読み週記 7月

 

第4週(7/24〜7/30)

 今日は訳あって疲労の極にあるため、更新もおざなりである。ホントはそんなに疲れてないんだけどね。

 阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮文庫)は不思議な小説である。元々表紙の写真に使われているお姉さんの色っぽい姿に惹かれて手に取った本なんだけど、裏表紙に載っている説明も挑発的。それでも何となくフィーリングが合わなくてその時は棚に戻した本。
 それでもしばらくしてまた書店に行くと、未だに平積みになっている。もしかして面白いんだろうか、と不安になってやっぱり買ってしまった。店員さんは知ってるのかもしれないけど、俺自身はどんな本だか全然知らないのでなんとなく恥ずかしくなるような写真なのだ。そんなことないか。
 内容は本当にまか不思議。日記スタイルで書かれている物語だけど、語りとしてそのスタイルが良かったという以外にストーリー的な理由が全然判らない。最終的には判るんだけど、それでも今ひとつ説得力に欠ける気がした。
 その分の中身がまたすごい。以前分裂症の患者の妄想のような内容の本を読んだことをここに書いたことがあったけど、今度はまるで人格障害レベル。最近の若い男の子達を見ると(実は昔もあったかもしれないけど)、似たような心性を持ってる人が多いので何となく判るんだけど、読んでてちょっぴり怖くなる。
 読後感としては筒井康隆を思い出さないでもないけど、評価の難しい小説だと思う。どうなんでしょうね。俺ははずれだと思ったけど。

 今週はたったのこれだけ。もっと時間があったような気がするんだけどなぁ。

第3週(7/17〜7/23)

 毎週同じような枕で申し訳ないんだけど、今、「読書の秋」の意味深さに改めて思いいっている。次第に涼しくなるにつれて夜も長くなり、本を読むのに適すようになる、といった考えは正しい。だがそれ以上に、暑かった夏に読めなかった反動、という意味合いもあるのではないだろうか。なにも読めず、未読本がたまる一方である。

 ケン・グリムウッド『リプレイ』(新潮文庫)は青年期以降の主人公の人生が何故か何度も繰り返される、という話。今の記憶を持ったまま人生をやり直せたら、というのはかなりポピュラーな願望ではあるけれど、それがある一定の時期にまた強制的に元に戻される、となると自ずと別の問題が生じることになる。
 一定の期間が繰り返される、という設定は確かに北村薫の『ターン』(新潮文庫)に通じる物があるが、その中身は全く別物。ともに果てしない旅路の虜囚である苦痛は共有しているものの、『ターン』が1日の繰り返しであり、世界に自分以外の人間が全くいないのに対し、こちらは長い年月、しかも当たり前のようにそのほかの人々がいるわけである。
 細かいことをいくら書いて説明しても仕方がない。どちらも圧倒的に読ませ、楽しませる快作であることは間違いない。

 世の中でウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫)を読もうとして挫折した人がどれくらいいるだろうか。圧倒的な世界観には恐れ入るものの、そのイメージの複雑さに負けた読者はきっと多いはずだ。
 正直な話、俺は2度挫折し、未だ敵をとれていない。面白いのは判るし、展開されている世界の雰囲気も好きなのだが、結局読み終えることが出来ない。日常世界からかけ離れた言葉やイメージの連続に、こちらが疲れ切ってしまうのである。
 そのギブソンの『あいどる』(角川文庫)が同じ著者の『ヴァーチャル・ライト』(角川文庫)とつながった話であることは、本を買って家で登場人物評を見た瞬間に判明し、さらにそれが『フューチャーマチック』へと受け継がれる3部作の真ん中であることがさ、最後の解説で明らかになる。
 この新事実がもたらすショックはひとまず置くとして、中身は相変わらず難解である。そもそも主人公がデータの中に「結節点」と呼ばれる特異点を見ることが出来る、という事自体がさっぱり判らない。茫漠としたイメージは伝わってくるものの、そういったディティールがすんなり読み解けないため、ギブソンの面白さを体験できているのか不安になることがあるのだ。
 それでもなおこの本を最後まで読めたのはなぜか。印象としてあの『ニューロマンサー』ほどごつごつしていないような気がするが、そのためなのかも。愛嬌のある登場人物や近未来の東京の描き方など、すっきりと吸収される部分が多くて、それが重要な違いになっているような気がする。
 それはそれとして、やっぱり人に勧めにくい小説である。われわれアナログな人間にとってこの小説を読むことは、泳ぎを楽しむ以前にプールの水の中に全身を浸す喜び、みたいな部分が多くて、そもそも泳ぐのが好きでない人や水が好きなわけではない人には全く向かないのである。
 それでももしこの本を手に取るなら、『ヴァーチャル・ライト』から読むことをお勧めする。読まなくてもこっちは読めるけど。

 最近本を読むペースがぐちゃぐちゃになっている。1日に1冊読んだり2ページしか読めなかったり。この非常識な暑さが早く去ってくれることを望むばかりである。

第2週(7/10〜7/16)

 暑さが人間から体力を奪い、活動性を奪うのは当然のことである。最近は電車の吊広告を読むことすら億劫になってきている。サイドにテーブルがあり、そこによく冷えたビールが乗っていて、チェアで美女が静かに本を読んでいる。そんなプールに浮かんでこちらもただひたすら本を読んだり泳ぐわけでもなく水に浸かったりしたい、というのはもはや願望ではなく妄想でもなく末期症状である。

 安能務『韓非子』(文春文庫)の上巻は韓非子の前期の書であると解説されている。そこで述べられているのは冷徹で現実的な政治哲学であった。信賞必罰の鉄則を中心に、かつての義を重んじる政治思想とはかけ離れたやりかただ。
 のちのマキャベリの論にも通じるこの厳正なやり方にももちろん穴はある。実際にここに述べられたとおりの政治体制を敷くことは不可能であるし、さっき「現実的」と書いたにもかかわらず、実際は現実的ではない。それはあくまでもこれらが理論であり、哲学であるからで、わざわざ言うまでもなく当たり前のことである。
 ただ注意しておきたいのは、ここで述べられるような発想は、あくまでも統治・支配の法則であり、理想論である部分は否めないが、「政治」とは一線を画しておきたい。「政治」の本質が何であるかはすでに多く議論されていることでもあり、その結論はこの理想とは合致しないことは往々にしてあるけれども、そこに人がいる限り、何かが定まったりするわけではないと思うのだ。

 高萩徳宗『バリアフリーの旅を創る』(実業之日本社)はトラベルコーディネータである著者が、障害を持つ人々の旅行について語った本である。現実問題として障害者が旅行をする場合、どれくらいのケアを考慮する必要があり、実際に何が行われているかを知りたくて読んだ本で、その情報も十分にあるのだが、著者の筆からもたらされる事実は障害者に関する事物だけには収まりきらない。
 そこに描かれているのはあまりにも遅れた日本のサービス産業の姿である。この本を読んでより一層感じたことだが、どうも日本のサービス業はレベルが低いように思えてならない。サービス業と言うよりサービスの発想自体が貧弱なのだ。
 「サービス」と言われて真っ先に思い浮かべるのはどういう物だろうか。「グレープフルーツ5個買ってくれたからもう1個サービスでおまけしちゃう」っていうヤツだろうか。あるいは今流行の「サービス残業」ってやつ。
 でもそれらは俺が言いたい「サービス」とはちょっと違っている。もう1個グレープフルーツをくれるのはもう1個つけても儲けがあるからで、もちろんサービスには違いないんだけど、常にそれがそう感じられるわけではない。高枝切り鋏をもう1もらうくらいなら半額にしてもらった方がいい、の通りである。「サービス残業」にしたってそう。会社に貢献しているように思えるし、耳障りも「残業代ももらえないのに働かされる」に比べたらずっと耳障りがいいだけのことである。実際は能力が不足しているか、働きを正当に評価されていないだけのことだ。
 実際にサービスなのは、「もう1個おまけしちゃう」の言葉の部分なのではないだろうか。実際グレープフルーツをまとめ売りした場合は単価を安く設定するので、その時点で買ってくれる客を呼ぶためのサービスは行われているんだけど、「もう1個ね」という八百屋の親父さんの愛想の部分にサービスがあるのだ。
 なんでこんな事を言うかと言うと、要するに町で受ける接客態度が不快であることが非常に多いからだ。実際は慣れてしまってあんまり気にしないんだけど、言葉遣いから給仕の仕方、説明や対応の仕方まで、細かく言っていったらきりがない。「あなたが払ったお金に対してはこの対応が当然ですよ」と反論する人はいるかもしれないが、 同じ値段で人(サービスを提供する側ね)の対応が全く違ったりするのだから必ずしもそうとは言い切れない。直接の対応はもちろん、どんな体制を整えるかも含めて、日本のサービスは質が低い。
 それでも質の低いサービスは提供され続けているわけで、それは日本人のサービスに関する認識が低いからではないだろうか。サービス従事者には賃金も地位も十分に与えられていない。物価の高い東京都内で時給800円で雇われた大学生がどれだけのサービスを提供しようと思うか。狭い部屋に押し込められる女中を(今の時代にはないかもしんないけど)誰が職業として尊敬するだろうか。
 本当に求められる、受けいられる、結果として売り手は利益を、買い手は満足を得られるサービスがもっと認識されてもいいはずだ。

 本が面白くなってつい読み終えるまで読み続けてしまうことがよくあった。ところが最近の寝不足と猛暑のせいでそんな体験ともご無沙汰だったが、北村薫『ターン』(新潮文庫)は久しぶりにすいすい読んで夢中で一気読みをしてしまった。筋立て、筋運びに限られない北村薫のうまさが全編に満ち満ちていて、読み進むたびにただ感心してしまう。
 設定としては特別ずば抜けて新鮮なシチュエーションではないにせよ、のっけから始まる2人称の語り口が見事に読み手を捉える。文章としての新鮮さのみでなく、絶望的に孤独な状況に置かれる主人公の姿を語る際のこの2人称の文体は、絶妙の「密度」をもたらしていて、それが人称の謎と相まってどんどん先へと読者を誘う。物語が急展開する第5章からの文体のトリック(と言っていいかも)と言い、物語のビートを損なわずに終盤へとつなげるうまさは見事だ。
 残念なのは、読後の印象として、名作『スキップ』(新潮文庫)のインパクトを崩せなかったこと。時間軸の中で説明のつかない理不尽な状況に追い込まれる、という同じ根幹を持つ設定の兄弟小説として、前作を意識してしまうのは当然のこと。 結末の付け方も含めて、その当たりをどう結論づけるかがこの小説の宿命であったと思うけど、やっぱり『スキップ』の方がいいかな、と思ってしまう。それによってこの小説単体のおもしろさがいささかも損なわれるわけではないけれど。
 ついでに言えば、この両作どちらも俺は好きだけど、しまいの付け方にはあまり納得がいない、という点。それでも『スキップ』には問答無用で頷かせてしまう魅力があったけど、『ターン』の終わり方は今ひとつ納得がいかない。もっともおそらくは読み手によって意見の分かれるところ。色んな人の読後感をぜひ聞いてみたいところだ。

 

第1週(7/3〜7/9)

 なんと、今週は『週間少年ジャンプ』(集英社)31号のみ。信じ難い週もあったものである。毎週こんな調子で行くなら更新も楽でいいのだけど、内心忸怩たるものがある。とにかく暑くて読むどころではない。完全に暑い夏になってしまうとかえってクーラーの利きも良くなるのだが、今くらいの時期が一番中途半端でいけない。読み週記と全く関係のない話になってしまった。ガモウひろしの作品はいくらなんでも失敗だと思うけど。