読み週記 1 月

 

第4週(1/29〜2/4)

 今日、本屋の文庫の平台の前に立って愕然とした。新刊本などが並んでいる平台の真ん中に、どーんと子供用の絵本が陳列されているのだ。「いつから絵本が文庫になったんじゃー!」とつっこんだりするわけがなく、どこかの誰かが置き去りにした物であるのは間違いなんだけど、なかなか斬新な置き去りの仕方であるのでびっくりしたのだ。一体どんな事情でその絵本が捨て去れれたのか、しばし考えてしまった。

 西原理恵子『サイバラ式』(角川文庫)は、西原理恵子のエッセーの様に見えるが、実際は誰が書いたのかがよくわからない。銀玉親方こと山崎一夫と西原の対話風に話が進み、途中に西原のマンガが入る、と言う構成。対話風ではあるんだけど、基本は銀玉親方の一人称風。彼が西原と話をしながらその人生やパーソナリティを描いていく、という展開をしている。
 西原なりの「自身を語る」気恥ずかしさが、あえて銀玉親方、という人物を語り手に選ぶことで見えているのかとも思うんだけど、一方で文章とマンガは別人が書いてるんじゃないかと思ってしまう。邪推とか裏読み、とかでなく、単純にそう見えてしまうだけのことだけど。でも、著者名にも銀玉親分の名前はないので、やっぱり本人が書いてるのかな。

 発作的菊池光が読みたい病にかかったので、ギャビン・ライアル『本番台本』(ハヤカワ文庫)を読む。元空軍パイロットである著者だけに、この手の航空冒険小説はお手の物。ディック・フランシスも航空物は書いてるけど、それにも似て異なる佳作になっている。
 似ている点として特に興味を引くのが、職業人としてのパイロットの視点のリアリティにある。主人公が若いパイロットに訓練をするとき、彼が緊急事態での操縦でなく、日常的な、些細な故障や不運の重なりで命を落とすだろうと想像するシーン。低い可能性も、膨大なフライトをこなすことで低い可能性でなくなる点を指摘する主人公の視点に、心をくすぐるリアリティを感じるのだ。
 武装もしていない双発機で戦闘機と戦うシーンなど見所も多い。時折一抹のダサさを感じる物の、ライアルの作品の中でも上位に入りそうな名作であると思う。

 結局、その絵本は、すぐ隣に積み上げてあった無料の通販のカタログを読んでいるママが置いた物であることが直ちに判明した。ママに渡したはずの絵本を大声で探しに来た小さな男の子に、イライラした口調でその本を渡し、自分は通路に座り込むようにして無料のカタログを一心不乱に読んでいた。途中中身に欲しい物でもあったのかぶつぶつと独り言を言って、それを聞いた子供が「なあに?」と聞いても耳に入らず、そのまましばらくカタログを読みふけると、子供と目も合わせずにその手を引いて、とっとと歩み去っていったのだった。無料だと喜んでなんでも持ち帰って大事な我が家を散らかしたりはしない、賢い主婦の知恵を学んだ気がした。

第3週(1/22〜1/28)

 最近、週末になると雪が降る。車を運転する友達や、豪雪地帯に住む人、もちろん、首都圏近辺であろうと、雪の被害を受けたあらゆる人には申し訳ないんだけど、雪が降ると嬉しくて仕方がない。ただ残念なのが、いつも降るのが週末になってしまうこと。平日に降ってくれれば、通勤が楽しいだろうに、と思ってしまう。これも職場が近いから言えることで、電車の不安がつきまとう人達にはやはり申し訳ない。でも、雪が嬉しいのは仕方がないことなのだ。

 竹田エリ『私立T女子学園』(集英社)は、元々友達が買っていたマンガだ。だがその友人は3巻までで書くのをやめてしまったので、続きが読めない。別に続き物でなく、ある女子校の生徒達の日常の4コママンガなので、続きを読む必要はないんだけど、なんとなく気になっていた。
 古本屋で偶然4巻を見つけたのであわてて購入。楽しく読み終えたあとも、なんであわてて買わなくてはいけないのかわからないんだけど、続きを見つけたらまた買ってしまいそうで不思議だ。

 出先で本を忘れていることに気が付いて、あわてて探していい本が見つからないときに山本周五郎に救われることが多い。御陰でいつの間にか周五郎が増えてしまって不思議だ。
 『青べか物語』(新潮文庫)は、浦粕、という東京近県の小さな漁村に住み着いた作家の目を通してみた、その土地の人々の暮らしを描いた短編集。周五郎がかつて浦安に住んでいた頃の思い出をデフォルメして描いた物であるようだが、ほぼ現実に存在したであろう、土地の人々を、まさに周五郎が描いている。
 それが不思議であったり、周五郎の巧みな技であったりするだけでもない。たんに彼が、常にそうやって「人間」を描いてきた、というだけのことだ。
 だが、彼らの姿が土地の景色とともに丁寧に語られる事によって、しみじみとその味わいに立ち止まることができる。物語の妙や、ストーリーの展開でなく、素直に彼の目を、心を通した人間達を描くことが、周五郎文学の魅力であることは間違いない。

 酒見賢一『墨攻』(新潮文庫)は、戦国の中国に現れ、秦の成立以後その姿を消した謎の集団、墨子教団の俊英、革離の物語。愛を説きながらも、その主張を完遂するために最強の戦争集団であった、という墨子教団の神秘的な姿を描いた佳作だ。
 新しい教団のリーダーの方針に疑問を抱いている革離は、梁の小城を防衛するために、たった一人で派遣される。人々を指導し、趙の軍勢から城を守るため、黙々と職務に励む彼の知略は、軍師物好きの俺にはたまらない一作。
 でありながらこの作品の面白い所は、単なる軍師物ではない点だ。墨子教団という謎の集団の不気味な性格によって、独特の色合いが加味されている。
 粗末な暮らし、できる限り簡素な葬式を望み、利益のためでなく、戦争によって殺すのは悪である、という思想を成就するためどんな労苦もいとわず働く主人公の姿には、どこか共感できない異様さを感じる。目的意識の違い、異なる指向性を持つ、と考えられなくもないが、その宗教的色合いに釈然としない物を感じるのもやむを得ないところだと思う。
 天才的な才能を発揮し、一人で城を防衛せしむる革離の存在に不気味さと反感を感じる、城主の息子は、普通の物語であれば、力のある主人公を妬む、あるいは煙たがる悪役、敵役として描かれる。その路線は確かにそうだが、一方で彼の方がよほど一般的な価値感にそっていて、人間的なのだ。その奇妙さが、この物語を独特の物にしている。

 雪も降るほど寒い毎日。朝起きるのも、夜本を読み続けるのも辛くなってきた。動物は冬眠をする方が自然なのではないか、と俺は思う。地下の穴蔵、暖かで食料もたっぷりあるところで眠り、かつ読む方がよっぽど自然である。そんな事はないか。


第2週(1/15〜1/21)

 絶不調である。書店に行けば面白そうな本も見つかる物の、いかんせん全く読むヒマがなかったり気力が持たなかったりする。家の奥にあるマンガの再読ばかりで時間を費やすばかり。新しい物を読んでも集中力が持たないし、本などもってのほか。こういう時期がたまに来ることはこの読み週記を読めばわかるんだろうけど、そんな気力も当然ない。元からないけど。

 『まんがくらぶ』(竹書房)は最近読まなくなったけど、その中のお気に入りの一つを書いていたみずしな孝之『いい電子』(エンターブレイン)を友達に借りて読む。息が長く、今ではすっかり題名のファミコンからは遠ざかってしまった物の、いまだにその略称がノスタルジーを呼んでしかたのない『週刊ファミ通』(エンターブレン)で連載されたマンガの単行本。一ページごとの連載に、その中の一こまを抜き出して注をくわえた、ほとんど真っ白のページが交互にくる構成で、無理矢理単行本化したことに疑いのない卑怯な制作者の意図はともかく、中身はアリ。
 かつては、今では安っちく見えてしまう筐体に大枚をはたいてゲームにはまっていたものの、今ではすっかりゲームから遠ざかってしまった、という著者が、ファミ通への連載をきっかけに再びゲームの世界にはまっていく、と言う物。
 俺もそれなりにゲーム世代なのでテレビゲームその他が好きなんだけど、生まれついての不器用さも手伝って、どうも今ひとつはまれない。みんなで集まってはゲームばかりしている仲間達の中で、どこか冷めた目で参加していた気がする。できれば夢中になってたんだけどね。
 そんなわけで、いつのまにかプレイするゲームも減り、いくつか知ってはいる物の、完全なアウトサイダーになってしまった。そんな俺にとっては、著者のゲーム知らずは共感できる感覚。単に著者のゲーム体験その他の垂れ流しなんだけど、こういうのは気楽に読めるので、こんな時期にはよい。

 気楽に読める物ばかり読んでいると、生活自体に張りがない。じゃあ読めばいいんだけど、それがそうも行かないから大変なのだ。読むことがアイデンティティの一部みたいになって、そんな自分に懐疑的でもある今日この頃。人生とはホンに奥が深い。

第1週(1/7〜1/14)

 年明け一発目の読み週記だ。去年はベストの募集もせず、実に地味に年を終えたが、実はこれを読んでくれた人から、お薦めの本を紹介してもらったりして、嬉しいこともあった。継続することにたまに意味がある。

 丁度去年の大晦日に本を読み終えていたので、正月から新しい本を読み始める。思いの外時間のかかった今年の記念すべき1冊目は綱淵謙錠『乱』(中公文庫)の上巻。幕末、明治維新の後、幕府軍の指南役として日本を訪れ、そのまま榎本武揚の軍に身を投じたフランス軍士官ブリュネの物語である。
 実際は物語、というよりも、数多くの史料をふんだんに論じた論文のようですらある。とにかく大量の史料に圧倒される。新政権が樹立される中、フランス公使、イギリス公使、慶喜、薩長の思惑が入り乱れる時代を描く綱淵の手法は素晴らしい。

 スティーヴ・ヤーロウ『酸素男』(ハヤカワ文庫)は、アメリカ南部の田舎で、ナマズの養殖池の酸素を計測する男と、その妹の兄弟の物語。じっくりと腰を据えて語られる二人の物語が、現在と過去を交互に語られながら進んでいく。
 南部の人々を描く小説は、実に数多くある。根強い黒人差別、金持ちの白人とそうでない白人の関係などは、アメリカ独特の文学世界を作っている。
 主人公のネッドは貧しい白人。彼は人種差別教育を奨励する学校で、金持ちの白人とともに育ち、彼らの仲間になることで、陰湿ないじめにあいながらも、その金持ちの白人の元で働き、黒人労働者との間で微妙な立場に立たされる。白人と黒人でありながら、同じ労働者の立場。そんな彼は妹デイズとの間にも、ぎくしゃくとした関係を持っている。鬱屈した男の感情を描いた秀作だ。

 『本の雑誌』(本の雑誌社)の2月号は、ティーンズ小説の特集。富士見ファンタジア文庫、角川スニーカー文庫など、今では必ずしも子供だけのためのジャンルではない、謎のジャンルをひもとく特集は、久々にヒット企画。
 衝撃のニュースは編集後記に登場する。なんと、目黒考二が本の雑誌の発行人から降りる、というのだ。理由は体力的な問題と、執筆活動に集中したいから。執筆活動は続くので、引退とは少し違うニュアンスだが、やはり一抹の寂しさを感じざるを得ない。
 そもそも俺が本の雑誌を読むようになったのは、編集長椎名誠の文章が読みたかったからでしかない。最初は椎名や仲間達のエッセイや、以上に短い編集長のコメントが面白い、読者の投稿欄「三角窓口」、椎名と仲間達の「発作的座談会」が読みたかっただけだった。
 北上次郎であり、藤代三郎でもある、発行人の目黒考二に注目するようになったのは、藤代名義の『戒厳令下のチンチロリン』(角川文庫)を読んでからだと思う。それ以来俺は椎名派から目黒派に(そんなのないけど)乗り換えたのだ。
 だから、俺が目黒考二が気に入ったのは、そんなに長い期間ではない。それでも、過去の『本の雑誌』を読み返したり、椎名誠『本の雑誌血風録』(朝日文庫)を通して、目黒の考えや姿勢に強い影響を受けていたのは確かだ。あれだけ心血を注いだ『本の雑誌』から目黒のにおいがなくなることはないと思うが、それでも寂しさはなくなりはしない。
 新しく発行人となるのは長年編集、デスクを務めてきた浜本茂。彼の名前はもう何年も目にし続けていたし、『本の雑誌』の「におい」を強く意識している人だけに、 『本の雑誌』の魅力が失われる訳ではないと思う。だが、やはり寂しい。一つに時代が終わるのだ。

 昨年の年末、年末恒例の本の買い出しに池袋へ行って来た。大型書店ジュンク堂は今年から売り場面積が倍になり、驚くほどの広さに変貌しつつある。年末に行ったときには、まだ棚ができているだけで本の移動の途中だったんだけど、あれが完成するのが今から楽しみだ。近所の書店はおののくに違いない。
 部屋の片づけをして、久々に床を発見。整理された本が本棚(そのほとんどは、机の下の仮設本棚なので、机の下に足を入れられなくなってしまった)に収納されたので、気持ちも新たに本を読める。でも、無理矢理に本を棚(あるいは棚風の場所)に詰めたので、これから読む本の収納場所はない。こうして同じ苦労がまた続いていくのである。