太田道灌記

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太田道灌の生誕と関東の情勢

1432年(永享4年)
  中世の関東において、軍師として武名の誉れの高かった 「太田道灌」が、相模に生まれた。一説では、武州越生( 現埼玉県入間郡越生町 )に出生したとの伝もあります。太田道灌は、清和天皇-貞純親王-源経基(源氏の祖)-その子の多田満仲と続く清和源氏の子孫であると。

  太田氏は、「資国」の代になったとき、摂津守に任じられ丹波の国太田郷に移り住みその地名をもつて、太田と称したのが始まりである。父は 「資清」、入道して道真と称し、鎌倉の扇谷上杉家に仕える文武に秀でた人である。母は長尾景仲の娘であるという。

 余談として 、満仲−頼信−頼義−義家( 八幡太郎義家 )−義国−義重と続くのが「新田氏」で、義家−義国−義康と続くのが「足利氏」である。 なお、義家−為家−義朝−頼朝と続くのは鎌倉幕府を樹立した 源氏の嫡流であることはいうまでもない。

  太田資国は、丹波の国上杉荘の上杉重房 ( 中臣鎌足、後の「藤原鎌足」を祖とし、その地名をもつて「上杉」というようになる。上杉の祖 )が、1252年鎌倉将軍宗尊親王に従って関東に下向するのに伴い相模に移り住んだといわれている。太田道灌は、この資国の流れをくむものと考えられている。

 上杉氏は、その後足利氏と姻戚関係を結び重用されていき、1363年上杉憲顕が室町幕府から関東管領( 鎌倉公方を補佐する執事をいい、後に関東管領とよばれるようになる )に任じられ、以後、ほぼ代々管領職を継いで行くことになる。

 鎌倉公方は、鎌倉御所とも関東公方とも呼ばれ、室町幕府の時代に関東( 関八州と甲斐、伊豆を所管とする )を管轄した「長官」をいう。

 足利尊氏は、京都に幕府を開いたが、鎌倉は源頼朝以来の関東を統括する重要な地であったので、鎌倉に公方を置き、軍事権、司法権、民政などの各種の職権を与えた。なお、鎌倉公方の初代は、足利尊氏の子で基氏、二代は氏満、三代満兼、四代持氏と続く。

1436年(永享8年)
  信濃の国守護小笠原政康と村上頼清が交戦したため、鎌倉公方第四代足利持氏が村上頼清を救援しょうとするが、関東管領職にあった上杉憲実にいさめられ出撃を中止する。

1437年(永享9年)
  鎌倉府管領山内上杉憲実が、鎌倉府 第四代 公方足利持氏と不和となり、 領国の上野白井 ( 群馬県 子持村、「平井」ともいう )の白井城に嫡子「竜若丸」を下向させる。不和の理由は、「小笠原退治のため、 宅間上杉憲直を大将にして武州本一揆らを信濃に発向させようとした。しかし、この出陣計画は小笠原退治のためでなく、憲実を討つためだという風聞が鎌倉中に流れて、憲実の被官が鎌倉に集結し大騒動になった」( 埼玉県史 通史編 )ためである。

( 注 ) 上杉家は、南北朝時代に、その地名をもって 山内上杉、犬懸上杉、扇谷上杉、宅間上杉 の四家に分かれ、 山内上杉は宗家として威勢を張った。太田資清は、扇谷上杉持朝に仕えた。

1438年(永享10年)
 鎌倉公方足利持氏の嫡男「賢王丸」の元服をめぐり、山内上杉憲実と争いが再び起って両者の間の溝はさらに深まり、ついに、憲実は、扇谷上杉持朝( 太田資清は同道した? )、那須太郎ら一族を伴って白井城に退き、室町幕府足利義教に救援を求める。

 持氏は、一色直兼らを差し向け、自身も 武蔵の国府中高安寺に陣を敷くが、8月禁裏から持氏追討の綸旨が出され、また、同月将軍足利義教がその綸旨を受けて持氏追討の御教書を発して 幕府軍2万5千を向かわせた。 さらに、9月千葉胤直らが持氏に背き、憲実に応じたため、持氏軍は壊滅敗走する。 この後、持氏は武蔵の国称名寺に幽閉される。  ( 永享の乱 ) 同年11月に、長尾忠政が称名寺を襲い、宅間上杉憲直、一色直兼を自殺せしめる。

1439年(永享11年)
 山内上杉憲実は、室町幕府から公方足利持氏とその子らを討伐殺害することを命ぜられ、2月扇谷上杉持朝、千葉胤直らに命じて永安寺( 称名寺から移されていた )を包囲させ、やむなく持氏に自害をすすめた。この結果、持氏、弟の満貞は自害し、持氏の子義久も報国寺において自害して果てた。義久の弟安王丸、春王丸、永寿王の三人は、下野に逃れる。

 この後、憲実は関東管領職を辞し、弟の上杉清方に管領職を代理させ、自殺を計るが果たせず、出家して伊豆の国国清寺に退く。 推測するに、持氏が京の室町将軍と反目し、また、自分の諫言を聞き入れなかったとしても、憲実が補佐すべき主家にあたる鎌倉公方を死に至らしめた責任を痛感したのであろう。

 なお、この年憲実は下野国の「足利学校」を整備し、鎌倉円覚寺の快元を初代校長として向かい入れ、五経( 「五経」とは、易経、書経、詩経、礼記、春秋をいう。儒教を内容とする学問 )註疏( 詳しい解釈をいう )を寄付した。

1440年(永享12年)
 正月、足利持氏の奉行人の一人、一色伊予守が相模の今泉に持氏の残党と挙兵との風聞がたち、関東管領代上杉清方は、京に報告するとともに、長尾憲景、太田資光らに命じて今泉を攻めさせた。3月、下野の日光山に逃れていた持氏の子春王丸、安王丸が常陸の国茂木(木所?)城に挙兵し、ついで下総の結城氏朝を頼る。結城氏朝はこれに応じて結城城に挙兵する。 ( 結城合戦 )

 ここで両陣営の顔ぶれを挙げてみる。
 関東管領代上杉清方軍
 山内上杉清方、上杉性順、長尾憲景、太田資光、扇谷上杉持朝、前関東管領上杉憲実( 長棟 )、千葉胤直、山内上杉家執事長尾景仲らの関東管領軍。このほか、京から上杉持房を総大将として幕府軍。その総勢10万とも。
 旧鎌倉公方足利持氏軍
 結城氏朝、春王丸、安王丸、一色伊予守、宇都宮伊予守、岩松持国、小山広朝、里見家基、野田氏行、木戸持季、那須資重、信濃において大井持光が挙兵、相模において大森伊豆守が挙兵。反幕府、反上杉軍。

 7月、関東管領代上杉清方、扇谷上杉持朝らが結城に着陣し、結城城を包囲するが、結城城は堅く攻守ともに戦線は膠着する。

1441年(嘉吉元年)
  4月15日、総大将上杉清方は、全軍に総攻撃を下知。この結果、結城氏朝、持朝は自害。安王丸、春王丸は京に押送途中に将軍義教の命により斬殺される。永寿王( 後の足利成氏 )は捕らえられ京に送られたが、将軍足利義教 ( 俗にクジ引き将軍といわれている ) が赤松満祐に謀殺された ( 嘉吉の変 ) ので幸運にも助けられて、その後、管領細川持之に育てられた。なお、 永寿王は、信濃の大井氏の庇護のもとにあったと、「埼玉県史」では記している。

 将軍職は、義教の子(「千也茶丸」改名して義勝)が継ぎ、管領細川持之がこれを補佐する。将軍を謀殺して播磨の国に走った赤松満祐は、足利直冬( 足利尊氏の子で直義の養子)の孫にあたる義尊を擁立する。 

1443年(嘉吉3年)
 義勝が死去し、家督を弟の義成が相続する。

1444年(文安元年)
 永寿王は、自ら関東足利氏の当主であることを宣言し、鎌倉公方復権の意欲を示す。( 埼玉県史 通史編 )

1445年(文安2年)
 足利幕府、上杉憲忠を関東管領に任ずる。結城合戦後の関東は、ほぼ、山内上杉( 家宰 長尾景仲 )、扇谷上杉( 家宰 太田資清 )両家が政を行っていた。

1449年(宝徳元年)
 越後の守護上杉房定が、関東の諸将に働きかけ、合議し、前鎌倉公方持氏の末子「永寿王」を鎌倉公方に取り立てることを幕府に願い出て、室町幕府はこれを許可する。 8月、永寿王京を出発して、9月には鎌倉に入府する。その時鎌倉にいた前関東管領山内上杉憲実は身の危険を感じて鎌倉を出て、その後、全国を放浪する。この憲実という人物は、「足利学校」を復興させるなどの功績があり、高い見識、教養などを持っていた筈だが、何故か放浪の旅に出る。

 11月、永寿王新邸に移って、将軍義成の一字を貰い 足利成氏 と称し、名実ともに第五代鎌倉公方となり「鎌倉府」の復活成る。

1450年(宝徳2年)
  新たに鎌倉公方となった足利成氏のもとへ、成氏の父持氏の旧家臣や結城合戦に結城方として参加した関東の豪族らが集結し始めた。なかでも、結城氏朝の遺子、結城成朝 ( 成氏の一字を下賜されるほど、結城氏に期待した? )の鎌倉府出仕については、世の注目を浴びた。成氏は、幕府の許可を得て正式に成朝を近侍としたが、上杉顕房、長尾景仲、太田資清らは、これが不満で、4月成氏の鎌倉御所を襲った。成氏は江ノ島に逃れたが、翌日由比ガ浜で合戦となった。( 江ノ島合戦 )

 しかし、合戦は成氏に加勢があり、上杉、長尾、太田らは逃げ去る。公方成氏、結城成朝らは結城合戦の仇を討ったというところ。 8月幕府は、使者を鎌倉に送り、足利成氏と上杉憲実( この時は、まだ鎌倉に居た )、上杉憲忠、長尾、太田らとの和解を仲介する。( 室町幕府にも、平和を望む人が居た? )

1451年(宝徳3年)
  4月成氏の臣、千葉新介が長尾景仲、太田資清らを由比ガ浜に戦いこれを打ち破る。そして、その年も暮れた12月、公方成氏が結城成朝らと語らい、なんと!、関東管領山内上杉憲忠の謀殺を企てる。

1454年(享徳3年)
 とうとう公方成氏が、上杉憲忠を鎌倉の邸宅に襲い、その家臣長尾実景らも含め殺してしまう。下克上の至りなり、もとい、上剋下の至りなり。なお、埼玉県通史では、西御門の御所に誘きだして謀殺したとある。

1455年(康正元年)
 室町幕府は公方足利成氏の討伐を下知。信濃の小笠原光康これに応じて1月軍を発向する。公方成氏は、武蔵府中の高安寺 ( 父持氏が布陣した寺 )に布陣。同月21日、扇谷上杉の相模における根拠地糟屋から上杉持朝、上野国から扇谷上杉顕房、犬懸上杉憲顕、長尾景仲らの上杉勢が故憲忠の弟山内上杉房顕を擁して布陣する。同日、武蔵の国分倍河原周辺で大規模な戦闘となる。この結果、公方成氏軍が勝利し、犬懸上杉憲顕、扇谷上杉顕房、上杉重臣大石房重らが戦死し、長尾景仲は常陸の国小栗城に敗走する。 ( 分倍河原の合戦 )  

 3月下総の千葉胤直は公方成氏に違背して山内上杉房顕に味方する。4月宇都宮等綱らも房顕に味方して成氏と戦うが、負けて陸奥の白河へ敗走する。しかし、公方足利成氏軍の強いこと、強いこと。成氏は、一度下総の古河( 以後古河は、成氏の根拠地となり、 「古河公方」と呼ばれる )に進軍し、この後小栗城を攻撃。上杉房顕、長尾景仲らを下野へ敗走させる。 6月今川範忠が兵を出し鎌倉へ入府するが、病(?)没する。9月公方足利成氏の軍と山内上杉房顕の軍が武蔵の国岡部原で戦闘する。( 岡部原の合戦 )

 この年は、この他大袋原の合戦、上野の三宮原の合戦、武蔵の騎西郡の合戦など多数ある。12月扇谷上杉家の家宰太田資長( 道灌 )が公方成氏の軍と相模の藤沢で戦闘する。このころ太田道灌は、武蔵の河越城と岩付城を行来していた。

1457年(長禄元年)
 太田道灌が江戸城を築城する。また、父資清が河越城、岩付城を築城する。岩付城は、太田道灌が築城したという説がありますが、父清資説が有力です。

 足利将軍義政( 義成 )が、天竜寺にいた弟政知を還俗させ、成氏に対抗させるため、犬懸上杉教朝らとともに関東に下向させた。ただし、政知らは、鎌倉に入れず、伊豆の堀越に拠を構える。これが 「堀越公方」である。

1459年(長禄3年)
 上杉房顕の軍成氏の軍と武蔵の国太田荘で合戦、八条上杉教房戦死し ( 太田荘の合戦 )、次いで、成氏軍は、越後の守護上杉房定の軍と上野にて交戦する。成氏軍の士気は高い。

1466年(文正元年)
 古河公方足利成氏軍を発し、武蔵の国五十子( いかつこ )に上杉房顕を攻め、房顕は陣中にて病没する。室町幕府は、房顕が継嗣がないので、越後上杉房定の子上杉顕定を関東管領に任ずるとともに成氏討伐を下知する。 なお、山内上杉家は、憲実、憲忠、房顕、顕定と越後の上杉家から連続して入嗣したことになる。従って、上杉房定の関東における発言力、影響力が次第に増大する。この年、上杉憲実没する。

 応仁の乱と関東

1467年(文正2年改元して応仁元年)
 大乱の悲劇は、将軍家の継嗣問題、管領家畠山氏、同斯波氏家督争いに端を発する。室町幕府は、将軍義政( 第八代将軍 )の時代には、「将軍」の政治的求心力がすでに失われ、管領細川勝元らの幕府宿老による執権政治が行われていた ( もっとも、室町幕府はもともと執権政治だが )。しかし、この宿老らによる政治も、細川勝元と山名持豊 ( 宗全 )との対立、三管領の名門畠山氏、同斯波氏らの室町幕府を支える有力な大名の家督争いなどによって形骸化していき、 義政の後見人生母日野重子、義政夫人日野 富子、政所執事伊勢貞親、蔭涼軒らの側近政治を招来するに至る。

 この様な政治情勢の中で、子がなかった義政は、嗣子として弟の浄土寺門跡であった義尋を還俗させ 「義視」と名乗らせ養子にし、その後見人として「細川勝元」を任じた。夫人富子は、最初は子が無かったが、皮肉なことにこの後生まれ、「義尚」と名乗る。当然 ? のことながら、富子は次期将軍には義尚をと考え、細川勝元と対立している実力者で四職家の一人「山名宗全」を頼る。

 ( 注 ) 三管四職 三管は 「管領」に任じられる役職で将軍を補佐し政務全般を司る。斯波氏、畠山氏、細川氏が代々交代で勤めたので三管という。四職は「侍所」別当( 長官 )、所司( 次官級 ) に与えられる役職で、その名のとおり主として軍事を司る。赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏が代々勤める。

 大乱の直接的な戦端は、「畠山政長」と「畠山義就」 の武力衝突によって開かれた。両者は享徳以来、摂津、河内、大和などで家督相続のもめごとで戦い続けていたが、応仁元年の正月、将軍義政が正月恒例であった管領家畠山政長の邸宅に訪問するのを取りやめて、畠山義就の主催する上洛祝宴に弟義視とともに招かれ、盛大な歓待を受けた。

 怒り心頭に達した畠山政長は、早速兵を集めるとともに、細川勝元に救援を求めた。  畠山義就は将軍義政に、細川勝元に畠山政長を助けることを禁じさせ 管領職を剥奪させたが、なおも飽き足らず、1月15日 山名宗全、畠山義就らは軍を起こし諸将と語らい将軍義政に細川勝元を問責するように迫った。

 また、 山名宗全は義視が細川勝元に奪われるのを恐れて、御所に軟禁し、御所の周囲を兵で固めた。 1月18日、とうとう畠山義就は兵3800をもって畠山政長を京上御霊社に襲い両者は激突した。 「応仁の乱」の勃発である。

 畠山政長は再三細川勝元に救援を求めたが、細川勝元は時節未到来として動かず、畠山政長は激戦の末敗れる。

 3月3日細川勝元、京極持清らは上巳の節句に御所に参賀出仕せず密かに兵を集め、諸国に呼びかける。5月20日山名宗全、畠山義就らが挙兵して細川勝元らを討伐すべく出陣する。5月26日両軍最大規模の激戦となる。6月1日将軍義政は弟義視に牙旗( 将軍御座所の旗、錦の御旗 )を与えて山名宗全討伐の命を下す。将軍義政は何故か細川勝元にお味方する。

 ここで各陣営の主たる者を俯瞰してみる。
 東軍
 総大将足利義視( その後ろ盾として将軍義政 )、細川勝元、畠山政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、富樫政親、武田信賢( 若狭 )その兵およそ16万。
 西軍
 総大将足利義尚 ( その後ろ盾として御台所日野富子、内大臣日野勝光兄弟 )、山名宗全、畠山義就、斯波義兼、一色義直、土岐成頼、河野通直、大内政弘、六角高頼その兵およそ11万。

 もちろん、これらすべての大名が一度に戦ったわけではない。 細川勝元 ( 事実上の総大将 ) の本陣は、京のほぼ東部にあたる相国寺にあったところから東軍といい、これに対して、山名宗全 ( 事実上の総大将 ) の本陣は、西の山名邸を中心としていたので西軍といった。なお、京都の「西陣」という地名は、この由来だという。

 7月20日、大内政弘、河野通春らの軍勢が兵庫に至り、京に迫る勢いをみせる。同月25日東西両軍入り乱れて諸所に激戦となる。8月23日東軍の総大将義視は伊勢の北畠氏を頼り都落ちし、禁裏の後土御門天皇、上皇は難を逃れて室町御所に入る。10月3日 両軍相国寺付近にて最大級の激戦。足利氏一門の菩提寺格の相国寺の寺僧は西軍に味方し、寺に放火し東軍と戦う。この日室町御所に難を逃れていた上皇は、山名宗全の追討を宣下する。東軍は「 官軍 」となり必死に防戦し、相国寺を奪い返すなど、特に畠山政長の働きが目覚しかった。この様な戦火のなかで応仁元年は暮れて行った。

 この年の大乱で焼失した寺院は、「百万遍寺」、「誓願寺」、「相国寺」、「南禅寺」など。多くの貴重な文化的遺産が焼失した。まったく残念極まりない。太古の時代から戦火の絶えたことは、歴史のなかでみたことはない。現代に生きる我々はこの歴史のなかで何を学ぶのだろう。歴史を科学的に実証したり、論理的に推理したりしても、歴史の本質を捉えなければそれは単に「技術論」を示しているに過ぎない。大切なことは 「過去から何を学ぶか」 である。最近は「官制の歴史学」でない歴史書が増えた。好ましい限りである。 オットト!! 堅い話はこのホ−ムペ−ジの扱うところではない。話しを元に戻そう。

1468年(応仁2年)
 京都での戦闘の主なものは、次のごとくで、3月17日--京北小路烏丸に交戦する。7月4日--西軍京の諸寺を放火する。 8月13日--東西両軍深草で交戦し、その後法性寺などで交戦する。 9月4日--東軍仁和寺を攻め放火する。 焼失した寺院は、「仁和寺」、「京稲荷社」、「吉田社」、「浄蓮華院」、「青蓮院」、「法勝寺」など。

  この後、東西両軍の戦闘は、地方に次第に広がりをみせる。10月14日西軍斯波義兼は、朝倉孝景( 後に細川勝元が越前の国守護職を与えることを約し東軍に寝返らせる )を越前の国に派遣し 東軍斯波義敏を攻めさせる。11月5日近江の国で東軍京極持清と西軍六角高頼と交戦する。

1469年(文明元年 )
 この年、「東寺」、「芝薬師堂」、「西芳寺」、「清水寺」、「建仁寺」など打ちこわし又は放火されたが、殺伐とした話ばかりなので話題を関東に移そう。

  このころ関東では、京での大乱の推移を見守っていたのか比較的合戦が少なかった。扇谷上杉家の家宰太田資清入道して道真は、武蔵の国河越において、都の大乱を避けて武蔵の国に下向していた連歌師の心敬、同宗祇、品川の豪商鈴木道胤( 長敏 )らを招いて千句の連歌会を催した。( 注 )埼玉県史通史編では、文明2年正月と記されている。 これは後に「河越千句」として歴史のうえでも大きく取り上げられることになった歌会である。この歌会は、大乱の戦時でもあることから、単なる娯楽としての歌会でなく、戦勝祈願を込めたものであったという。作者としては、「娯楽」としてみたいが。

  その連歌会に招待された「鈴木道胤」であるが、道胤の出自については「紀州熊野」の鈴木一族( 埼玉県史通史編 )を祖を持つ人であったという。もしこれが事実ならば、作者としては、「紀州雑賀」の鈴木一族と関東とのつながりの道筋が判明( 事はそんなに単純なものでないだろうが ) したとして、非常に喜ばしい限りである。雑賀と熊野はいわば隣り合わせの地域で、古くから「熊野信仰」の盛んなところであり、また、 「孫市」の定紋も「熊野の御神鳥」の「ヤタガラス」である( 真実のところはよく解っていない ) ところから、雑賀の鈴木氏縁者が熊野に拠を持っていたとしても不思議ではない。むしろ盛んに交流していたと考えるべき( 「管理人」曰く、少し強引 ? )である。いずれにしても、作者にとっては意義深いことではある。

 この「鈴木道胤」についてもう少し調べてみよう。以下は、「埼玉県史通史編」及び「大系日本の歴史第6巻、永原慶二著、小学館」を引用したものであります。

 「当時、江戸城の商都・商港として海浜の要津であった武蔵国品川( 東京都品川区 )に、風雅の趣味を有する長者、鈴木道胤という人がいた。道胤は、紀州熊野の鈴木一族の出といわれ、品川の地で、土倉の経営・商船の航行を独占して、豪商の地位を築き、かつ信仰心も厚く、日蓮宗妙国寺の開基になったとも伝えられている。

 和歌や連歌の道を通じて」・・・・・「関東の有力武士とも通じ、河越の太田道真、江戸の太田道灌らとの間には、品川を中心とするいわば武蔵国文芸サロンとでも呼べるような組織を形づくっていた」。

 そしてさらに、「「妙国寺文書」に収める宝徳二年十一月十四日付鎌倉公方足利成氏の御教書によって、「品河住人道胤」が「蔵役」を免除された事実も知られる」・・・・・「妙国寺を造営し、鋳物師を招いて梵鐘をつくらせるほどの財力は、なみなみのものではない。おそらく、紀州方面と品川とのあいだの海上輸送に活躍したことがその蓄銭の基礎であろう」・・・・・

 「道胤という人物は、その意味で経済史のみならず文化史的にも注目すべき存在である」と記している。 実は、作者も「日蓮宗」であるが「妙国寺」なる寺も知らなかったし、ましてやその財力となると・・・同じ「鈴木姓」を持つ人物に、今度は武将でなく、経済人、文化人としてめぐり逢えたことに、大きな喜びを感じる。

1471年(文明3年)
  朝倉孝景が、やはり東軍に寝返り、その恩賞として越前の国守護職を奪い取る。 この年、関東では古河公方足利成氏が堀越公方足利政知と伊豆の国三島に戦うが、関東管領山内上杉顕定の軍が政知を救援し成氏軍を破る。ついで、上杉顕定の軍は成氏の軍と古河に戦い、成氏は古河から逃げ去り千葉氏を頼る。

1472年(文明4年)
 足利成氏は、結城氏広らの協力を得て古河を奪回する。 この年、山名宗全は細川勝元に停戦し和睦することを提案したが、勝元に拒否される。

1473年(文明5年)
 応仁の乱の東西両軍の総大将が期せずして、死去する。3月18日山名宗全70歳、5月11日細川勝元44歳であったという。どのような戦国の雄でも、「天命には勝てず」、歴史から学ぶべきことは実に多い。

 室町幕府将軍足利義政が将軍職を「義尚」に譲る。第九代将軍の誕生である。 関東では、山内上杉家の家宰長尾景信( 昌賢 )が死去する。長尾氏の嫡子「景春」がその跡を継ぐべきところ、主家山内上杉顕定が執事職を景信の弟「長尾忠景」に継がせた。このことが小康状態にあった関東にまた戦乱の火種を撒く事になる。

 ここで、長尾氏について概観してみよう。長尾氏は、桓武平氏の一統で鎌倉郡長尾の地名をとって長尾氏と称したが、関東における長尾氏は、現前橋市惣社に本拠を持っていた「惣社長尾家」、鎌倉市に本拠を持っていた「鎌倉長尾家」、足利市に本拠を持っていた「足利長尾家」、群馬県子持村白井に本拠を持つ「白井長尾家」の四家に分かれていた。 長尾忠景は惣社長尾家であるが、長尾景春は白井長尾家で長尾四家のなかでも最も力を持ち宗家として有力であった。

 では、何故景春を家宰にしなかったのか。 山内上杉顕定は、越後上杉家から 関東の山内上杉家に入嗣しており、関東における越後上杉氏の勢力が衰えることを嫌い、当時主家の上杉氏をも凌ぐ勢いを持っていた 長尾氏の力を削ぐための思慮が働いたためであるという。  これ以後の関東における戦国模様は、室町将軍と関東公方との対立から 関東管領上杉氏とその家宰( 執事職 )を争う長尾氏とのいわば内紛的様相を呈していく。もっとも、北条早雲の登場により関東の情勢は質的に変化することになるが。

1476年(文明8年)
 長尾景春が、現埼玉県寄居町鉢形に「鉢形城」を築き、主家である上杉顕定に叛乱を起こし、現埼玉県本庄市東五十子にあった顕定の「五十子の陣」を襲う。 ( 長尾景春の乱 )

 江戸城にいた太田道灌は、掘越公方足利政知の命により、駿河の守護今川氏の跡目相続争いの調停のため、駿河に下向し、北条早雲( 伊勢新九郎長氏、伊勢宗瑞と称する )と会見し、今川氏の家臣らを鎮静させ、和解させることに成功する。

1477年(文明9年)
 この年、応仁の乱が終る正月早々長尾景春が兵約3千を率いて五十子の陣を襲い、山内上杉顕定、扇谷上杉定正、惣社長尾忠景らを上野国那波荘に敗走させる。( 五十子の戦い )

 この後、景春と道灌は面会するが話しはまとまらず、関東騒乱となる。 この戦いの後、関東各地の反上杉陣営が蜂起し、古河公方足利成氏が不穏な動きを示す。特に、河越城と江戸城のほぼ中間にある石神井城、練馬城に豊嶋氏( 練馬石神井を所領とする国人 )兄弟が立て篭もり、反旗を掲げたので戦線が分断され、上杉勢は一挙に劣勢となる。

 4月10日、駿河から戻った太田道灌が、この上杉勢の危機的状況を救うことになる。まず、武蔵の国勝原に長尾景春の家臣矢野らを撃退し、次いで、13日、豊嶋兄弟のうち弟の豊嶋泰明を江古田原に攻め、討ち死にさせ、兄の泰経を敗走させる。( 江古田、沼袋原の戦い )

 5月13日、太田道灌は山内上杉顕定、扇谷上杉定正を五十子の陣に迎え入れ、ついで、14日、鉢形城を討つとみせかけて、長尾景春を用土原に誘き出し、これに山内、扇谷両上杉軍らが加わり、これを殲滅させる。景春は鉢形城へ逃げ帰る。 ( 用土原の戦い )

 7月古河公方足利成氏が長尾景春を支援するため、上野滝に出陣する。太田道灌は、これに反応して9月上野片貝に兵を出す。顕定、定正らは白井城に移る。しかし、この後双方とも兵を引く。

 太田道灌の活躍と当方滅亡

1478年(文明10年)
  太田道灌は、正月25日、和睦に従わない長尾景春を鎮静するため、平塚城 ( 豊嶋泰経在陣 )、丸子城、小机城に転戦し、成果を上げた。 3月20日扇谷上杉定正の軍が河越城から出陣して、長尾春景方の大石顕重の立て篭もる二宮城( 現東京都秋川市 )に攻めて、これを陥れる。

 春景は足利成氏の立て篭もる成田の陣に移動して、千葉孝胤と合力して、羽生に陣を張るが、定正と道灌の弟で小机の陣から引き返した太田資忠の軍に攻められ、景春、孝胤の軍は一戦も交えず下総の成田に逃げ帰る。

 4月11日太田道灌は、小机の陣から移動して、羽生の陣を攻めてこれを陥れ、ついで二宮城を攻め大石顕重を降伏させる。道灌は、休むまもなく武蔵国の北部鉢形城を攻略するため河越城から再び出陣。7月17日に、長尾景春の鉢形城に夜襲をかけこれを攻略する。景春は秩父( 高佐須城? )に逃げ去る。道灌は、長尾景春が秩父に敗走した後、古河にお味方となった足利成氏を、鉢形城に上杉顕定を迎い入れる。

1479年(文明11年)
 武蔵国の一応の平定がなったものの、下総国には臼井城( 現千葉県佐倉市 )に根拠を置く長尾景春方の千葉孝胤が依然として勢力を張っていた。道灌は、景春の影響力を排除し武州平定のためにはどうしても孝胤を打つ必要があった。

 1月18日に太田持資の軍が臼井城を攻めて、太田資忠が戦死するも、落城させることに成功する。( 埼玉県通史編では7月15日 )

 このころ秩父に逃れていた長尾景春は、秩父各地に砦を築き、徹底抗戦の構えをみせていた。特に城主長井六郎の立て篭もる長井城( 現埼玉県妻沼長井 )が威勢を張っていた。江戸城に帰っていた道灌は、この長井城を攻略する必要があると考え、11月26日軍を発向して長井城に向い、金谷に陣を張る。両軍は小競り合いを続けるが、道灌は上杉定正、ついで上杉顕定と児玉に合流する。これに気いた景春はまたまた秩父に逃げ去る。

1480年(文明12年)
 1月20日長尾景春は越生( 現埼玉県越生市 )に出撃して、道灌の父太田道真を襲うが破れる。同じころ、道灌はついに長井城を攻めてこれを落し、ついで日野城( 現荒川村日野 )をも攻略し秩父高佐須城方面に進撃する。

 しかし、一大事が出態、 なにあろう足利成氏がまたまた長尾景春に付いてしまったのである。この人の七変化には飽きれる。この衝撃は、武州平定を完成させようとした道灌にとっては大きかった。この成氏の裏切りは、文明10年に上杉氏と取り交わした約束の不履行に業を煮やし、景春を頼った( 埼玉県通史編 )というのである。なお、足利成氏は2月25日に細川政元に幕府との和平の斡旋を依頼している。

 文明12年の5月、太田道灌・道真父子は山内上杉顕定( 越後上杉家より入嗣 )と共同して、上野等各地に転戦。そして秩父に進軍して、6月24日ついに長尾景春の篭る日野城を攻めたて落城させる。( 長尾景春の乱の終息 ) なお、長尾景春の消息は、古河公方足利成氏のもとに落ち延びて生涯をまっとうしたという。

1486年(文明18年)
 太田道灌は、その生涯を費やして、扇谷上杉家と山内上杉家の両家の安泰こそ、武州ひいては関東の平和に繋がるものと考え行動した。しかし、道灌の天才的な軍略に恐れを抱いていた扇谷上杉顕定が、山内上杉家の関東覇権を恐れて、言葉巧みに定正に「道灌を亡き者にすれば手を結ぼう」と語りかけ、これにまんまとはまった定正は、道灌を相模国糟屋( 神奈川県伊勢原市 )の定正の館に呼び謀殺する。時に道灌55歳、文明18年7月26日のことであった。  道灌は、死に際に「当方滅亡」と叫んだという。 

参考文献

−完−


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