読み週記 8 月

 

第4週(8/28〜9/3)

 小学校などの夏休みも終わり、いよいよ季節は本格的に秋化しつつある今日この頃。そろそろ夏休みを取ろうと思っている。涼しくなってきたこともあるので、久々に都心の書店に本の仕入れに行こうかと思っている。別に大型書店でたくさん本を買うことに対した意味があるわけでもないと、最近冷静になりつつあるのだが、やはりストレス解消の一環として、むらむらとやりたくなるのだ。結果として未読の山が高くなるとしても。

 デビット・ゾペティ『いちげんさん』(集英社文庫)が有名になったのが96年だと言うからずいぶん昔である。当時「外国人が書いたのに日本人より日本文学がうまい」みたいな評価で知られていた作品が文庫になっていたので買ってみた。
 上記のような評は、一見外国人を馬鹿にしたような、紋切り型の評価で、事実はどうあれ、外国人が日本語で文学を書いて、それが多少なりとも上手ければそう評価されるんじゃないかと思う。結局「外国人が書いた」ことが評価されているのであって、その内容を全く評していないからだ。だから余計に興をそぐ。
 でも実はちょっと気になってしまったのも事実で、最終的には読むんだけどね。
 遊牧民的になんとなく日本にたどり着き、なんとなく留学生として京都の大学で文学部に入った主人公が、目が見えない女性相手の対面朗読をすることになるというお話。
 一般人からは多少奇異な存在と感じられる二人の恋愛物語で、ラストの展開の仕方もなかなか面白い。特筆すべきはこの盲目の女性が実にエロチックであること。主人公にアナイス・ニンの『ヘンリー&ジューン』を読ませるシーンなんて、いかがですかお兄さん、って感じで。好みであるかどうかはともかく、男と女の間に横たわる空間の描き方としては、なかなか魅力的だとは思いませんか?
 作品は後半に向けてどんどん面白くなっていくんだけど、最後まで違和感が残るのが細かい表現。解説で沼野充義が書いているように、随所に日本人では思いつかないようなたとえや表現が出てきて、新味はある。時には上手いとも思うけど、全般的にちょっとわからないというか、単に失敗しているように思える表現が多いんじゃないだろうか。
 それだけでなく、そういった変わった表現が、従来の文学作品から切り張りしたような「おなじみ」の表現に混ざって登場していること。そのせいで流れのなかでなんともちぐはぐな印象が浮かび上がってきてしまうのだ。
 この後、作品を重ねる上で上達していくならともかく、これ以降作品が書かれていないのは残念。もっと腰を据えてあといくつか読んでみたいという気もするのだ。

 読む度に久しぶりな『週刊少年ジャンプ』(集英社)。今回は36〜38号を読む。まあこれといった感想もないんだけど、このところ本当に新連載のマンガが面白くない。いまさらマンガでもねえだろ、という世代になりつつある昔のジャンプ読者には、最近のジャンプは面白くない、という意見をよく聞くが、それにしたってもうちょとあっても良いと思う。未だに小中学生の文化への影響は多大なんだし。
 相変わらず気合いの抜けている鳥山明の連載がまたもや終了。ドラクエで十分稼げるくせにまだこんな仕事してるなんて、なんて仕事好きなんでしょう。それにしても『BASTARD−暗黒の破壊神−』(萩原一志)はどんどんわけわかんなくなってるねー。

 最近ぶあつい文庫が増えてるような気がする。面白ければそれで良いんだけど、まとめて買うと意外に高くてびっくり。文庫もばかにならないなぁ。

 

第3週(8/21〜8/27)

 ようやく熱帯夜もしのぎやすくはなり、夜眠れるようになってきた。一方で今までの睡眠不足を解消すべく、一日中(つまり通勤時間も昼休みも仕事中も)眠りについているので、全然読む時間がない。困ったことだ。

 ジェン・サックス『ナイス・レディ』(ハヤカワ文庫)は最初から違和感だらけ。2人の主人公、グレースとサム、それぞれの視点から交互にストーリーが語られるのは面白いし、グレースの人格形成は実に上手くかけていて、彼女が殺人へ向かってしまう過程はブラックユーモアというか、面白みが豊富。
 一方でそれ以外の登場人物がどこか図式的な印象が否めない。もう1人の主人公サムもいまいち物足りないし、上司のオードリーも平凡で、面白みがない。なにか古典でも読んでいるような気分にさせられることがしばしば。魅力はユーモラスなシチュエーションと女主人公グレースの魅力につきる。

 今週はこれだけ。今読んでる本がすごく面白いんだけど、なにせ長いし難しいのでまだ時間がかかりそう。それにしてもこんなペースじゃ読みパワーも衰える一方だ。

第2週(8/14〜8/20)

 どうも読み週記にはムラがある。要はその日の調子が良いとか悪いとか、読んだ本が良かったとか大して良くなかったとか、そういうことなんだけど、すごく頑張った時ほど後々むなしくなる瞬間があるのは何故だろうか。

 ギャビン・ライアル『ちがった空』(ハヤカワ文庫)は、文庫では3番目になってるけど実際は著者の第1作目。さすがに最初から『深夜プラス1』(ハヤカワ文庫)の様な傑作を書いたわけではないのだ。
 やっぱり菊池光の訳で読みたかったなぁ、というわかったような事をとりあえず最初に述べておくのは『ちがった空』というなんだかニュアンスのある響きではあるけど、大筋は意味が分からない題名が気になったから。原題は『The wrong side of the sky』で、それもまあ読まないと判らないんだけど、訳者あとがきで意味を説明しているところを見ると、訳者も今ひとつ自信がなかったのかなぁ、と勘ぐってしまう。ところで、本の題名を著作の最後の台詞や文にするのは彼のテクニックなんでしょうか。『深夜プラス1』はそれがまた見事なんだけど。
 物語は諸事情により飛行機乗りの裏街道を生きる主人公が、かつての戦友との再開を機に、盗まれた宝石と関係する冒険小説。さすがに元パイロットだけあって、フライトの描写は見事だけど、それ以外はちょっと筋立てといい会話の流れといい、不器用な感じ。

 今週はこれだけ。読んだ本が少ないのは確かだけど、同時にいったい今自分が何を読んでいるのか、その週に何を読み終えたのが把握できないこともあって、もしかしたら読んだのに記されずに消えて言っている本があってもおかしくない。また少し整理をしなきゃとも思うけど、それは無から本棚を創る魔法に等しいとも思う。

第1週(8/7〜8/13)

 今週は一応読み週記がある。しかし大事なのは更新日記の方である。理由も更新日記である。

 安能務『韓非子』(文春文庫)は読み終えるのにずいぶん時間がかかった。じっくり読むべきなのに電車の中で読んだりでなかなかゆっくり読めなかったので、どれだけ把握できているのか不安である。
 特に面白かったのはやはり最後の方、韓非子が秦の始皇帝の元で韓の国を擁護すべく論陣を張る場面と、その始皇帝の部下になることを拒否した部分だった。
 自らの出生に起因するコンプレックスを力の源としたとも言われる、圧倒的な権力者始皇帝と、彼に多大な影響力を与えながらも、支配のシステムとは離れた場所から法治主義をもたらそうとした韓非子の対立は、そのまま現代の政治社会に於いても当てはまる。
 政治権力と韓非子の言う「法術」の関係が常に矛盾をはらみながら発展している図式は現代に至っても、建前はどうあれ、変化していない。むしろその関係性はより一層緊迫度を増しているのではないか。法術が常に権力者の側ではなく、民衆の側にあること。それを理屈でなく現実として成り立たせるのは想像以上に難しくなってきている。
 同時にもう一つ面白かったのが、中国の歴史における「文官」の存在である。
 ひとくくりに「文官」と称したが、その中身は様々だ。俺が一番印象深く思い出すのは漢の建国の中心人物である蕭何だ。彼は劉邦軍の兵站や法整備に多大な貢献をしたが、戦場で武器を持って武勲をあげるいわゆる「武将」では無かった。
 しかしその功績は大きく認められており、歴史上の偉大な人物の一人だ。日本にはこのタイプの人物で歴史上にその功績が記されている人物が少ない様に思える。せいぜい江戸中期からのこと。蕭何が活躍してからの時間は千年を軽く凌ぐ。
 なんで突然こんな話になるかというと、実は昨日NHKの大河ドラマ『葵−徳川三代』を見逃したことに気付いたときに、ふと石田三成を思いだしたからである。
 秀吉の元で官吏として活躍した石田三成だが、当時の戦国大名達にはあまり人気がなかった様子。自身の性格もあった、としている人もいるけど、戦場ではなく秀吉の元でその能力を発揮したことが、前線に出る武将達の反感を買ったとも言われている。
 後に関ヶ原の合戦においては鎧甲を身にまとい、徳川の精鋭と戦うことになった光成だが、そもそもは戦場において雌雄を決するような立場にあるべき人ではなかったのではないかと思うのだ。
 家康の元で手腕をふるった本多正信、正純親子の権力が広まるに嫌気をさして、本多忠勝を初めとする家康直臣の武将達が関ヶ原以降表に出てこなくなった、というエピソードを何かで読んだことがある。平清盛以降、頭上に天皇を頂きながらも日本を動かしてきたのは武士達が主であることが多い。彼らが政治権力を手にした後、徐々にその中身が貴族化して行くにつれ、また世が乱れて新しい武士達が勢力を握っていく。平安末期から江戸時代にかけての歴史の流れにはそういう側面があることは否めないと思う。
 「武士」達の文化に於いては、「いくさ」こそが信条である。だからこそ名だたる文官ではなく武官達が歴史の表舞台を塗り上げていた。日本の歴史にも有名な「軍師」役の人物達がいるが、たとえば高師直にせよ、直江兼続にせよ、その政治的な手腕だけでなく、戦場でも馬を駆り、戦いに臨んでいた。
 というわけで、中国史が日本で人気を博す理由の一つに、日本とは違う有能な「文官」達の存在があるのではないか、とふと考えたのだ。きっかけは水戸黄門の話題だったんだけどね。

 大橋ツヨシ『かいしゃいんのメロディー』(竹書房)の5巻を読む。いつの間にかそんなに冊数を重ねていてびっくりしたんだけど、このマンガ、未だに声を出して笑ってしまうことがある。なんか一人でいるとそういうことがあるんだけど、このマンガは特にその危険度が高い。たまに「その絵が反則」って思うこともあるけどね。

 高橋しん『最終兵器彼女』(小学館)は、どじでのろまな、いつも「ごめん」ばっかり言っている女の子を彼女にしたら、いつの間にかその子が人間兵器に改造されちゃった、というむちゃくちゃな話。むちゃくちゃな話なんだけど、どことなく今ここにある現実を感じさせるのは、登場するツールや高校生達の男女感なんかではなく、むしろコミュニケーションのもどかしさみたいな物。
 インターネットやらテレビから普通の会話や手紙まで、大量の情報が「コミュニケーション」という擁護の中で増大化し、空洞化している現代において、この「コミュニケーション」の発想なしには何かを語るのは難しい。ちょっと言葉の意味内容が広すぎるので「キーワード」と言うのには辛い部分もあるんだけど、もっと明確に意識せざるを得ないテーマではあるはず。 このマンガでもやっぱりそれが主人公2人を見ていく上で大きな要素となっている。
 今書いていてちょっと気になって面白かったのは、1、2巻を読んだ限りでは、今では非日常的な感すらあるコミュニケーションツールのポケベルと交換日記が全編にわたって存在感を示している一方で、ウィルスのごとく驚異的な広まりを見せている携帯電話が一度も出てこない事。俺は携帯を持ってないので全然違和感がなかったんだけど、今やあらゆるシーンでイヤでも目に入るこのコミュニケーションツールが姿を見せないのは意図しての事かたまたまなのか。是非とも知りたい、と思ったね。

 なんだか予想以上に字数を書いてしまった読み日記。もう疲れたんで以外に淡泊になっちゃうかもしれないけど、今週の本番は更新日記の方だからな。