておいて未完とはびっくり。

 女性地質学者という、一風変わった主人公が活躍するミステリー、サラ・アンドリューズ『沈黙の日記』(ハヤカワ文庫)は、なかなかの読み応え。女性が主人公の一人称ミステリでは、久々に主人公が魅力的で良かった。職を失って、アル中から立ち直った母の牧場経営を手伝っていたエムは、かつての上司の妻が殺された、もしくは自殺した現場にいて、その場の記憶を失った少女セシリアを救って欲しいと頼まれる、というお話。
 セシリアを助けるため、死んだその母親の過去から続く日記を読みながら、あったことのないその女性と自らを重ね合わせていく主人公の心の揺らぎがうまく描かれている。自らのキャリア、人生の半ばにおいて、自らを振り替えざるをえない女性の姿が表現されていて、読み手を納得させる。
 脇役もいいのが揃ってるけど、やっぱり気になったのが、エムがセシリアを助けるため、セシリアのヒステリー性の健忘の治療のために精神科医を捜すときにでてきたティナ。精神科医というか、サイコセラピストなんだろうけど、これがまたうまい。最初に少女がかかっていたセラピストと話し、もっとふさわしいセラピストを捜すために色々会いに行くんだけど、最後にたどり着くのがティナで、彼女もまた魅力的なキャラクターであり、セラピストだ。変に権威者的であったり、心理学理論を人に当てはめたがるセラピストよりもずっと日本の風土に合いそう。向こうの映画や小説にはよくそう言うタイプのセラピストがカリカチュアライズされてでてくるんだけど、本当にそんな人が多いんでしょうか。

 読んだ本を把握できなかったのはずいぶん前からだけど「危機的状況」と言い続けてはや半年。もういいんだ。

 

第1週(4/2〜4/8)

 長い間、多くの読書時間を布団の中で過ごしていたので、本と布団のつながりについては一家言あると思う。読書好きの様々な人がどうやって本を読んでいるのか聞いたことがないけど、イスやこたつに座って本を読む、という事ができない。図書館での静かな読書も苦手だ。静かなことではなく、あの色んな人が静かにうろついている空間で、他の人ばっかり気になりながらイスに座って静かに本を読むことができないのだ。そんなわけで「春眠暁を覚えず」は、俺の場合、すなわち読書と結びついていて、「春眠」の前には「読書」があるのだ。「暁を覚え」ないのはオールシーズン一緒だけど。

 隆慶一郎、山本周五郎に続いて、心にクリーンヒットの時代小説家がまた一人見つかった。その北原亞以子『まんがら茂平次』(新潮文庫)は、万話すうちの全てが空、というほら吹きの茂平次が主人公の連作短編集。幕末から明治にかけて、滅び行く徳川と変貌していく日本、そして江戸の姿を、長屋に暮らす人々のささやかな物語から描く佳作だ。江戸情緒あふれる粋さを体現したような、芸者の「小ぎん」のキャラクターは秀逸。
 質の高い人情話、という点では周五郎との共通点には納得してもらえると思うけど、隆慶一郎との共通点は、なかなか理解してもらえないと思う。だが、以前どこかで隆慶一郎について書いたときに述べた、日本のエンターテインメント小説にある、と俺が勝手に思っている面白さを備えている点で、隆慶一郎との関係を色濃く感じるのだ。いま、そのエッセンスをストレートに表現している作家は少ない。その面白さを伝えるには、つたない俺の表現では追いつかないかもしれない。ので、あえて以前にも書いた、隆慶一郎を呼んで俺が思いだした日本の偉大なエンターティナーの名を挙げることにする。それが江戸川乱歩だ。

 その北原亞以子の『その夜の雪』(新潮文庫)は、著者のシリーズ物、定町廻り同心森口慶次郎のものを含む短編集。一編一編が丁寧に描かれていて、素晴らしい噺家の話を聴いているような心地よさに通tまれる。表題作はもちろん、野暮を嫌い、粋を求める、初代志ん生の弟子かん生(創作)が主人公の「夜鷹蕎麦十六文」や、抜群の読後感が後を引く「束の間の話」など、小さいながら味のある名作が揃っている。今後読むべき素晴らしい著者であることを再確認。

 久々に新潮文庫にジェフリー・アーチャーの新作が登場していた。『十四の嘘と真実』は、今までのアーチャーの著作のローテーション通り、短編集になっている。
 実際にあった出来事を元にした物語を多く含みながら、アーチャーの巧みなストーリーテリングが遺憾なく発揮されている。
 でも、アーチャーの本で熱くなっていた頃を思い出すと、今ひとつ不完全燃焼な気持ち。『100万ドルをとりかえせ!』(新潮文庫)の興奮、『カインとアベル』(新潮文庫)の壮大なスケールにどっぷりとはまる感覚からすると、題材とうまさだけが目に付く短編集は、今一乗り切れない。やはり、練り込んだ長編でこそ生きる作家だ。

 昔に比べると、夜でもないのに布団に入って本を読む、ということに罪悪感を感じてしまうようになり、そういう機会は減ってしまった。それでも夜布団に入る時に感じる幸せは、睡眠によるものではなく、ゆっくりと本を読む喜びである。「布団に入る=寝る」ではなく「布団に入る=本を読む」なわけだ。
  朝起きるのが嫌いで、何時間でも寝ていたいと話すと、「寝るのが好きなんだ」と言われることがある。今までは「そうだ」と答えていたが、冷静になって考えると、好きなのは寝ることでなく、起きることを気にせずに本を読むことなのだ。