読み週記 4月

 

第3週(4/21〜4/27)

 全4巻で完結したハズのアーシュラ・K・ル・グウィンの<ゲド戦記>(岩波書店)にいつの間にか新刊が出ていたのは巷の一部ではすでに有名な話。ハリポタブームだった頃(今でも?)、「あんなのより<ゲド戦記>や<指輪物語>の方がよっぽどいい!」と力説していたにもかかわらず、<ゲド戦記>についてほとんど記憶がないのが不思議でならない。

 ドゥニ・ゲジ『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』(角川書店)は、乱暴に表現してしまうと『ソフィーの世界』(NHK出版)の数学版。長く離れていた友から、突然山ほどの数学の歴史的著作を送られたフランスの書店の主と、彼の家に家族としている子どもがのみの市で見つけた鸚鵡の謎と共に、数学の歴史が語られ、ミステリーとして、数学史をひもとく一冊としての小説である。数学についての記述は途中からどんどんわからなくなってなんだか難しい感じもするが、収束の仕方は普通にミステリとして読めるので、読んでいくのが大変に時間がかかるが、なんとなく賢くなった様な気分で読み終えることが出来そう、という意味ではまあ面白いかも。数学好きの人は是非。主人公の書店主は哲学畑の人で、数学者である友人と有る場所でははまり、有る場所では相容れず、という過去を持っているんだけど、もうすこし哲学寄りに数学を考えても面白いと思ったんだけど。様々な数学者が、その理論だけでなく、人間として浮かび上がってくる面でも楽しめる。でもやっぱり仏文とは合わないなぁ。

 といったわけで、『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』に何週間もかけたせいで、すっかり読み週記の更新では「読み終えた本なし」の状況が続いたけど、先日から<ゲド戦記>の第5巻『アースシーの風』(岩波書店)を読むべく<ゲド戦記>の再読にはいるため、またもや読み週記は内容が乏しい感じになる予想。

 

 

第2週(4/14〜4/20)

 2003年4月という月は、悪夢の月として一生記憶されるに違いない。これだけ長い期間一冊の本も読めずに日々を過ごしていたことがかつてあっただろうか。
 あったかもしれないけど、とにかく全然読めない。今読んでる本が難しかったり長かったり、おまけに季節が変わり、コートが着られなくなったせいで本が持ち歩けなくなり、早速忘れてまた別の読みかけを造ることになったり、と言い訳は数多い。何で自分が本を読まないことに言い訳をしないといけないのかよくわからないけど、とにかく夜遊びばっかりしてるからちっとも本が読めないのだ。いや、そうでもないか。

 とにかく、ここまで本が読めない日々を過ごしているところをみると、俺はなにか悩みがあるに違いない。それできっと夜眠れずに、本もちっとも読めないのだ。そうに違いない。きっとそうだ。大変なんだ、俺。

 というわけで夜はよく眠れます。というか、寝るのが遅いので、朝でもよく眠れそうな気がします。

 季節が変わって来て、コートが無くなると、ますます本が読みづらくなる。電車の中で重い鞄の中から本を取りだして、駅で降りるときにまたしまって、という面倒くさい作業をまた行わないといけない季節になってしまったのだ。困ったことである。

 

第1週(4/7〜4/13)

 このまま一冊の本も読めないまま死んでしまうのではないかと思うくらい、本が読めない。風邪は大分良くなった物の、今度はどういった訳か飲みに行くことが続いて、すっかり毎晩の様に酔って変える日々を週の後半に過ごしてしまった。読んでいる本はいつまで経っても読み終わらないし、おまけに次第にあったかくなってきて、文庫が楽々収納できるコートともお別れの季節になってしまった。これから先、私はやって行けるんでしょうか。

 そんなわけで、今週は読み週記の更新をしても、一冊も本を読んでいないので何も書くことがない。困ったことだ。別に読み週記を更新するためでも何でもなく、単純に一週間に1冊くらいの本は読みたいと思ってるんだけど。

 よって気晴らしに本関係のネタを一つ。『カラフル』(理論社)ですっかり個人的注目作家になり、色んな人に同作を薦めまくってるのに、実は自分は『カラフル』の想い出を壊せずに、他の本は一冊も読んでいない森絵都が、友人に聞いたところ、都内の某書店で、男性作家のコーナーの置かれていた、という話。
 男性だか女性だかわからないペンネームの作家とか、性別とはそぐわないペンネームを使う作家というのは少なからずいて、森絵都もただ見ただけでは男性か女性かわからなくもあるけど、この人は女性だと思うんだけどどうだろうか。

 全然関係ないけど、ジェイムス・ティプトリー・Jr.というSF作家がいるが、この人はしばらく自分が女性であることは内緒にしていた。という事実をある本の解説で読んだときの衝撃が未だに忘れられない。なんと、その解説を読むまで「ジェイムス」というファーストネームが男性の名前だという事に全然気付かなくて、ずうっと著者は女性なんだろうと思っていたのだ。
 コレはおそらく、すでに著者が女性であることを知っていた訳者によって翻訳された物を読んでいたからなのか、なんなのか理由がよくわからない。今持って謎である。「ティプトリー」が女性っぽいじゃん、というてきとうな理由付けをしたりもしてるんだけど。

 作家の性別というのは、果たして作品を読んだだけでわかるものなのか。そもそもの著者の名前から、著者の紹介や内容紹介で触れられる著者の略歴、あるいは腰巻きなんぞで、読む前から著者の性別がはっきり(時にはなんとなく)わかってしまうことが多いけど、果たして知らずに読んで著者の性別というのはどれくらいわかるものなのか、というのを一度調べてみたい。

 というわけで、かつての北村薫を超えるような、性別不肖作家を大募集である。実験として試してみたい気持ちが一杯です。