読み週記 7月

 

第5週(7/29〜8/4)

 久々に、沢山の本を読みかけにしている。しばらくの間、外用の本と家用の本を分けていたのに、何となく読みかけの本の途中で寄り道をしていたら、あっという間に4冊5冊の本が読みかけに。いかんいかん。

 期待して手に取った割には読み始めるのが遅く、なおかつ思ったほど面白くなかったのがデイヴィッド・K・ハーフォード『ヴェトナム戦場の殺人』(扶桑社ミステリー)だ。おそらく電車のなかで切れ切れに読んだこともあるんだろうけど、題材から求めていたような効果が得られなかったのが残念。面白い小説ではあるけど。
 ストーリーは、ヴェトナム戦争で、合衆国陸軍憲兵隊の犯罪捜査官であるカール・ハチェットを主人公とした連作短編。戦場という独特の世界の中で行われる犯罪も、日常の狂気とさほど遠くない場所にある。

 みすず書房の「詩人が贈る絵本」シリーズに、アーシュラ・K・ル=グィン作の絵本があった。絵はジェイムズ・ブランマンで、『いちばん美しいクモの巣』。物語は、廃墟となった城に住む一匹のクモが、今まで自分たちが作ってきた巣に飽きたらず、もっと美しい巣を作りたい、という想いを抱く、というお話。張り巡らされたクモの糸が紡がれる一つの絵画になる。ル=グィンが作りたかったイメージが果たして望み通りの絵になったのか、ちょっと疑問が残るけど。

 読みかけのまま埋もれてしまう本、という物もある。次から次へと新しい面白そうな本が見えてしまうので、つい流れが断ち切られるのに合わせて忘れ去られてしまうのだ。だが、忘れ去られた本の何冊かは布団の枕の横に残っている。御陰で狭くて仕方がない。

 

第4週(7/22〜7/28)

 なんだかどーんとエネルギーが減少してしまっている。こんな日はなげやりに色々やってしまいそうで、どうも良く無いなぁ。

 ポール・オースター『ミスター・ヴァーティゴ』(新潮社)は、オースターのどこかずれた不思議世界が、よりファンタジックに展開される小説。虐待を受けながら伯父の家で暮らしていた主人公は、「お前に空を飛ばせてやる」と言う<師匠>にもらわれて、色鮮やかな変転の人生を生きていく。彼の人生を変えるような人物達と出会い、別れを繰り返しながらも、鼻っ柱が強く、粋がった彼の姿を見ると、これがファンタジー小説の王道を行く物語であることがわかる。だが、オースターのことだけあって、ただのファンタジーではない。むしろオースター版ビルドゥングス・ロマンと言うべきかも知れないが、それが彼の独特の世界、人々のなかで繰り広げられることによって、ファンタジーの文脈に連なる作品と言えるものになっているのだ。

 どーんと減少したエネルギーがどーんと甦ることはまずない。ジリジリと、傷が薄れていくように回復していく物。自分に回復魔法をかけながら、夏に向けてもう一度気合いの入れ直し。

 

第3週(7/15〜7/21)

 夏休みに突入した。と、この時期になるとニュースなどで話題に出るが、実際に夏休みに突入しているのは小中学生、せいぜい高校生までである。全人口の何割かに過ぎない。それでも夏休みの話題が出るのは、みんなそう聞いて気分だけでも夏休みらしい気分になりたい、ということなのだろうか。みんながそう思っているのなら、素直に1ヶ月くらい夏休みにしたらいいのに、と思う。ゆっくり家で本を読むと楽しいのに。

 毎回裁判制度と法、そして正義についての議論をテーマとしたリーガルサスペンスを発表している、D・W・バッファの『審判』(文春文庫)は、今までのアントネッリのシリーズの中でも、最も普通のリーガルサスペンスっぽい作り。裁判の進み具合なんかはややできすぎの感があり、シリーズのなかでも脂がのっている物の、普通っぽい感じがつまらない。この作者に求めているのはもっと別の物であったような気がする。今までのシリーズの中に出てきた物と同じようなテーマであってもいいから、もう少し硬派な法の物語であって欲しかったようにも感じる。シリーズに通じる何とも言えない読後感は相変わらず。

 夏休み、と思うと本を読むことばかり考える。冬休み、と聞いても、ゴールデンウィークと聞いても似たような物だ。まとまった休みを思うと、まず本を読みたいと思うのは、若者としてダメですか。

 

第2週(7/8〜7/14)

 書店に夏の課題図書と、各版元の夏の文庫フェア売り場が現れた。いよいよ書店にも夏が来ている。これは子どもの頃から思っていることだが、どうしてこうも課題図書は面白くなさそうな本ばかりが並んでいるのか。あれらの本がどのように選ばれているのか、という点については触れないけど、実際にこの夏、子ども達がどんな本を読むのか、興味深い

 フレデリック・ベグベデ『¥999』(角川書店)は、999円で販売。値段を書名にするあたりにこの本を象徴させているのが面白いかも。原題は『99F』あらため『14.99EURO』で、つまり各国で値段を書名に販売していることになる。
 広告代理店に勤める主人公は、キャッチーな言葉を操って人々の購買欲をあおる仕事をしながら、その仕組みに嫌気を覚えている、という設定。本を書いて広告業界の内情を暴露することで首になってやる、と息巻いてこの本を書き始めた、というお話。実際に物語を通して語られているのは主人公のナルシスティックな自意識で、主人公は破天荒な生き方を続けながら、言葉に載せた自負心を止めることが出来ない。
 現代的なイメージとキャラクター、章ごとに人称を変えてながら、視点の微妙な動きを作ったりするなど、気を惹くようなアイディアを巧みにちりばめている。今の若い作家風技巧派的作品

 久しぶりに読むドン・ウィンズロウの新しい訳出『カリフォルニアの炎』(角川文庫)は、その作品の中身の充実に加え、楽しいのが訳者のあとがき。最後の最後で、創元推理文庫で同じ訳者が扱っている同作者の<ニール・ケアリーシリーズ>について「近いうちに翻訳刊行いたしますんで、今しばらくお待ちください」と言っていること。よその版元の作品に触れるだけならよくあるが、「刊行します」と言えてしまうあたり、固定ファンの多さを伺わせる。一度読むとはまってしまうウィンズロウの面白さが広まってくれるといいんだけど。
 物語の主人公は、かつて保安局の火災調査官で、今は保険会社の火災査定人であるジャック・ウェイド。彼が手がけることになったある火災の調査を通して、様々な登場人物の人生や、火災についての様々な蘊蓄が披露される。まさに充実の一作、という感じで、キャラクター、ストーリー共に納得の内容になっていて、どんどん読ませる。これだけの物を読むと、嫌でもニール・ケアリーシリーズの次作や、この作品以降のニール・ケアリーシリーズも楽しみになる。読むベシ。

 実は、小学生の頃に一度だけ、課題図書で感想文を書いたことがある。もちろんその時期にはいろんな本を読んだんだろうけど、どういうわけかその年は読書感想文用に課題図書を読んだのだろう。学校の先生が「課題図書を読んで感想文を書くように」とかなんとか言ったのかも知れない。質の低い作品だったかどうかは今ではわからないが、自分の読みたいような本でなかったことは確かで、ちっとも面白くなかった。それでも感想文は書かなくてはならないので、苦労して書いた感想文が学校で誉められた記憶がある。内容の8割は解説の受け売りだったけど。課題図書なんてそんなモンだ。


第1週(7/1〜7/7)

 一気に暑くなってきた。家庭や職場にはいると、大抵はクーラーがきいているので、むしろ寒く感じることもあるくらいだが、道や電車の中でこそ暑さにうんざりする。特に哀しくなるのが電車の中。鞄を開いて本を手に取る気持ちすら起きない様な暑さが車内にはびこっていることがしばしばある。あの電車の空調というのはどうしてああも悩ましい中途半端さなのか。

 久々に読んだチャールズ・ブコウスキーの『オールドパンク、哄笑する』(ビレッジブックス)は、戦前に発表された最後の作品集から、詩28編と21の短編を収録した物。もとの『SEPTUAGENARIAN STEW』にはさらに詩が51編収録されていて、その分はまた別に出版されるとのこと。なんかダマサレタ気分。
 個人的な好みとして、今回は翻訳がいまいち。ずいぶん読みやすい感じになっちゃって、それはそれで求めている物と合致しないような気がする。それは訳者のせいなのか、そもそも原文からしてそう変化しているからなのか。 ブコウスキー研究家の判断を待ちたい。というかそういうところ流してるから未だにオレはダメな本読みなのかも。

 この徹底した詰めの甘さが本当に惜しい、と改めて感じさせられたのが、佐藤賢一『王妃の離婚』(集英社文庫)だ。国内の西洋歴史小説の書き手としても、単純にストーリーテラーとしても、佐藤賢一は国内で屈指の作家であるのは間違いない。『双頭の鷲』(新潮文庫)のような壮大なスケールでは無い物の、時代背景やテーマなどに十分なほどスケールを感じさせる作品で、歴史小説としてだけでなく、今作ではリーガルサスペンス作品としても十分な読み応えがある。陪審員制度を使った法廷劇でなく、不誠実であることを内包した判事団と、政治的な圧力となりうる膨張している民衆を使った、歴史小説ならではのリーガルサスペンスづくりも特筆されるべき。歴史小説としての情報の書き込みから、物語の展開のうまさなど、どこを切手も面白い小説を書いているのに、最後の落ちの付け方でどうしても安っぽさが見えてしまうのが本当に残念だ。過去に読んだ佐藤作品ではいずれも同じ様な感慨を抱いたので、おそらく現在のこの作者の欠点と言っても良いのではないか。よそでは味わえない個性と技術をふんだんに持っているだけに、また読みたくなるような興奮を与えてくれる書き手だけに、この詰めの甘さだけをどうにかしてほしい。

 電車で本を読めるというのは、ある程度自分の殻に収まって、車内の異常な空間の中に個人的なプチリラックス空間を作る必要がある。そういう意味で夏の電車は今ひとつ読書に向いていない。これはどうにかならないものか。