第1話
『12の思い』
9月9日・木曜日。
陵世羅の署名の入った奇妙な手紙―――招待状―――によって、11名の男女が廃ビルに集まった、その翌日。それぞれの思いを胸に秘めて、白凰市各所に散る。
もう何度目かすら忘れてしまうほどに足を運んだB13区画の崩落現場。赤室翔彦は懐中電灯のスイッチを切って、そこを後にした。昨日の奇妙な呼び出しの後だけに何か変化があるかと思って来てみたが、やはりそこは死んだような沈黙に包まれたまま、真相を語ってはくれなかった。昨日知り会ったばかりの協力者が何名かここへ足を運んでくれたようだが、彼らも無収穫で帰って行ったようだ。どうやら現場は翔彦だけに意地悪をしている訳ではないらしい。
「行ってみるか、彼女の部屋に」
ポケットの中の合い鍵をチャラリと鳴らして、翔彦は歩き出した。
愛車のランクルを駆りながら、長内香織は思考をめぐらす。
昨夜第一声を上げ、今日も事故現場に足を運んでいた赤室翔彦。世羅の行方を案じながらも周りの事情で動きの取れない苑原柚織。世羅の生存をまったく信じていない月辺鈴姫。それぞれの事情とそれぞれの捜査。それぞれの思いとそれぞれの想い。
金色の髪を無造作に掻き回して、香織はバックミラーを覗き込んだ。眉間に皺を作った己の鏡像に向かって香織は問う。
(あんたはどう思っているんだい、香織?)
世羅は生きているのか? 自分はそう信じたいのか? 鏡からの答えは、ない。
翔彦と香織と別れた後、そのままB4区画へと歩いて喫茶店「すずや」へ戻る。道すがら、鈴原志郎は赤い非常灯に照らされていたB13区画崩落事故現場を思い出していた。
危うく新たな崩落に巻き込まれかけたが、幸いにも軽い打ち身と擦過傷くらいで済んだ。しかしこれが天井の一角が崩れるほどの規模であったら・・・。先の事故で亡くなった4名(世羅も含めるとすれば5名だが)の味わった恐怖が、ジワリと志郎の背中を這い登る。未だB13区画は安全な場所ではない。しかし・・・。
「何か言いたげだね、お前」
手の中にある水晶に話しかける志郎。B13区画に反応したのか、確かに明滅したソレ。
まだまだ調べることはある。ひとまず水晶を懐にしまい、志郎はすずやへの道を急いだ。
流れた汗を拭き終えて、月辺鈴姫はポニーテールを解いた。まとめられていた長い髪が少し汗を吸ってユラリと広がる。乱れた息を整えるために、鈴姫は第2体育館の壁際に設えられた簡易ベンチに腰をかける。
大会直前のここに来て調子が上がっているのは、コーチと自分が調整に気を配っていたためだと信じている。今まで成功率の低かったフィニッシュが決まりだしたのがその証拠だ。世羅の名を騙る悪戯者の手紙も、鈴姫の鍛錬の積み重ねと自信を覆すことはなかった。
左手首に巻きつけた「幸運のお守り」に目をやる。何となく身に付けてみたが、この水晶のおかげで調子が良いとは考えられない。ただの気休めだ。
「占いなんて、信じない。手紙のこともウソに決まってる」
水晶から目を逸らし、イラついた様子で髪を掻きあげる。鈴姫にすら聞こえないようなギィンという小さな音を立てて、水晶が密かに息づいた。
招待状は紙切れに変わった。彼の中で、それは性質の悪い悪戯であると結論付けられたのだ。結論付けたタイミングが昨日以前であったのか、それともたった今であるのかは既に意味を持たない議論だ。
「過ぎた時間は戻らない。今という時間があるからには」
思考を中断し、彼は再び書類に目を落とす。
背もたれをギッと鳴らして久遠奨は椅子に深くもたれかかり、パソコンのディスプレイから目を離した。
件の事故―――B13区画崩落事故―――の犠牲者は全員彼の勤務先である國史院大学付属病院に搬送されている。その内の生存者が2名ということは周知であり、更にその内の1名が昨晩顔を合わせた巳堂英一であることも分かっている。そしてもう一人の人物・・・
「日下部矢尋、ね・・・」
これが何かの奇縁なのか、それとも誰かが仕組んだ皮肉なのか。今はまだその判断をつける段階ではないのだろう。
奨は上等な椅子に沈み込んだまま目を閉じた。少し、不機嫌だった。
ヤニ臭い編集部。泥水のようなインスタントコーヒーを啜りながら、英東児は今日の収穫をまとめている。
希薄な愛社精神からしても、同僚記者の語った取材結果には十分な信憑性がある。「巨石の下敷きになった」という証言が捏造されることに意味はないし、その証言が覆されたとしても世羅の居場所を暴くための手掛かりとはならない。世羅の死亡は決定事項か? そうなると、この手元にある紙片は戯けた悪戯ということになる。しかし、今頃誰が?
全貌は見えてこないが、まだ八方が塞がった訳ではない。例えば、巳堂英一の解析結果は次局面に繋がる可能性がある。
(まぁ、小さな穴を拡げていって真実を掴み取るのが、優秀な新聞記者ってもんだ)
「うわたたたっ! ヤベッ!!」
取り落としたカップのコーヒーがこぼれて、書類の上に褐色の染みを広げていく。手近にあったティッシュペーパーを何枚も引き出して、巳堂英一は惨事の収拾に当たった。
書類には世羅(を名乗る何者か。本人かも?)が送りつけてきた「幸運のお守り」についていた水晶の解析報告が記されていた。既に目を通した書類であり、まぁ、コーヒーのせいでダメになっても構わないのだが。報告内容は英一を満足させるだけのものではなかったが、それでも考察の一助にはなる、かもしれない。
「うー、またコーヒー買って来なきゃ」
ガックリと肩を落として、英一は再び自販機に向かった。
帯刀祐二の目の前でエレベータの階数表示は下がって行き、1階で止まった。しばらくすると走り去る車のエンジン音が聞こえてくる。祐二に見せた慌てた様子を引きずったまま、赤室翔彦はマンションを離れたらしい。
時期を置かずに世羅の部屋は整理されるのだろうが、それまでの間を翔彦(というよりは、日下部マテリアルか?)が維持管理することは特段に不自然なことではない。しかし、明らかにおかしい挙動と、必死に隠蔽しようとした2冊の本の存在が、祐二に不信感を植え付ける。本は翔彦が持ち込んだものなのか、それとも翔彦によって持ち出されたものなのか?
「どちらにせよ、あの人の言う事を鵜呑みにするのは良くないな」
施錠された世羅の部屋の扉を見て、祐二は一人ごちた。
(私って、世羅さんのこと何にも知らないな・・・)
授業中、苑原柚織は手の中の「幸運のお守り」に目を落として、小さく溜め息をついた。
世羅は柚織の話を良く聞いてくれたが、柚織が世羅から相談を受けた事はほとんどない。自分が一方的に世羅に甘えていたことを再認識して、自己嫌悪に陥りそうになる。
(それでも、何かやらなきゃ。世羅さんは私に手紙をくれたんだもの。それには何か意味があるんだって、信じたい。放課後、コーラス部の練習が終わったら、パールに行ってみよう。・・・そこしか思いつかないし)
お守りをポケットにしまうと、柚織は再び授業に意識を集中させた。
「お前、ただでさえ足が悪いんだから、ちゃんと食べないと弱っちまうぞ」
路地から顔を出してこちらを伺っている灰色猫に向かって、出羽清虎はちょっと不機嫌そうに話しかけた。猫はピク、と耳を動かしたが、相変わらず警戒を解こうとしない。持ってきた餌と清虎の顔を交互に見比べながら、何かを迷っているようだった。
今朝方の陵杏里との訪問が猫に何らかの影響を与えたのだろうかと訝しむが、少々邪推が過ぎるかもしれない。もともと警戒心の強い野良猫だし、また、先日届いた正体不明の招待状の事が自分の考えにも影響を与えているのだろう。
「まぁ、いいや。気が向いたらちゃんと食えよ。その鯵も」
夕飯として持ってきた餌を、朝から手つかずのままで残っている鯵の干物の脇に置いて、清虎はB4区画を去った。
深夜。
明かりの消える事のない万座殿の出入口に、陵杏里が姿を現す。地下街から出てきた様子の杏里は駅前ロータリーまで歩を進め、中央にある噴水の縁に腰掛けた。ライトアップされた噴水が多元的に水を噴き上げ、細かな飛沫を辺りに散らす。
人工の薄霧の中、杏里は夜空を見上げた。済んだ空に浮かぶ星の、その奥まで見透かそうとするかのように、頤を上げたままの姿勢で飛沫に身を晒す。
「良い夜」
夜空を見上げたまま、杏里はうっとりと呟いた。