読み週記 5

 

第5週(5/29〜6/4)

 とにかく全然読めない。圧倒的に時間が足りないのだ。活字中毒者目黒考二は自分は読むのが遅いため、生活の他の人がやっている事を犠牲にして読まないと間に合わない、と言っている。俺も同じで、とにかく色々犠牲にしないと読めない。
 俺も結構いろいろ捨て去って読んでると思うんだけど、全然足りないらしい。でも、楽器も吹くし映画も観たいしサッカーも観ないわけにはいかない。そういえばもうすぐサッカーのヨーロッパ選手権が開幕する。これではますます読めなくなってしまう。あいた時間に仕事もしなきゃいけないし。こうなると残るは睡眠時間だけである。でもそれを削るのもちょっとなぁ・・・。

 先週上巻について書いたロバート・R・マキャモン『少年時代』(文芸春秋)の下巻を読む。本や映画は時として日常の生活以上に人を感傷的にさせるというよい例だ。
 俺は生まれ故郷の小さな町から去ったこともないし、親友を亡くしたこともない。それでいてこの本の最後の章に大きく心を揺さぶられるのは、まさに全存在をどっぷりと浸からせた「現在」を、一歩先へ踏み出すために記憶や思い出としての「過去」にする経験を俺を含め誰もが体験するからだ。
 少年時代(もちろん少女時代も)は誰もが体験する期間であり、その印象的な日々を誰もが「過去」のフォルダの中にしまい込む。かつての住処であり、学校であり、学友であり、それらを内包した一生心に刻まれる日々。だがそこから立ち去ることも、誰もが経験しなくてはならないこと。永遠に続く日々のように思えるものが、決して永遠でないことに誰もが気付き、その時から大人になり始めるのだ。だからこそ誰もが心の中に感傷の球根を持っている。
 『少年時代』が呼び覚ますのはまさにそれであり、その発芽をもたらすのが、大きな事件とその周りに配置された小さな、しかし子供たちにとっては決して小さくない様々な事件。全く違う異国の町、文化も違う少年たち。しかしそのディティールひとつひとつが俺たちに共通する何かに訴えかけるのだ。そしてそれを描ききった者だけが、この最終章を書くことを許される。そうして優れた物語が完成するのだ。
 喪失の痛みを優しくくるむ暖かな現在を持つ者こそ幸せである。

 日曜日、フジテレビの競馬中継を観ていて思った。井崎脩五郎はレース直前、放送席でコメントを発した後に不安になることはないだろうかと。どんな冗談を言っても、あるいは強引な予想をしても、しっかりと受け止めて時に厳しく批判してくれたあの人がいないことを。
 競馬界が大川慶次郎を失った喪失感をどう捉えたらいいのだろうか。「競馬の神様」と言われた、大川慶次郎の『絶筆』(角川書店/ザ・テレビジョン文庫)は遺されていた「神様」のインタビューの草稿をまとめたもの。予想屋から騎手、果ては番組にまで、大川慶次郎の忌憚のない意見が余すことなく伝えられている。「競馬評論家」として、番組に出演し、予想を新聞に載せる。競馬が場末のおやじたちのギャンブルであった時代から、若い女の子たちの遊びとなった今まで、大川慶次郎は常に競馬とともにあった。競馬のポピュラリティに多大に貢献したのはハイセイコー、オグリキャップといったアイドルホースだった。だが、彼らが脚光を浴びる舞台を形作り、演出し、改良してきた人々の中にあって、大川慶次郎の存在は間違いなく大きかったはずだ。
 イーグルカフェは4歳のマイルチャンピオンとして、安田記念で古馬のマイラーに果敢に挑戦し、惨敗した。武豊は日本のトップジョッキーでありながら、更なる飛躍を求めてアメリカ西海岸に修行の場を求めて旅立つ。大川慶次郎がいなくても競馬は行われていく。でも、競馬に変化が訪れるたびに、俺は「競馬の神様」の言葉を思い出し、日刊スポーツの競馬予想欄に「大川慶次郎の自信あり!」の文字を探してしまう。

 山田風太郎の独特の世界観をまねするのは非常に難しいだろう。老境に於いてなおこれだけのことをさらっと書けるのはいったいどんな人生によるものなのか。山田風太郎『あと千回の晩餐』(朝日文庫)は72歳になり、余命幾ばくもないと感じたことから「晩飯を食うのもあと千回くらいだな」と思った、と始まるエッセイ集は、脱力したような、深刻さもなにも全くどこ吹く風、アルツハイマーも糖尿病も酒のつまみにしてしまうような異様な日々はまさに「風太郎」のなにふさわしい。昭和の時代小説世界に確固たる地歩を気付き、コアなファンに支えられながら、いつのまにかまた時代の中に帰ってきた風太郎だが、そのスタイルはなにも変わっていない。昭和の時代に生きたこの人が、平成をどうやって生きているのか気になる。でも本人は全然気にしていないのである。

 その山田風太郎復活に大きく尽力した(と少なくとも読者は思っているはず)『本の雑誌』(本の雑誌社)6月号は昔ほど面白くなくなったという印象は拭えぬまま今でも楽しみな雑誌だ。相変わらず高野ひろしの文体だけはどうしても許せないけれど。今月心を打ったのは表紙の沢野ひとしの絵についた言葉。『「お茶の水女子大ですか」そういって男は下を向いた。』というやつ。俺がいいな、と思う心性とは全く違うところから端を発して思いつく言葉であることはまず間違いないんだけど、計算外のところでなにか立ち去れない感慨を生み出す沢野ひとしはヘンな奴だ。絵との関係は全くわからないけど。

 この『本の雑誌』でも触れられているとおり、本読みの楽しみは書店で本を探すところからすでに始まっている。そんなつもりはもちろんないんだけど、結果として探して買った段階で満足してしまう本がある以上、本を読む以上の楽しみがあるいはそこにはあるのかも。ああ、でも全部読みたい。

第4週(5/22〜5/28)

 図書館で借りた本はきちんと返しましょう。常識とか以前の問題である。誰もがそう思っていながら、小学校や中学校の図書室の本を未だに家においている人を結構見かける。返しそびれたまま学校を卒業し、月日がたってしまって今更返せない。そういう本が意外にあるのだ。

 図書館で借りたばっかりに前の週に読んだことを忘れてしまう本がある。ロバート・R・マキャモン『少年時代』(文芸春秋)上巻は下巻をすぐに借りて読み出していたので、忘れずにすんだ。牛乳配達の途中で、無惨に殺され沼に捨てられた死体を父親と発見してしまったコーリーが主人公。ファンタジックな出来事があふれる小さな町ゼファーの人々の暮らしと重ねながら、少年の視点で語られる物語だ。
 マキャモンはホラー小説家であり、ホラー小説があまり好きでない俺にはあまり縁のない作家だ。だが、一流のホラー小説家は一流のストーリーテラーであることが多い。心の奥からわき上がってくる感情、ホラーの場合それは恐怖になることが多いんだろうけど、それを描くのがうまいからだ。それをふとした日常の延長上に置いたときに、それはホラーではなく優れたエンターテインメントになる。キング然りである。
 南部の片田舎であるゼファーの町。そこにすむ人々や日々の出来事のディティールがコーリーの生き生きとした、そして子供としての視点で描かれることで、そのヴィジョンがスムーズに伝わってくる。いや面白い。

 若竹七海『サンタクロースのせいにしよう』(集英社文庫)は失恋を契機に有名な映画監督の天然娘と一緒に暮らすことになった女性が主人公の連作短編集。キャラクターたちから醸し出される雰囲気など、北村薫の世界とかぶること多大だ、と若竹七海を読むたびに思うのだが、北村薫にない魅力を持つのも確か。
 若い女性作家に多く感じる独特の嫌らしさ(を感じるのは俺だけかもしれないけど)もほとんどないし、語り口にもよどみがなく、家に住む老婆の幽霊の登場のさせ方もつい受け入れてしまうくらいうまい。さりげないテンポの中に重要なパーツをあっさりと埋め込んでしまううまさが若竹作品にはあるとおもう。こういう書き手が物語自体にトリックをしかけると簡単に引っかかってしまいそうで怖いのだ。
 もっともそのうまさは必ずしも若竹七海の個性ではない。時にはファンタジーのように、時にはちょっとした小道具的な仕掛けの中に、独特のリアリティを生む力がある。主人公と同居する女性のキャラクターやあっさりと生活に入り込む幽霊、その正体の明かし方。そういう要素を自然に、力を抜いて語ってしまう。
 若竹七海は人に教えてもらった作家だ。その人が薦めてくれたのはこれではなくもっと前に読んだ別の本なのだが、なんとなくこの雰囲気が忘れられずに読み次ぐようになってしまった。

第3週(5/15〜5/21)

 ずいぶんと間があいてしまった。パソコンがぶっこわれて以来更新にやる気をなくしてしまったのだ。しかしパソコンも何とか直ったことなのでまた始めることにしたのだ。間があいた期間にももちろんいろいろ読んでいたわけだが、それについては一切触れない。過ぎ去った過去は忘れてしまうが吉。

 さて、気を取り直して今週の最初は椎名誠『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』(角川文庫)。昔本の雑誌社から出版された本が文庫化されたもの。本の雑誌社社長の目黒考二をネタにした短編小説である表題作の他は、様々な雑誌等に載った椎名誠の雑誌評などである。いずれも初期の椎名作品で、一般に知られている椎名誠の特長ある文体が再現されている。
 ここに納められた文章に限らず、初期の『本の雑誌』(本の雑誌社)は今に比べて攻撃的だった。小さなメディアであるが故にできたことでもあるし、当時の彼らの若さであったとも言えるだろう。最近は面白くなくなった、と意見をはく人もいるが、あれはあれで社会における一つのポジションを築いた、ということで、十分な価値があるのだからいいと思う。

 スティーヴン・グリーンリーフ『血の痕跡』(ハヤカワ文庫)は私立探偵ジョン・マーシャル・タナーが主人公のハードボイルドミステリ。雰囲気のいいバーで語り合う友人の死を調査する動機が、助けを求めて来た友人の期待を裏切った後ろめたさから、というのはありがちなだけにすんなり受け入れられる設定だ。
 事件の背後で行われている大がかりな陰謀はなかなかうまくできているものの、全体としては平凡。それよりも悔しいのはシリーズものの何作目かであったことに解説を読んで気付いたことだ。普段忙しいときは書店の平積みから面白そうなのを手にとって買う、というやり方をしているのだけど、悔しいのは面白そうなものの中にはこういうシリーズの何作目であるものが結構ある。
 別に今までの流れがわからなくても十分に楽しめるものが多いんだけど、困ったことに、これが途中であるとわかった瞬間に悔しい気分になる。どうせならシリーズの最初から読みたいのだ。当然著者は今まで語ってきた部分を(意識しなくても)考えて話を書いているわけだし、それが筋に直接関係しないとしても、やっぱりどこかでつながったりはしているわけで、それを思うと興がそがれてしまうのだ。
 そんなわけで、売ろうと思って平積みにする以上、せめてそのシリーズの1作目(できればそこまで全部を)棚に置いておいてほしい、と思うのはわがままだろうか。