
| 太田道灌の生誕と関東の情勢 1432年(永享4年) 太田氏は、「資国」の代になったとき、摂津守に任じられ丹波の国太田郷に移り住みその地名をもつて、太田と称したのが始まりである。父は 「資清」、入道して道真と称し、鎌倉の扇谷上杉家に仕える文武に秀でた人である。母は長尾景仲の娘であるという。 余談として 、満仲−頼信−頼義−義家( 八幡太郎義家 )−義国−義重と続くのが「新田氏」で、義家−義国−義康と続くのが「足利氏」である。 なお、義家−為家−義朝−頼朝と続くのは鎌倉幕府を樹立した 源氏の嫡流であることはいうまでもない。 太田資国は、丹波の国上杉荘の上杉重房 ( 中臣鎌足、後の「藤原鎌足」を祖とし、その地名をもつて「上杉」というようになる。上杉の祖 )が、1252年鎌倉将軍宗尊親王に従って関東に下向するのに伴い相模に移り住んだといわれている。太田道灌は、この資国の流れをくむものと考えられている。 上杉氏は、その後足利氏と姻戚関係を結び重用されていき、1363年上杉憲顕が室町幕府から関東管領( 鎌倉公方を補佐する執事をいい、後に関東管領とよばれるようになる )に任じられ、以後、ほぼ代々管領職を継いで行くことになる。 鎌倉公方は、鎌倉御所とも関東公方とも呼ばれ、室町幕府の時代に関東( 関八州と甲斐、伊豆を所管とする )を管轄した「長官」をいう。 足利尊氏は、京都に幕府を開いたが、鎌倉は源頼朝以来の関東を統括する重要な地であったので、鎌倉に公方を置き、軍事権、司法権、民政などの各種の職権を与えた。なお、鎌倉公方の初代は、足利尊氏の子で基氏、二代は氏満、三代満兼、四代持氏と続く。 1436年(永享8年) 1437年(永享9年) ( 注 ) 上杉家は、南北朝時代に、その地名をもって 山内上杉、犬懸上杉、扇谷上杉、宅間上杉 の四家に分かれ、 山内上杉は宗家として威勢を張った。太田資清は、扇谷上杉持朝に仕えた。 1438年(永享10年) 持氏は、一色直兼らを差し向け、自身も 武蔵の国府中高安寺に陣を敷くが、8月禁裏から持氏追討の綸旨が出され、また、同月将軍足利義教がその綸旨を受けて持氏追討の御教書を発して 幕府軍2万5千を向かわせた。 さらに、9月千葉胤直らが持氏に背き、憲実に応じたため、持氏軍は壊滅敗走する。 この後、持氏は武蔵の国称名寺に幽閉される。 ( 永享の乱 ) 同年11月に、長尾忠政が称名寺を襲い、宅間上杉憲直、一色直兼を自殺せしめる。 1439年(永享11年) この後、憲実は関東管領職を辞し、弟の上杉清方に管領職を代理させ、自殺を計るが果たせず、出家して伊豆の国国清寺に退く。 推測するに、持氏が京の室町将軍と反目し、また、自分の諫言を聞き入れなかったとしても、憲実が補佐すべき主家にあたる鎌倉公方を死に至らしめた責任を痛感したのであろう。 なお、この年憲実は下野国の「足利学校」を整備し、鎌倉円覚寺の快元を初代校長として向かい入れ、五経( 「五経」とは、易経、書経、詩経、礼記、春秋をいう。儒教を内容とする学問 )註疏( 詳しい解釈をいう )を寄付した。 1440年(永享12年) ここで両陣営の顔ぶれを挙げてみる。 7月、関東管領代上杉清方、扇谷上杉持朝らが結城に着陣し、結城城を包囲するが、結城城は堅く攻守ともに戦線は膠着する。 1441年(嘉吉元年) 将軍職は、義教の子(「千也茶丸」改名して義勝)が継ぎ、管領細川持之がこれを補佐する。将軍を謀殺して播磨の国に走った赤松満祐は、足利直冬( 足利尊氏の子で直義の養子)の孫にあたる義尊を擁立する。 1443年(嘉吉3年) 1444年(文安元年) 1445年(文安2年) 1449年(宝徳元年) 11月、永寿王新邸に移って、将軍義成の一字を貰い 足利成氏 と称し、名実ともに第五代鎌倉公方となり「鎌倉府」の復活成る。 1450年(宝徳2年) しかし、合戦は成氏に加勢があり、上杉、長尾、太田らは逃げ去る。公方成氏、結城成朝らは結城合戦の仇を討ったというところ。 8月幕府は、使者を鎌倉に送り、足利成氏と上杉憲実( この時は、まだ鎌倉に居た )、上杉憲忠、長尾、太田らとの和解を仲介する。( 室町幕府にも、平和を望む人が居た? ) 1451年(宝徳3年) 1454年(享徳3年) 1455年(康正元年) 3月下総の千葉胤直は公方成氏に違背して山内上杉房顕に味方する。4月宇都宮等綱らも房顕に味方して成氏と戦うが、負けて陸奥の白河へ敗走する。しかし、公方足利成氏軍の強いこと、強いこと。成氏は、一度下総の古河( 以後古河は、成氏の根拠地となり、 「古河公方」と呼ばれる )に進軍し、この後小栗城を攻撃。上杉房顕、長尾景仲らを下野へ敗走させる。 6月今川範忠が兵を出し鎌倉へ入府するが、病(?)没する。9月公方足利成氏の軍と山内上杉房顕の軍が武蔵の国岡部原で戦闘する。( 岡部原の合戦 ) この年は、この他大袋原の合戦、上野の三宮原の合戦、武蔵の騎西郡の合戦など多数ある。12月扇谷上杉家の家宰太田資長( 道灌 )が公方成氏の軍と相模の藤沢で戦闘する。このころ太田道灌は、武蔵の河越城と岩付城を行来していた。 1457年(長禄元年) 足利将軍義政( 義成 )が、天竜寺にいた弟政知を還俗させ、成氏に対抗させるため、犬懸上杉教朝らとともに関東に下向させた。ただし、政知らは、鎌倉に入れず、伊豆の堀越に拠を構える。これが 「堀越公方」である。 1459年(長禄3年) 1466年(文正元年) 応仁の乱と関東 1467年(文正2年改元して応仁元年) この様な政治情勢の中で、子がなかった義政は、嗣子として弟の浄土寺門跡であった義尋を還俗させ 「義視」と名乗らせ養子にし、その後見人として「細川勝元」を任じた。夫人富子は、最初は子が無かったが、皮肉なことにこの後生まれ、「義尚」と名乗る。当然 ? のことながら、富子は次期将軍には義尚をと考え、細川勝元と対立している実力者で四職家の一人「山名宗全」を頼る。 ( 注 ) 三管四職 三管は 「管領」に任じられる役職で将軍を補佐し政務全般を司る。斯波氏、畠山氏、細川氏が代々交代で勤めたので三管という。四職は「侍所」別当( 長官 )、所司( 次官級 ) に与えられる役職で、その名のとおり主として軍事を司る。赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏が代々勤める。 大乱の直接的な戦端は、「畠山政長」と「畠山義就」 の武力衝突によって開かれた。両者は享徳以来、摂津、河内、大和などで家督相続のもめごとで戦い続けていたが、応仁元年の正月、将軍義政が正月恒例であった管領家畠山政長の邸宅に訪問するのを取りやめて、畠山義就の主催する上洛祝宴に弟義視とともに招かれ、盛大な歓待を受けた。 怒り心頭に達した畠山政長は、早速兵を集めるとともに、細川勝元に救援を求めた。 畠山義就は将軍義政に、細川勝元に畠山政長を助けることを禁じさせ 管領職を剥奪させたが、なおも飽き足らず、1月15日 山名宗全、畠山義就らは軍を起こし諸将と語らい将軍義政に細川勝元を問責するように迫った。 また、 山名宗全は義視が細川勝元に奪われるのを恐れて、御所に軟禁し、御所の周囲を兵で固めた。 1月18日、とうとう畠山義就は兵3800をもって畠山政長を京上御霊社に襲い両者は激突した。 「応仁の乱」の勃発である。 畠山政長は再三細川勝元に救援を求めたが、細川勝元は時節未到来として動かず、畠山政長は激戦の末敗れる。 3月3日細川勝元、京極持清らは上巳の節句に御所に参賀出仕せず密かに兵を集め、諸国に呼びかける。5月20日山名宗全、畠山義就らが挙兵して細川勝元らを討伐すべく出陣する。5月26日両軍最大規模の激戦となる。6月1日将軍義政は弟義視に牙旗( 将軍御座所の旗、錦の御旗 )を与えて山名宗全討伐の命を下す。将軍義政は何故か細川勝元にお味方する。 ここで各陣営の主たる者を俯瞰してみる。 もちろん、これらすべての大名が一度に戦ったわけではない。 細川勝元 ( 事実上の総大将 ) の本陣は、京のほぼ東部にあたる相国寺にあったところから東軍といい、これに対して、山名宗全 ( 事実上の総大将 ) の本陣は、西の山名邸を中心としていたので西軍といった。なお、京都の「西陣」という地名は、この由来だという。 7月20日、大内政弘、河野通春らの軍勢が兵庫に至り、京に迫る勢いをみせる。同月25日東西両軍入り乱れて諸所に激戦となる。8月23日東軍の総大将義視は伊勢の北畠氏を頼り都落ちし、禁裏の後土御門天皇、上皇は難を逃れて室町御所に入る。10月3日 両軍相国寺付近にて最大級の激戦。足利氏一門の菩提寺格の相国寺の寺僧は西軍に味方し、寺に放火し東軍と戦う。この日室町御所に難を逃れていた上皇は、山名宗全の追討を宣下する。東軍は「 官軍 」となり必死に防戦し、相国寺を奪い返すなど、特に畠山政長の働きが目覚しかった。この様な戦火のなかで応仁元年は暮れて行った。 この年の大乱で焼失した寺院は、「百万遍寺」、「誓願寺」、「相国寺」、「南禅寺」など。多くの貴重な文化的遺産が焼失した。まったく残念極まりない。太古の時代から戦火の絶えたことは、歴史のなかでみたことはない。現代に生きる我々はこの歴史のなかで何を学ぶのだろう。歴史を科学的に実証したり、論理的に推理したりしても、歴史の本質を捉えなければそれは単に「技術論」を示しているに過ぎない。大切なことは 「過去から何を学ぶか」 である。最近は「官制の歴史学」でない歴史書が増えた。好ましい限りである。 オットト!! 堅い話はこのホ−ムペ−ジの扱うところではない。話しを元に戻そう。 1468年(応仁2年) この後、東西両軍の戦闘は、地方に次第に広がりをみせる。10月14日西軍斯波義兼は、朝倉孝景( 後に細川勝元が越前の国守護職を与えることを約し東軍に寝返らせる )を越前の国に派遣し 東軍斯波義敏を攻めさせる。11月5日近江の国で東軍京極持清と西軍六角高頼と交戦する。 1469年(文明元年 ) このころ関東では、京での大乱の推移を見守っていたのか比較的合戦が少なかった。扇谷上杉家の家宰太田資清入道して道真は、武蔵の国河越において、都の大乱を避けて武蔵の国に下向していた連歌師の心敬、同宗祇、品川の豪商鈴木道胤( 長敏 )らを招いて千句の連歌会を催した。( 注 )埼玉県史通史編では、文明2年正月と記されている。 これは後に「河越千句」として歴史のうえでも大きく取り上げられることになった歌会である。この歌会は、大乱の戦時でもあることから、単なる娯楽としての歌会でなく、戦勝祈願を込めたものであったという。作者としては、「娯楽」としてみたいが。 その連歌会に招待された「鈴木道胤」であるが、道胤の出自については「紀州熊野」の鈴木一族( 埼玉県史通史編 )を祖を持つ人であったという。もしこれが事実ならば、作者としては、「紀州雑賀」の鈴木一族と関東とのつながりの道筋が判明( 事はそんなに単純なものでないだろうが ) したとして、非常に喜ばしい限りである。雑賀と熊野はいわば隣り合わせの地域で、古くから「熊野信仰」の盛んなところであり、また、 「孫市」の定紋も「熊野の御神鳥」の「ヤタガラス」である( 真実のところはよく解っていない ) ところから、雑賀の鈴木氏縁者が熊野に拠を持っていたとしても不思議ではない。むしろ盛んに交流していたと考えるべき( 「管理人」曰く、少し強引 ? )である。いずれにしても、作者にとっては意義深いことではある。 この「鈴木道胤」についてもう少し調べてみよう。以下は、「埼玉県史通史編」及び「大系日本の歴史第6巻、永原慶二著、小学館」を引用したものであります。 「当時、江戸城の商都・商港として海浜の要津であった武蔵国品川( 東京都品川区 )に、風雅の趣味を有する長者、鈴木道胤という人がいた。道胤は、紀州熊野の鈴木一族の出といわれ、品川の地で、土倉の経営・商船の航行を独占して、豪商の地位を築き、かつ信仰心も厚く、日蓮宗妙国寺の開基になったとも伝えられている。 和歌や連歌の道を通じて」・・・・・「関東の有力武士とも通じ、河越の太田道真、江戸の太田道灌らとの間には、品川を中心とするいわば武蔵国文芸サロンとでも呼べるような組織を形づくっていた」。 そしてさらに、「「妙国寺文書」に収める宝徳二年十一月十四日付鎌倉公方足利成氏の御教書によって、「品河住人道胤」が「蔵役」を免除された事実も知られる」・・・・・「妙国寺を造営し、鋳物師を招いて梵鐘をつくらせるほどの財力は、なみなみのものではない。おそらく、紀州方面と品川とのあいだの海上輸送に活躍したことがその蓄銭の基礎であろう」・・・・・ 「道胤という人物は、その意味で経済史のみならず文化史的にも注目すべき存在である」と記している。 実は、作者も「日蓮宗」であるが「妙国寺」なる寺も知らなかったし、ましてやその財力となると・・・同じ「鈴木姓」を持つ人物に、今度は武将でなく、経済人、文化人としてめぐり逢えたことに、大きな喜びを感じる。 1471年(文明3年) 1472年(文明4年) 1473年(文明5年) 室町幕府将軍足利義政が将軍職を「義尚」に譲る。第九代将軍の誕生である。 関東では、山内上杉家の家宰長尾景信( 昌賢 )が死去する。長尾氏の嫡子「景春」がその跡を継ぐべきところ、主家山内上杉顕定が執事職を景信の弟「長尾忠景」に継がせた。このことが小康状態にあった関東にまた戦乱の火種を撒く事になる。 ここで、長尾氏について概観してみよう。長尾氏は、桓武平氏の一統で鎌倉郡長尾の地名をとって長尾氏と称したが、関東における長尾氏は、現前橋市惣社に本拠を持っていた「惣社長尾家」、鎌倉市に本拠を持っていた「鎌倉長尾家」、足利市に本拠を持っていた「足利長尾家」、群馬県子持村白井に本拠を持つ「白井長尾家」の四家に分かれていた。 長尾忠景は惣社長尾家であるが、長尾景春は白井長尾家で長尾四家のなかでも最も力を持ち宗家として有力であった。 では、何故景春を家宰にしなかったのか。 山内上杉顕定は、越後上杉家から 関東の山内上杉家に入嗣しており、関東における越後上杉氏の勢力が衰えることを嫌い、当時主家の上杉氏をも凌ぐ勢いを持っていた 長尾氏の力を削ぐための思慮が働いたためであるという。 これ以後の関東における戦国模様は、室町将軍と関東公方との対立から 関東管領上杉氏とその家宰( 執事職 )を争う長尾氏とのいわば内紛的様相を呈していく。もっとも、北条早雲の登場により関東の情勢は質的に変化することになるが。 1476年(文明8年) 江戸城にいた太田道灌は、掘越公方足利政知の命により、駿河の守護今川氏の跡目相続争いの調停のため、駿河に下向し、北条早雲( 伊勢新九郎長氏、伊勢宗瑞と称する )と会見し、今川氏の家臣らを鎮静させ、和解させることに成功する。 1477年(文明9年) この後、景春と道灌は面会するが話しはまとまらず、関東騒乱となる。 この戦いの後、関東各地の反上杉陣営が蜂起し、古河公方足利成氏が不穏な動きを示す。特に、河越城と江戸城のほぼ中間にある石神井城、練馬城に豊嶋氏( 練馬石神井を所領とする国人 )兄弟が立て篭もり、反旗を掲げたので戦線が分断され、上杉勢は一挙に劣勢となる。 4月10日、駿河から戻った太田道灌が、この上杉勢の危機的状況を救うことになる。まず、武蔵の国勝原に長尾景春の家臣矢野らを撃退し、次いで、13日、豊嶋兄弟のうち弟の豊嶋泰明を江古田原に攻め、討ち死にさせ、兄の泰経を敗走させる。( 江古田、沼袋原の戦い ) 5月13日、太田道灌は山内上杉顕定、扇谷上杉定正を五十子の陣に迎え入れ、ついで、14日、鉢形城を討つとみせかけて、長尾景春を用土原に誘き出し、これに山内、扇谷両上杉軍らが加わり、これを殲滅させる。景春は鉢形城へ逃げ帰る。 ( 用土原の戦い ) 7月古河公方足利成氏が長尾景春を支援するため、上野滝に出陣する。太田道灌は、これに反応して9月上野片貝に兵を出す。顕定、定正らは白井城に移る。しかし、この後双方とも兵を引く。 太田道灌の活躍と当方滅亡 1478年(文明10年) 春景は足利成氏の立て篭もる成田の陣に移動して、千葉孝胤と合力して、羽生に陣を張るが、定正と道灌の弟で小机の陣から引き返した太田資忠の軍に攻められ、景春、孝胤の軍は一戦も交えず下総の成田に逃げ帰る。 4月11日太田道灌は、小机の陣から移動して、羽生の陣を攻めてこれを陥れ、ついで二宮城を攻め大石顕重を降伏させる。道灌は、休むまもなく武蔵国の北部鉢形城を攻略するため河越城から再び出陣。7月17日に、長尾景春の鉢形城に夜襲をかけこれを攻略する。景春は秩父( 高佐須城? )に逃げ去る。道灌は、長尾景春が秩父に敗走した後、古河にお味方となった足利成氏を、鉢形城に上杉顕定を迎い入れる。 1479年(文明11年) 1月18日に太田持資の軍が臼井城を攻めて、太田資忠が戦死するも、落城させることに成功する。( 埼玉県通史編では7月15日 ) このころ秩父に逃れていた長尾景春は、秩父各地に砦を築き、徹底抗戦の構えをみせていた。特に城主長井六郎の立て篭もる長井城( 現埼玉県妻沼長井 )が威勢を張っていた。江戸城に帰っていた道灌は、この長井城を攻略する必要があると考え、11月26日軍を発向して長井城に向い、金谷に陣を張る。両軍は小競り合いを続けるが、道灌は上杉定正、ついで上杉顕定と児玉に合流する。これに気いた景春はまたまた秩父に逃げ去る。 1480年(文明12年) しかし、一大事が出態、 なにあろう足利成氏がまたまた長尾景春に付いてしまったのである。この人の七変化には飽きれる。この衝撃は、武州平定を完成させようとした道灌にとっては大きかった。この成氏の裏切りは、文明10年に上杉氏と取り交わした約束の不履行に業を煮やし、景春を頼った( 埼玉県通史編 )というのである。なお、足利成氏は2月25日に細川政元に幕府との和平の斡旋を依頼している。 文明12年の5月、太田道灌・道真父子は山内上杉顕定( 越後上杉家より入嗣 )と共同して、上野等各地に転戦。そして秩父に進軍して、6月24日ついに長尾景春の篭る日野城を攻めたて落城させる。( 長尾景春の乱の終息 ) なお、長尾景春の消息は、古河公方足利成氏のもとに落ち延びて生涯をまっとうしたという。 1486年(文明18年) −完− |
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