読み週記 2月

 

第4週(2/24〜3/2)

 2月は日が少なくて短く終わる、という事実を生まれて初めて実感した気がする2003年。風邪をひいてすっかりぐったり低調の一週間を過ごしました。終わり。

 ジョー・R・ランズデールの初期の作品『モンスター・ドライブイン』(創元SF文庫)は、翻訳で読んで今まで知っているランズデール作品とはまた一風変わったホラー。B級映画のようなトンデモ系の展開にただただ、どうなるんだろうとページを繰るばかり。慣れてないジャンルだというのもあるけど、一体何がどうなってるんだかさっぱり、というまま、異常な世界を主人公の少年が味わうストーリーだ。
 舞台は、主人公達がいつもの週末を過ごすドライブインシアター。 B級のスプラッタ映画を眺めながら、仲間達と毎度の週末を過ごしていた主人公だが、突然、ドライブインシアターが謎の暗やみに包まれ、脱出もかなわず、閉じこめられた人々に徐々に狂気が襲いかかる。ばっさりと経過を飛ばしながら、異様なストーリーが展開し、まさにランズデールがかつて楽しんだのであろう、無茶苦茶なホラー映画さながらの狂態が繰り広げられる。もちろんこの小説は決してB級ではなけれど。ジャンルをまたがり、レンジの広い作風のランズデールだが、通底している主人公の純粋さみたいなものは、ここにすでに現れている。

 今年の俺の風邪の特徴は、とにかく眠くなることです。寝ているときも起きているときも、しょっちゅう眠気に襲われて、仕事中であろうがサッカー観戦中であろうが、少しでも隙間があるといけません。でも、眠気に関しては普段とそんなに変わらない気もしました。終わり。

 

第3週(2/17〜2/23)

 寒い季節は朝起きるのがまた一段と辛い。そのせいか夜もすぐに眠くなることが多いので、読書が進まないこともしばしば。が、面白い本に浸ってそのまま眠りにつき、目が覚めると銀世界、という幸せが味わえるのもこの季節だけだ。北の人間じゃないからこんなのんきなことが言えるんでしょうか。

 

 ロバート・J・ソウヤー『フレームシフト』(ハヤカワ文庫)は、手にとって読み始めたのはずいぶん前だったんだけど、なぜかそのまま置き去りになって、再び読み始めた。物語の全貌も何もわからぬ状態で止まっていたので、もう一度読んで不思議な気分だったけど。
 ハンチントン病、という不治の病の遺伝子を受け継いでいる可能性を知った遺伝子学者ピエール、と不思議な能力を持つ彼の恋人。死に至る病が何時発病するとも知れぬ恐怖に立ち向かうエネルギーとして、ピエールはノーベル賞の獲得を目指して、日夜研究に励んでいる。
 ヒトゲノム計画に携わる彼の物語の背後には、ナチのユダヤ人虐殺犯の知られざる物語が隠される中、闇に包まれた陰謀、死と生命の謎につつまれたスリリングなSFサスペンスであり、生命の感動物語でもあり、ある愛の悲喜劇でもある。生命という大きなテーマの中で、SF的なギミックだけでなく、エンターテインメントとしても単純にどっぷり楽しめる一冊。門外漢には遺伝子についての記述や研究はさっぱりわからないけど、それでも十分に楽しめる、という意味では、SF読み以外にもすすめられる。

 この1年くらい、再び神林長平の本を読む機会が増えた。『永久帰還装置』(ソノラマ文庫)は、突如火星に現れた、「永久追跡刑事」と名乗る男と、現実の外から現れた様な謎の男と関わる火星の人々が、自分の存在を揺るがされながら、「ボルダー」という悪しき存在、もしくは隠された陰謀と戦う物語。異世界である火星に登場した主人公が、その世界に合わせるように自己の存在を構成していくスタートから、読者は神林世界へとひきこまれて行く。
 永久追跡刑事と関わり合うことで、自分の存在が揺るがされる恐怖を味わう火星の戦略情報室の面々と同様に、読者も又、自分の読んでいる物語の何が真実で、何が幻想であるのか、作り事であるのか、という自体に直面する。積み重ねられた言葉によって、現実が不確かな物にされていく快感が味わえると同時に、神林の持っている「物語心」も存分に味わえる、という意味では、神林文学の中でも秀作と言えるのではないだろうか。

 

 雪が嬉しい理由の一つに、雪が、普段の自分の世界を静かな、ちょっとした別の世界に変えてくれることがある。雪に音が吸われ、毎日見て、歩いている世の中が、ほんの少しその姿を変える。全く新たな世界ではなく、この「ほんの少しいつもとちがう」というねじれ感覚がいいのだ。心地よい違和感と、降りゆく雪の粉でつくられた世界をもう少し味わっていたい。

 

第2週(2/10〜2/16)

 単行本は収納するにも場所を食うし、ポケットにはとても入らないので読む場所やタイミングを選ぶ。でも本というと単行本のイメージがあるし、文庫ばかり読んでいると、なんだか不純な気持ちになってしまうから不思議だ。
 一方で単行本がならんでいるのを見ると、そのこった装丁だけで手に取りたくなる物も多い。もちろん文庫にも優れた物があるが、やっぱり単行本にはかなわないだろう。ぱっと目を引くものから、本の中身や雰囲気をスッキリと示してみせるものまで様々。だが同時にそれは書籍が読者の元に届くかどうかの明暗を分けかねない重要な入り口でもあるのだ。

 顔を隠された男のが表紙になった、ランディ・スター『俺、死刑になるべきだった?』(花風社)は、NGRI(NOT GUILTY BY REASON OF INSANITY)、つまり精神異常の理由により無罪になった経験のある著者が、医療福祉の制度の中で立ち直り、自らの生還を語るノンフィクション。自分に関わり、劣悪な成育史を持つ自分を救ってくれた制度と心理士や精神科医、ソーシャルワーカー達との関係について詳しく述べられている。読んでいてちょっと奇妙な感覚があったのは、どこか浮世離れしたような、洗脳後めいた感覚がちらほらと感じられてしまったから。訳の問題なのかどうか、よくわかんないけど。確かに優れた福祉制度が発達しているけど、その効果は相当の変化をもたらす、ということなのか。あるいは読み手が素直でない、というだけなのか。

 なんとなく淡々と読み続け、今ひとつ物語世界に没入できぬまま読み終えてしまったが、ディテールや時代背景の魅力そのものに結果として引き込まれたのが『1492年のマリア』(講談社)だ。終盤、ヒロインのマリアの壮絶な選択あたりからストーリーに迫力がようやく出てきた、という感じ。あとがきを読むとわかるけど、著者の西垣通は小説家ではなく、コンピューターと情報学の学者さんでした。
 こういう形のエンターテインメントがあってもいいとは思うけど、休みも多い週で物語世界にどっぷりと浸かりたかった俺としては、脳味噌の別の部分を刺激されてしまったが故に消化不良の一冊。
 1492年は、コロンブスのアメリカ大陸到達の年。しかし、その背景には大国として完成されつつあったスペインのユダヤ人迫害、そして異教徒の弾圧があった。物語そのものよりも、小説というツールを使って著者が語りたいことを語れていたか、という点がおそらくこの本の評価をわけるはず。

 装丁を意識的に注目するようになったのはここ数年だと思う。街に出て様々な洋服を眺めるように、書店でブックカバーを眺めるような生活をしている。なるほど、毎日のように書店に通っても飽きないのはそういう理由もあったのか。

 

第1週(2/4〜2/9)

 本には人それぞれ想い出がある。本そのものについての記憶だけではなく、1冊の本を通して知り合った人や、読書体験にまつわる想い出が。これはどんな楽しみについても言えることなんだろうけど、本についても、人々は色んな「お話」を持っているに違いないのだ。
  本屋で待ち望んでいた本の続巻を見つけた丁度その瞬間に、意外な人と再会した想い出、子どもの頃、友達との旅先でみんなが寝てしまい、自分だけ取り残された想い出ふと手に取った本が面白すぎて、一人さらに夜更かしをしてしまった記憶。本好きとして、沢山の本を見つけて読みふけるのも楽しいのだが、人々のそんな、本にまつわる想い出を聞いてみるのも楽しい。
 先日、風邪で一日ぐったりとしていたとき、何もする気が起きなくて一日を布団で本を読みながら過ごしたときに、子どもの頃、風邪で学校を休んだ日に、高熱の下で読みふけった本達の記憶が甦ってきたことがあった。これも折に触れて思い出される、読書の記憶だ。

 ローレンス・ブロックの<マット・スカダーシリーズ>を読み始めたのは、半年くらい前のことだと思う。仕事の後、「これが俺のクオリティタイムだ!」と妙なテンションでジュンク堂に向かい、以前は休みの日に行っていた大型書店巡りを退勤後に敢行したことがある。その時にシリーズの序盤をあらかたそろえたのだった。事前にろくに調べもしなかったせいで、シリーズ代表作『八百万の死にざま』(ハヤカワ文庫)の記憶をたどってハヤカワ文庫の棚を探してしまい、まさかシリーズのほとんどが二見文庫から出ているとは知らなかったために、えらく遠回りをさせられてしまった。
 読み始めた当時、バリバリのアル中で毎日酒におぼれ、別れた妻の元に送金を続けていたスカダーだが、「倒錯三部作」の最後にあたる『獣たちの墓』(二見文庫)では、AAの集会に通い続け、三部作で知り合った新しい仲間達に囲まれて新しい人生を歩んでいる。
 残虐な誘拐事件を捜査することになるスカダーは、前作に続いて自分自身の正義を再び考えることになる。自分の感情から少し距離を置いたような視線を少しずつ揺らがせながら、黙々と捜査にあたっている。

 衝撃的な犯罪が続き、三部作を終えたシリーズの次の作品は『死者との誓い』(二見文庫)だ。今度はこれまで続いていたよな凄惨な殺人事件ではなく、街角の公衆電話で偶然にはちあわせてしまったような通り魔殺人に見える殺人事件。犯人として街のホームレス風の男が逮捕される、という物語。
 かつてのシリーズ作のように、さほど派手でない事件を追う中で、スカダーの人生はまた大きく方向を決めていくことになる。スカダーももう若くはないし、「ちょっと展開が早いんじゃないの」と思ったりもしないでもないが、こうしてシリーズはまた新しい局面を迎える。一つの時代の終焉と、もう一つの時代の始まり。ブロックは、スカダーという主人公の変転を通して、ハードボイルドミステリの変転を描いているようにも見える。

 本にまつわる記憶だけでなく、本から呼び覚まされる記憶もある。人に教えてもらった佳作、湯本香樹実『夏の庭』(新潮文庫)は、一人の老人との出会いを経て、小学校時代から旅立っていく子ども達の物語。こういうものが平気であったりするから、児童文学は油断がならない。
 物語の展開からして、終盤に何が起こるのかは言わずもがななのだが、あえてハッキリとは書かない。ただ、この物語を読んで思い出したのは、俺自身の祖父との別れのことだ。その時俺は『夏の庭』の主人公達より1学年上、中学生になって間もなかった。ただ、彼らと違って、俺は祖父との色濃い想い出が今思うとさほどなかった様な気がする。むしろ想い出として匂い立って来るのは、祖父よりむしろその周りの人々との記憶だった。
 
それにしてもまぁ、なんと年をとったことか。

 テレビではよく「想い出の曲」というのをやっている。音楽が様々な過去のイメージを喚起するのはよくわかる。音楽が、社会的な、あるいはより個人的な時代を象徴するかのごとく記憶される、ということなのだろう。
 本の想い出、本から導かれる記憶は、それほど大がかりなものではない様に思う。甦るのは「時代」ほどだいそれたものではなく、ほんの小さな出来事、たった一人の人、印象的な一日の残照に過ぎないことが多い。べつにそれで良いのだ。より個人的で、話を聴いただけでは共感できないようなものの方がいい。思いもよらぬ本が、誰かの思いもよらぬ想い出に結びついていたり、全く知らない本が、誰にでもあるような美しい記憶に結びついていて、その話を聴くことで、また自分が新しい知らない本と出会う。それがまた面白い。