読み週記 4月

 

第5週(4/30〜5/6)

 先週に続き、GW特集で拡大版風。実際は火曜から月曜までで、一週間分なんだけど。
 今年のGWは間に休みが入ることもあって、細切れに用事が入り、あまりゆっくりは過ごせなかった。その分、夜遅くまで起きていられる日が何日かあった御陰で、本が読めたりも。以上に早起きだったり、夜中まで遊んでたりで、生活はめちゃくちゃですが。
 夜中まで本が読めるのは本当にありがたい。興が乗ってくると、本を手に持ったまま暗い台所に行って氷を持ち出し、酒を飲み始めたりするとまた読むのが止まらない。子どもの時に妙に夜更かしをして、一人家の中をさまよって喜んだりする瞬間を思い出す。「好きなだけ読めるのだ!」という興奮。

 イアン・M・バンクス『ゲーム・プレイヤー』(角川文庫)は、カバーイラストが松本零士。子どもっぽい本の作りながら、中身は芸の細かいスペース・オペラ。生活が保障され、人々はゲームに興じている世界の天才ゲームプレイヤーが、あるゲームによって全てが決められる世界へ旅立つ、というやはり子供向けっぽい設定ながら、実際に読んでみると、そんな子供だましのスペースオペラではない。楽しいSFの姿と、生々しい世界観の影の部分が共にある、読み応えのある一作だ。登場するゲーム達がまた面白そう。とてもふだんの生活の中で軽くできるような物ではないけど、一度ハマるとのめり込みそうな肉厚たっぷりのゲームがでてくるのも楽しい。

 『悪魔の涙』(文春文庫)を買ったときには、前に読んだことがあると思っていたけど、どうやら思い違いだったらしき、ジェフリー・ディーヴァーの『死の教訓』(講談社文庫)は、上下巻をたっぷり一気に読ませるノンストップ・サスペンス。主人公は、過去に自らの過失によって部下を死なせてしまった過去のある凶悪犯罪の捜査官。一つの大学によって経済を支えられるような小さな町の保安官事務所で働いているが、その町ではめったに出会えないような凶悪犯罪を操作することになる。
 物語はこの殺人事件と平行して、資金難に苦しむ大学の裏の物語と、実はLD(学習障害)という発達の障害を持った子供を持った主人公の家族の物語が進んでいき、後にそれらが絡み合っていく。
 もちろん面白く一気に読みながら、同時になぜかうんざりしたような気持ちにさせられたのはなぜか。サスペンス小説の傑作であるのは確かだが、同時になにか「サスペンス小説」というジャンル自体に対する退屈な部分を見せられたような気がしてしまったのだ。
 このページでは再三、物語を読む楽しさについて語ってきた。扱っている題材や思想、作者の主張や、好奇心を満足させるような情報、そしてその文学性など、フィクションを読む中で大事な要素はたくさんある。そのどれもが重要ではあるが、その根本には「物語を楽しむ」という一番大事な点がある、ということだ。どんな小説を読んでいても、その「物語の楽しさ」にあふれている本は楽しい。
 優れたサスペンス小説を読む時に、次から次へとページをめくっていく感覚は楽しいが、ふと「物語を読んでいる」という事実を確認したときに、なにか醒めた、求めている楽しさとは違う物を感じ取ってしまうのだ。「ジェットコースター・サスペンス」という表現があるように、一気に流れに乗りながら読み進んでいく楽しみがある一方で、その物語世界、お話のなかに深く潜っていく楽しみがある。ディーヴァーを初めとするサスペンスの名手達の作品で感じるのは、その前者の感覚に近い。そうやって夢中になって本を読みながら「消費」という言葉が頭に浮かんでしまうことが、今回あった。それでこの作品の面白さが否定されるわけではない。ただ、なにかむなしさに似た物を感じさせられる瞬間があった、というだけのことだ。
 もちろんこれは、作品の中で一つの大きなトピックになっているLDが、個人的に冷静に本を読ませる要素であったことも否定できない。よって、サスペンスについての考察は、また今後におく。

 魅力的な装丁が気をそそる、新潮クレストブックスの一冊、イアン・マキューアン『アムステルダム』は、新だ女性の過去の恋人達が、不思議な関係で結ばれ、離れていく物語。社会的な地位を持ちながら、どこか人間的な弱さが隠された男達が、一つのきっかけから壊れていく。壊されていくのは友情であり、仕事であり、個人の尊厳でもある。
 淡々と、残酷に語られる物語は実に良くできているが、奇妙だったのは、終盤、クライマックスの直前に一文だけ、急に視点が強引に動かされるところがあるのだ。物語はほぼ全編に渡って、女性の過去の恋人である二人の男に寄り添うような視点で語られる。ところが、その一文だけ、その二人、ひいては物語自体を高見から鳥瞰するような語り口になっている。そしてまさにその一文によって、このフィクションの持っている寓話性が強調されてしまっているのだ。
 もちろん物語を寓話として捉えることはできる。しかしその文脈でストーリーを振り返ることは、この小説自体の持っている深みのようなものを、あえて薄めてしまうような効果があるように思えるのだ。作者がどのような意図をもってこの小説を書き、そのなかにこの一文を加えたのか。他の著作を読んでみないとわからないような気がするが、御陰で本を読み終えたときには、充実感と一緒に違和感を残してしまった。

 実際には、思っているほど好きなだけ読めるわけではない。翌日、どんなに遅寝をしようとも、やるべき事はあるし、その翌々日のことまで考えてしまったりする。夜中の1時くらいに布団に入って、翌日の昼の12時くらいまで読み続け、死んだように寝てまた読み始める、という生活はなかなかできない。そもそもそんな生活をしたいと思ってはいけないのかもしれないけど、たまにはとことん「好きなだけ読めるのだ!」と心底思ってみたいのだ。

 

第4週(4/22〜4/29)

 今週の読み週記は、一日分拡大版。連休の祝日を加えて、一週間と一日の分だ。
 木陰で読書ネタから引き続き、もう一つ日常から外れた読書空間として、風呂が上げられる。半身浴で読書、というアイディアをもらったが、確かに有効かも知れない。これは半身浴自体を試したことがないので、何とも言えないけど。
 半身浴なんてのを聴くようになったのはここ数年ではないかと思うけど、我が家は給湯器の関係で、熱いお風呂に入る機会が少なく、面毒臭さも手伝って、シャワーが多いため、ゆっくり湯船に浸かる機会は全身で味わいたくなってしまう。浴槽にお湯を入れるだけで時間がかかるので、滅多に味わえない小さな幸せである。
 幸せを腹一杯味わいたい、という人間の性が災いして、「湯船でゆったり空間」に色々なものを持ち込みたくなってしまう罠。ゆっくり湯船につかる、というのは贅沢に時間を使う幸せ体験なので、風呂上がりのビールまで含めてとにかくいい環境を作りたくて欲張ってしまう。
 風呂で読書、という人は意外に多い。当然湿り気を覚悟しなくてはならないので、雑誌や文庫本が主流になるが、幸せ空間に読書がもたらされれば言うことがない。その日の仕事も全て片付けて、あとは飲んで寝るだけ、という状態から、風呂の前にCDデッキを用意し、湯船に浸かる段階でCDをかけ、扉越しのJAZZを聴きながら、湯船でゆったりと読書。本をタオルでカバーしたり、一回体を洗ってからCDをかけて本を取って、と準備段階のせせこましさが端から見ると可笑しいが、頑張ってちいさな至福の時をつくるのが素晴らしい。 風呂上がりにサッカーの試合でも見ながらビールを飲み、翌日が休みで、また布団で読書の続きに戻れればなおさら良い。

 翌日を気にせずじっくりと浸りこむ、という読み方が出来れば文句無しのファンタジー。これが普通に仕事のある毎日だと、睡眠時間との戦いになる。
 ハンス・ベンマン『石と笛』(河出書房新社)のは、2分冊になった第3部の上下巻で完結する。腰巻きにも「ドイツ・ファンタジーの最高作」と書かれているが、著者のベンマンはあくまでも「これはメルヘンだ」と主張している。ファンタジーとメルヘンの違いについて、3下巻末尾の訳者による解説で語られているのでここでは触れないが、「メルヘン」という著者の意志は尊重したい。このページでも再三「ファンタジー」と紹介してきたが、それは物語の世界観が、我々が認識しているファンタジーの世界(魔法や人間と会話する動物たち、時代の雰囲気など)であるためで、ベンマンの作品は一貫してメルヘン作品である。
 和らぎの笛匠の孫である聞き耳の人生の物語は、いよいよ最終章に入る。しかし、この物語の副題にもあるとおり「これで全てではない」のだ。一連のストーリーから多くの寓意を探ることも出来るが、メルヘンの物語として、単純に「お話」を楽しめる傑作だと思う。流行にのるわけではないが、せっかく品物が手に入りやすい時期だけに、トールキンの『指輪物語』(評論社)、ル・グィンの『ゲド戦記』(岩波書店)と合わせて、この手の文学を読むときに通るべき作品であるはずだ。

 「うそばっかりえどのはなし」と読み仮名がふられた、北原亞以子『贋作 天保六歌撰』(講談社文庫)は、歌舞伎や講談で有名な「天保六歌撰」の北原バージョン。俺のように元のキャラクターを全然知らなくても十分に楽しめる。むしろ、解説を読んでみると、この本を読んだせいで元のキャラクターに親近感を持てなくなってしまうのではないかと言うくらい、人情味あふれたキャラクターが生き生きと活躍している。
 主人公は、飲み屋での話から、貧乏ご家人の婿養子になった片岡直次郎。強請、賭け事、美人局などで稼ぎを立てている主人公が、いつの間にか病弱で世間知らずな嫁にはまりこんでいく。
 北原文学はどの作品でも、噺家の名人芸を聴いているような幸せな気分にさせてくれる。連作短編となっているこの作品でも、愛すべき登場人物達の、必死に生きている様が共感を呼ぶ。

 ついこの間CIAに関する本を読んだから、とういわけではないが、書店の罠に引っかかるかのように手に取ったのは、W・サリバン/B・ブラウンの『FBI 独裁者フーバー長官』(中公文庫)だ。FBIの捜査官時代から一貫してフーバーのやり方を批判し、それでもなおFBIへの愛情ゆえにその指示に従い続け、ついには対立しながらもFBIのナンバーツーにまでなったサリバンが、FBIとフーバーの内情を暴露した物。
 まさに独裁者たるフーバーの悪者ぶりが、深刻な社会悪でありながら、どこかユーモラスに写るのはなぜなのか。悪人でありながら、政治家、策略家としては一流であるフーバーのやり方は、FBIを愛する人間であればあるほど、その根本を揺さぶるような非道さであったと思う。作中、サリバンや連携を疎まれた他機関の人間などが感じる憤りに共感しつつも、そうまでして自分の地位と権力、そして思いこみにも似た観念を守り続けるフーバーの小人っぷりが、どこか哀れでもある。

 小さな幸せこそ、守りたくなる。簡単に手が届きそうでありながら、決してそうではないから小さな幸せなのだ。日常化した幸せは、幸せと感じられなくなるからだ。木陰で読書も、湯船で読書も、それが日常化したら、さほどありがたいと思わないかも知れない。むしろそれに飽いて、自らその幸せを捨ててしまうかも知れないのだ。もちろん、日常の少し先にある幸せを手に入れ、それに満足してまた次の幸せを求めるのもいいだろう。それを野望として抱きながら、すぐそこにある小さな幸せを楽しむことも悪くない。

 

第3週(4/15〜4/21)

 前に書いた木陰で読書について。「やっぱり周りの人が気になって読書にならなかった」というご意見を頂いた。滅多にリアクションが得られないHPなので感動する。
 色んな人に話を聞いてみても、木陰で読書の成功例は滅多に聞けない。 単に俺が話を聴く相手の範囲が狭いだけかも知れないけど、やっぱり難しいのではないか。通常の読書とは別の体験と考えるのがいいのかも。ちなみに、公園で子どもを遊ばせたままの読書は思いの外読書としては成功する、という話は聴いたことがある。この場合問題は、子どもを無事に遊ばせて遊ばせる、という点には失敗しがちであることだ。

 『本の雑誌』(本の雑誌社)5月特大号を読んだが、編集後記を読むまで、特大号であることにさっぱり気付かなかったダメな俺。突然宮部みゆきのオールタイムベスト10とかが登場して何かと思ったが、そういうことらしい。特大号らしく久々に発作的座談会が行われているが、内容はいまいち。なんか昔と変わったなぁ、と感慨を深める。そういえば、『本の雑誌』を読み始めたのは、本への興味よりも先に、発作的座談会が面白かったのが理由だった。大人になってから新刊の書評を読み直してみて、ずいぶん面白そうな本の情報を素通りしていた事に驚く。

 ハンス・ベンマン『石と笛』(河出書房新社)の2巻では、主人公聞き耳が、口の代わりに笛を使うバルロとの旅を終え、祖父の元で笛吹きとなる。ファンタジーのハマリ方、というのは、ミステリやより伝奇的な時代小説などとは違い、静かに深く入り込むようなところがある。決してドキドキ、ワクワクしながらページを繰る、というのでなく(もちろんドキドキもワクワクもあるけど)、幻想的な物語の世界観にはまりこみながら、その中を流れる物語に身を浸すような楽しみ方がある。
 2巻では、人々や動物を操れる笛の魔力に魅せられた主人公が、本来の「聞き耳」という名前とは相反する、人々に音を聞かせ、その力に身を任せるようになる。独善や抗いがたい魅力が聞き耳自身、そして外の世界にあふれるシリーズの中間部だ。よどみなく流れるファンタジーの雰囲気と、人々の生活が解け合って、かつて夢中になったファンタジーへの想いが甦る。

 本を読む時間や場所、というのは人それぞれで、よく考えるとリラックスして読書にのめりこめる空間、というのはそう多くない。生きてきた中で創られたリズムのような物でもあるので、なかなか融通が利かないものでもある。時間がとれる休みの日の昼間になって、せっかく時間があるのになんだか本に集中できないことも多い。休みがあるなら前の夜中に、という傾向が強いので、昼間の読書に向いていないかも知れない。木陰で読書どころの話ではないのかも。

 

第2週(4/8〜4/14)

 普段の仕事用以外の鞄を買った。サイドに大きなポケットがついていて、文庫本などを入れることが出来るようになっている。これが非常に便利でありがたい。鞄から本を取り出すアクションがシンプルなので、電車で本を読んで、降りるときにしまって、また取り出す、という作業が簡単なので、短い乗車時間やふとした合間でも本が読みやすくなるのだ。

 ずいぶん長いことかかって読んだホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』(集英社文庫)は、短編集「砂の本」と世界の歴史の中の「悪役」を独自の視点で語る「汚辱の世界史」を合わせた一冊。知識と情感の宝箱のような一冊なれど、電車の中で細かく区切られながら読むのはちと厳しい。それでも、一つ一つについて、ぼるヘスに話を聴いてみたいような佳作が並んでいる。「砂の本」には、ボルヘス自身の短い解説がついている作品もあり、どの作品についても彼の声を聴いてみたくなるのである。

 長いこと買うかどうかを悩み続け、ついに手を出したドイツファンタジーの傑作、ハンス・ベンマンの『石と笛』(河出書房新社)をついに購入。3部全4巻の読みでのあるファンタジーで、「聞き耳」という名の若者の成長物語になっている様子。
 その1巻は、その効果がわからぬが、不思議な力を持っている石を手に入れた聞き耳が、石の謎と自分の人生の謎に挑むための旅を始める。その音色で人をも操ることが出来る笛匠、略奪によって生きている種族や、少年を時に導き、時に惑わせる話すカエル、など、メルヘンの香りがたっぷりの間違いない傑作だ。指輪ブームにつられて人々に読まれるようにならないだろうか。

 鞄から取り出す作業が楽になるだけで、日常で本を読もうとする気持ちと時間が圧倒的に増加する。なるほど人は安易な娯楽に流れがちなわけである。なんにしろ、本が読めるというのはいいことだ。

第1週(4/1〜4/7)

 春になって暖かくなると、木陰で読書、のイメージが頭をちらつく。実際にそんなことをしても間違いなく俺は落ち着かないので、オールシーズン布団で読書が一番である。ただ、なんとなくイメージとして捨てがたい、というだけのこと。これが大事。

 人によっては忘れかけていたピアノへの純粋な情熱が甦ってくる名著、T・E・カーハート『パリ左岸のピアノ工房』(新潮クレストブックス)は、著者のフリーライターとしてのデビュー作である。といっても、それまではメディアコンサルタントなどの仕事を努めて、これを書いた頃にはすでに50代になっている。
 パリの道を歩いていて、ピアノ修理を請け負う店を発見した著者が、かつて弾いていたピアノを再び弾きたい、という気持ちと、その小さな店への興味がない交ぜになった気持ちでそのドアを開けることから始まる、あるピアノ職人との出会いをつづったノンフィクション。ピアノへの限りない愛情を持つ職人リュックと語り合う内に、カーハートは自分のピアノとの邂逅、やがてさまざまな職人達、演奏者達が築いてきたピアノの歴史と触れ合いながら、ピアノという楽器への愛情を深めていく。
 ピアノは広く親しまれた身近な楽器でありながら、一風変わった楽器だ。管楽器や弦楽器のように、自分がダイレクトに音階の音を創る楽器と比べて、ピアノのキーという仲介物が存在する。一方で、電子キーボードのように機械的に音が出されるわけではなく、打楽器のように自分がキーを叩くその感触が音になる。しかしそこには機構によって生み出された音階が存在する。演奏者の手と指、そして実際に音が鳴るピアノの中の弦との間に、様々な情熱とジレンマが存在するのである。
 かつてその楽器に夢中になって触れていた記憶のある人なら、それが例え遠き記憶であっても、この本を読めば、忘れかけていたピアノへ向かった純粋な音を愛する気持ちを思い出すに違いない。

 『本の雑誌』(本の雑誌社)で大森望が評価していなかった高橋源一郎『コヂラ』(新潮社)は、一瞬かつての高橋文学を思い出すような香りがする。しかしそれはどうも一瞬のことだったように思う。質の高い作品も出している高橋源一郎だが、かつての作品のようなパワーはかげり気味。どうも自分のスタイルに飲み込まれているような感じさえ持ってしまう。石神井公園の町に住む人々、作家のタカハシさんを初めとして、影の総裁、掃除をし続ける詩人などが登場する世界観が、物語に振り回されているような一作。

 屋外で本を読む、というのはどうも落ち着かない。視界が開けているので、周りの方が気になってなかなか本に集中できないこともあるし、そもそもシチュエーションとしてなんとなく理解できない気がするのだ。木陰読書が大好きな人がいたら、その魅力について是非教えてもらいたい。なんとなく自分には会わない気もしながら、なにか楽しそうな気もして気になってしまうのだ。