読み週記 6月

 

第5週(6/30〜7/6)

 人に本を薦めるというのは本当に難しい。ある程度よく知っている人でも、その人にどんな本を薦めていいのか考えてみると、意外に思いつかない物。だからどうしても弾数が多くなってしまう。数撃ちゃあたる理論で力押し。それだけに時々ぴたりとはまったりすると嬉しい。人に薦めてもらうのも同様で、ぴたりとはまったりするとこれまたすごく嬉しくなる。

 ぴたりとはまったとも言えるけど、薦めてくれた人との間ではすでに好みを共有している作家、神林長平の代表的なシリーズ『戦闘妖精・雪風<改>』(ハヤカワ文庫)を読む。薦めてもらって良かったと思えるのは、実はこの<雪風シリーズ>は昔、SFマガジン(早川書房)の連載で何度か目にしていたものの、なんとなく付いていけなくて読み飛ばしてしまい、それ以来苦手意識があって手を出していなかったこと。改めてちゃんと読んでみると、非常に面白くてびっくり。多分連載当時は途中からだったせいで、世界に入りにくかったんではないかと思う。当時の俺にとって、SFマガジンは内容が潤沢過ぎてかえって重すぎたのもある。今ではもっとキツイと思うけど。
 突然地球を襲って来た謎の異星人ジャム。南極に突如として現れた胃星へのワープゾーンを抜けた所にある星に防衛ラインを引き、戦闘機によって姿を見せないジャムとの戦いを繰り広げる軍隊がある。戦術戦闘電子偵察機は、その軍の中でも異彩を放っている部隊だ。「戦闘を偵察し、情報を収集した後、戦闘に積極的に参加することなく、まず帰投を第一目的とせよ」という命令を受けている彼らは、仲間の苦戦にも手を貸さず、部隊が全滅しようと自分だけは生き残る、という条件に見合うべく、冷徹な精神の持ち主。その一人であるパイロット深井零が主人公。愛機雪風を操り、得体の知れぬ敵との戦いを続けている。
 「人間と機械」、「言葉」という神林作品の2大テーマのうち、この小説では主に前者の葛藤についてが主に語られている。愛機雪風を擬人化し、自分たち特殊戦の隊員以上に非人間的な(あたりまえだけど)機械である雪風。変わりゆく戦況の中で、機械として成長し、やがて零との距離を開けていく雪風との相克は、っかいと人間との関係についての葛藤そのものだ。

 薦めてくれた友達は、近所でも有名な猫好き。ハインライン『夏への扉』(ハヤカワ文庫)を初めとして、猫を扱った物語への反応がすこぶるいい。そんな彼にもいいかも、と手に取ったのは、昔SFを読み始めた頃に強い印象をもたらした、アン・マキャフリーの『だれも猫には気づかない』(創元推理文庫)は、中世を部隊にした猫ファンタジー。マキャフリーの決して優しいだけではないが、心に柔らかい雰囲気と、死の直前、公国の名宰相によって後事を託された猫の物語に期待してみると、ちょっとばかり肩すかし。すいすい読めるさわりの良いファンタジーではあるが、読み終えて満足かというと、少しばかり不満も残る。大事な猫が思ったほど活躍しないし、そもそも主人公の出来が良すぎ。あまり悩まず楽しく読みたいときにはいいけど。

 読んでみて、誰彼かまわず薦めてみたい本、というのもある。しかもしばしばある。だからといって実際に誰彼かまわず薦める、ということはあまりない。その人を目の前にすると、なんとなく控えてしまうのだ。特定のジャンルにせよ著者にせよ、最初にハマルと、意外にどんどん読めてしまうということがある。一方で、最初に躓くと、その後せっかく肌に合う物があっても敬遠してしまうこともあるからだ。面白いと思って薦めたらそれがはずれで、そのせいでその著者やジャンルに対して相手に苦手意識を持たせてしまうともったいない、という気持ちがしてしまうのだ。
  もったいない、とはどういうことなんだろうか。よくわからないけど。

 

第4週(6/23〜6/29)

 先週からまたもや話題を引っ張るフランス。今回のコンフェデでは大会の試合中にカメルーンの選手が突然倒れ、そのまま還らぬ人になる、という大事件があった。そのカメルーンが出場した決勝戦はそれはもう感動的、感傷的なシーンの目白押しとなっていた。大会としては比較的凡庸な大会だったと思うんだけど、歴史に残る大会になりそう。静かにフォエ選手の冥福を祈りたい。

 それにしても本当にわからない。まったくなにがどうなってどうわからないのかすらわからないんだけど、一体フランスという国はなんなのだ。どうしてこうも俺の共感から遠いのだろうか。まったくフランス人というやつは。
 アダム・ゴプニク『パリから月まで』(主婦の友社)は、人に教えてもらって手にした本。パリにあこがれ、パリでの生活を夢見続けていたアメリカ人ジャーナリストが、子どもが生まれたのを機に、雑誌『ニューヨーカー』 の特派員としてパリに移住した5年間を綴ったエッセイ集。自称(ホントは他称でもあるんだけど)世界一美しい言語フランス語を嫌う日本人選手権中学校の部に優勝するほどのフランス嫌いの俺がこの本を手に取ったのは、言葉から文学から映画から、なにからなにまで相容れないフランスではあるが、多少は共感の働くアメリカ人の目で見れば少しは理解できるかもしれない、と淡い期待を抱いたこともある。
 エッセイに描かれているのは、パリの人々。その中でも多少限られた層かもしれないが、紛れもない、そこにあるパリの姿である。巨大な外食フランチャイズに吸収されたレストランのエピソードがいい。
 それにしても、やっぱりわからないよ、パリ、というかフランス。様々な不都合に見舞われながらも、ゴプニクはパリへの想いを保ち続ける。色んな人が「いいよ」と言ってるパリやらフランスやらの魅力がどうもわからない。この本でそれらがなにも伝わらないわけではない。何かは伝わってきて、「あれ、いいのかな」と錯覚に陥る瞬間がないでもない。でも結局の所、どうしてもそこにたどり着けないのだ。
 どうしてそんなにもフランス嫌いを主張しながら、こんなにもそこにこだわるのか。色々理由が無くはないけど、なんか、ほら、悔しいじゃないですか、だって。しかも折に触れてなぜかフランス文学とか映画とかその他諸々に手を伸ばしてる時があるんですよ。
 ところで、著者のゴプニクがパリにいた1995〜2000と言えば、まさにフランスワールドカップの時期にどんぴしゃり。本文中にも、あまりにもそのまんまな「フランススタジアム(ル・スタッド・ドゥ・プランスとか日本語で無理に表記したりするんだろうけどさ)」
ネーミングの事が載っている。それなのに、それなのにですよ、お客さん。ワールドカップの話どころか、ゴプニクは広場で仲間とサッカーに興じる息子に眉をひそめ、寝物語にベースボールの話なんかをするわけですよ。まったくアメリカ人というやつは。

 全4巻という長い道のりを経て、ニール・スティーヴンスン『クリプトノミコン』(ハヤカワ文庫)をようやく読み終える。4冊とも電車読書用であったため、時間のかかったこと。
 第二次大戦中と近未来が交差しながら、暗号と政治的干渉の入らないデータヘヴンを巡る物語は、大日本帝国軍が地中深くに埋めた金塊を求める人々の戦いに向けて終息していく。壮大なストーリーだが、途中に、というかほぼそこら中に埋め込まれている小ネタ満載のお遊び心など、ダラダラ読み続けていてもテンションをゆるめずに読むことができる。一つ一つのエピソードをしっかりと読ませることが勝因か。最終巻の4巻には、いよいよ「あの人物」も大物として登場したりして、キャラクター小説としても楽しい。
 それにしても世界がその技術に負うところがますます増えているにも関わらず、暗号屋という人種はなんだかおもしろ不思議な人たちだなぁ。

 コンフェデも終了し、再びちゃんと夜寝て朝起きる日常に復帰。ますます外に出るのが嫌な季節になってくるし、涼しい部屋で本でも読もう。

 

第3週(6/16〜6/22)

 遠い過去が思い出される日々。気が付いたら遙かフランスで、コンフェデレーションズ・カップなるサッカーの国際大会が開かれている。そしてなんとなく早起きor夜更かしでサッカー観戦。ちっとも本が読めやしない。遠い昔、フランス時間に併せてワールドカップに興じていた頃は、試合の後、感想を書いた後は、次の試合までいくらでも寝られる生活だったので、本も好きなだけ読めたんだけど、今はそうはいきません。ああ、フランスは遠い。

 宮城谷昌光『沙中の回廊』(朝日文庫)の下巻を読むと、『介子推』(講談社文庫)も読んでみたくなる。それは、上巻の初めに、物語の導入のように描かれた介子推と士会との出会いが、物語を通じて、そして終盤になってつながることがわかるからだ。この物語の主人公である士会は決して派手な人物ではない。実際には比類無き名将であり、天才的な軍略家であるが、物語の序盤から主君の懐刀や一の軍師として活躍するわけではない。徐々に信頼を得つつも、むしろ最表ではないポジションから存在感を発する男である。そしてまた静かに退いていく。宮城谷昌光が描きたかったのは、ヒーローとして物語を、歴史を接見する男ではなく、己の力量を与えられている環境の中で十全に果たしながら、自らの真義に基づいて働く男の姿であった、と言えるのではないだろうか。

 まだ試合を見ていない、という人の事も考えて、コンフェデの結果については特に触れないが、サッカーと読書が密接に関係している、ということは個人的な真理である。

 

第2週(6/9〜6/15)

 話題が輪のようにつながって行くが、俺は大抵2〜3冊の本を同時に読んでいる。一つは外用の本で、もう一つが家用の本。前者は文庫本が主で、どうしても面白くて手放せない時だけ、もう少し大きな本も持ち歩くが、滅多にない。鞄に入れて持ち歩いたり、鞄を持たなくて良いときは成るべく手ぶらが良いので、手ぶらに本だけを持って出かけたりすることもある。後者はその分単行本が多いが、持ちネタが少ないときは文庫のこともある。成る可くジャンルがかぶらないように気を付けているが、両方が海外のミステリだったりすると混乱するので良くない。持ち運び用は読む時間が限られるので、なかなか進まないから、自宅で読んでいる方の本と登場人物やエピソードがごっちゃになってしまうのだ。
 だったら同時進行で別の本を読まなければいい、という話になるが、外用の本を家で読んで、翌日に外に出たときに忘れる、ということがしばしばあってから、すっぱり両方を分けることにした。ほとんど電車で本を読めずに、結局その日は1Pも進まない、ということもあるが、逆に本を忘れた事に気付いた時のショックは大きい。たとえ、結果その日は読む時間がとれなかったとしてもだ。何を言いたいかというと、今日は別の鞄に本を入れていたせいで、本を忘れて非常に悔しい想いをした日であった、ということだ。

 FBI捜査官マイク・デブリンが活躍する『目撃』(講談社文庫)から始まる一連のシリーズですっかりお気に入りになったポール・リンゼイの新刊『目撃』(講談社文庫)上下巻は、デブリンとはまたひと味違うFBI捜査官タズ・ファロンが主人公の物語。今度の主人公は、子供時代の家庭背景に影がある、有能であるが、犯人を追うことに熱心すぎるほどの執念を持っている。
 という主人公の造形にさほど新味がないこともあるが、この手のサスペンスミステリに対して、どうも気持ちが動かない最近。確かに読みやすく面白いし、終盤の二転三転も非常に巧み。ページを次々と繰って勢いよく読んだにも関わらず、なぜか楽しめた感じが持てないのだ。なんだろう、楽しんで読みながらどこかしらけている。FBIの内部や操作方法などをリアルに描いている点はリンゼイの魅力であり、それはこの作品でも十分に発揮されているのだが、どうも本を読む興奮とは少し距離が開いてしまっている感じだ。サスペンス物にこうも白けた気持ちを持ってしまうようになったのはこの1年くらいの間のことだと思う。それがどういうことなのか、今後の宿題だと思う。

 中国・春秋時代の大国、晋に現れた一人の英雄、士会を主人公にした時代小説『沙中の回廊』(朝日文庫)上巻はずいぶんご無沙汰している宮城谷昌光「名作『重耳』に連なる壮大な中国歴史小説」と銘打たれて買ったくせに、『重耳』(講談社文庫)は読んでいないという天の邪鬼っぷり。前々から気にはなってたけど、上中下が怖くて手が出せなかったくせに、上下巻のコレは読むことにしたのは、単に有名な人よりもその関係者が主人公になった方が読みたかった、というだけなんだけど。
 晋の文公重耳の時代から徐々に頭角を現した士会は、最初武芸者として物語の舞台に登場するが、さまざまな謀臣たちので邂逅を経て、晋の名軍師となっていく。春秋時代というと、武王、太公望で有名な周の時代の中盤で、後に中国は戦国を経て、始皇帝の秦へと続いていく。西暦にすると紀元前8世紀から3世紀くらいにかけてだから、日本で卑弥呼の足跡がしめされる千年近く前ということになる。なんということか。

 話題がどうしてつながっているかというと、外用、家用ともう一つは、仕事に関わる専門書の類だからだ。実はコレが一番外で読みにくい。急いで読みたいときとかにはしかたなく外に持ち出すことも時々あるけど、滅多なことでは外で読まない。なんとなく電車の中で広げ辛いものがあるのだ。読み週記を書き始めてかなり初期の頃に決めたことだが、専門書の類は読み週記には加えていない。時々普通の読み物としても面白い物があるので書いたこともあったかとは思うけど。
  ところが、家で読むとなると、通常の家用の読書の時間を除くとあまり読む時間がなかったり、ゆっくり読めると思うと、つい専門書より他の本を読みたくなってしまうからだ。そんなわけで専門書の類はほとんど読めない。もっと読まないといけないんですけど。大抵は買うけど、遊びの関係で図書館のある施設にしょっちゅう行くようになってから、専門書も図書館で借りることが多くなった。これがまた読み終わらなくて。何度同じ本を借りたことか。ことほどさように読書は難しい。

 

第1週(6/2〜6/8)

 更新をすっかり忘れていたので、どの本をこの週に読んだのか記憶が定かでない。とりあえず確実そうなものだけ書くことにして、あとは来週に回すことにする。

 久しぶりの北原亞以子『江戸風狂伝』(中公文庫)は、購入してからしばらくもったいなくておいておいた。そこまで気合いを入れて読むほどなのかよくわからないが、面白く読んだ。江戸時代、職人・商人・芸人など、いわゆる町人たちの意地とプライドを通した人々について語った短篇集。身代をつぶすことも厭わず、お上の処罰も恐れずに、もしくは恐れつつもなお、自分の道を通すことに全てを書ける人々の物語である。武士道とはまたひと味違う、彼らの心意気が題材になっているあたりが、いかにも北原亞以子らしいテイスト。それぞれの道を行く人々には、それぞれのプライドがあるのだ。

 前回、本のカバーの話を書いたときに、外で自分の読んでいる本を知られてしまうことについて書いた。多くの場合俺は自分の本がなんであるか知られようとあんまり気にならないというか、それよりも面倒くささの方が先に立つので、大抵は気にしない事にしている。実際、電車で他の人が読んでいる本なんて、他の人が気にするの?と思ったりしていたが、よく考えてみると、自分は結構人が何を読んでいるのか注目してしまうことに気付いた。電車に乗ったとき、まず最初に考えるのは、読書スペースをどうやって確保するか、どこでどうやって本を読むか、ということなんだけど、なんだか立って本を読むのが面倒くさかったり、とても本を出せないような状況だったりして本が読めずにヒマになると、他の人の本が気になる。そんなとき、本にカバーが掛かっていて、しかも本の背中しか見えなかったりすると、本の情報が得られrず、せいぜい、「あ、あそこの書店で買ったのか」ということを感じたりする程度だ。立ち位置によっては、本の中身が見えることもあるので、ついそこからなんの本なのかを当ててみたくなったりする。
 知っている本や作家を読んでいる人をみかけると、やっぱりその人本人にも興味が移るという物
やっぱり、今自分が気に入っている著者の本を読んだりしていると、親しみを感じたりするもので。
 ああ、なるほど。だからみんなカバーするのか。