徒 然 話
 今年(平成17年)で、戦後60周年なんですよね。終戦の時期を迎え、今年も色々な特集が雑誌やTV等で組まれていて、あらためて平和の大切さが身に染みる今日この頃です。
 そういえば北海道の実家に帰ると、お仏壇のところに母方の祖父の弟の遺影があり、それが旧海軍の7つボタンの制服を着ている写真なんです。昔は祖母の家にあったもので、祖母の家に行く度に見ていた記憶があります。どのような縁か、私が海上自衛隊、それも航空学生に入隊することになりまして、その制服はなんと旧海軍以来の詰襟の7つボタンだったんですね。道すがら、通りがかりのおじいさん等に「なつかしいなあ」と声をかけられたりもしました。そして、私は時を経てP−3Cの搭乗員になったわけですが、無事に金のウィングマークを取得し、次の休暇で帰省したとき、何故かあの遺影が気になり、親に色々聞いてみました。すると実は大東亜戦争(太平洋戦争)中、祖父の弟は潜水艦に乗っていたことが分かったのです。そして終戦近づく昭和20年4月18日、彼の搭乗していた伊号第44潜水艦は、米軍の攻撃により撃沈されたとのことでありました。僕が乗っているP−3Cの主任務は対潜水艦戦ということで、そこでも何かしらの、奇妙な縁を感じているのであります。
 さて、今年は「終戦のローレライ」という福井晴敏氏の小説が、「ローレライ」という映画になりました。皆さんはご覧になりましたか?? 私的には結構おもしろかったと思うのですが・・・。本作の中には、主役の潜水艦、そして特攻兵器であった人間魚雷「回天」の操縦士役等が出てきます。伊号第44潜水艦については、回天の母艦として出撃していたことから、映画の中で敵艦隊の猛攻撃を受けている場面などは、また違った気持ちで観てしまいました。
 色々な事が繋がって、何かしらの縁を感じる今日この頃、今回は、ちょっと伊号第44潜水艦について興味を持って調べてみようと思ったのです。
其の一: 伊号第44潜水艦のお話し
<伊号第44潜水艦紹介>
 巡潜乙型改1(伊40型)
基準排水量:水上2230t/水中3700t
常備排水量:2624t
全長:108.7m
幅:9.3m
喫水:5.2m
主機:艦本式一号十型複動ディーゼル機関×2
   (2軸:水上11000HP/水中2000HP)
計画乗員:94名
速力:水上23.5Kt/水中8Kt
航続距離:水上16Ktで14000NM/水中3Ktで96NM
兵装:40口径14cm単装砲×1
    25mm連装機銃×1
    53cm魚雷発射管×6基(合計魚雷17本)
搭載航空機:水上偵察機×1
備考:安全潜行深度100m
    改修後は回天を4機搭載
[性能要目等]
[艦歴概要]
昭和16年(1941年)度計画
昭和19年1月13日:竣工(横須賀工廠)
 横須賀鎮守府に編入
4月28日:第6艦隊第15潜水隊編入
5月15日:呉出港、
 ニューアイルランド北東海域に進出
5月27日:米軍機の爆雷攻撃を受け小破
6月15日:呉に帰投、修理実施
10月19日:捷一号作戦発令により、呉を出港
 レイテ湾へ向け航行中、バシー海峡で
 自動懸架用タンクの爆発事故により
 3名死亡、片舷エンジン、ジャイロコンパス故障
 のため反転
10月22日:呉に帰投
 合わせて回天搭載艦に改装
昭和20年2月21日:回天特別攻撃隊千早隊
 として大津島出港。硫黄島海域に向かうが
 敵哨戒線突破できず
3月11日:呉に帰投
4月3日:大津島出港
4月4日:回天特別攻撃隊多々良隊として
 呉を出港。沖縄海域に向かう
4月18日:敵水雷戦隊、艦載機の猛攻を受け
 撃沈
5月2日:沈没と認定
6月10日:除籍
〜硫黄島海域の戦闘〜
 戦況の切迫に伴い、海軍に人間魚雷「回天」搭載艦の伊44(回天4基)、
伊368(同5基)、伊370(同5基)の3隻による「回天特別攻撃隊千早隊」が編成され、
2月21日に出港。25日に海域に到着し、敵泊地に突入すべく作戦行動開始。
しかし硫黄島南西48NMで米艦艇3隻による制圧を受ける。
 全「回天」による一斉攻撃を企図するも、潜行中の母艦から回天移乗のための交通筒は
2基しかなく、伊44の4基に操縦士を移乗させるには浮上するしかない。しかし米艦3隻の
制圧を受け、現場を離脱できたのは、潜航により47時間にも渡る追跡を振り切った後で
あった。再度の突入を期するも、逆探とソーナーはひっきりなしに敵の音源を捕らえ、
とても近接できる状況ではなかった。硫黄島までは、いまだ約40NMの距離があり、
一部の士官に突入すべしとの声が上がるも艦長は犬死すべきではないと攻撃を断念。
この間、26日に米駆逐艦フィンネガンにより伊370が、翌27日に護衛空母アンチオ
搭載のアヴェンジャー雷撃機により伊368が撃沈され、千早隊は崩壊する。
 伊44は、長時間の戦闘と潜航による艦内の酸素不足等、危険な状況を乗り越え、
3月11日に呉に帰投する。しかし、潜水艦隊司令部は現場の状況を考慮せず、「回天を
発進させずに引き返した」ことは命令違反、戦意不足だとして艦長を更迭した。

〜沖縄海域の戦闘〜
 4月4日、新たな艦長の下、回天特別攻撃隊多々良隊として呉を出港、
沖縄海域に向かう。想像を絶する敵の状況下であったが、司令部の方針により
突入を敢行する。
 17日2320、沖縄東方海域にて米第38任務部隊第4群第47水雷戦隊所属の
駆逐艦ヒーアマンのレーダーにて被探知される。2355にヒーアマンが爆雷攻撃開始、
その後第53水雷戦隊駆逐艦ウールマンが共同で爆雷攻撃を実施した。
翌18日0130〜0743の間、ヒーアマンと第47水雷戦隊司令駆逐艦マクコードが
共同で爆雷攻撃を実施。
0851〜0857に軽空母バターン搭載のアヴェンジャー雷撃機2機が爆撃実施。
1030から開始された第54水雷戦隊駆逐艦マーツ、コレットの共同攻撃により、
同日午後、南大東島北北西(2642N/13038E)にて撃沈される。乗員、
回天搭乗員、整備員を含む130名が命を落とす。

以上が、僕の調べた伊号第44潜水艦のお話です。
まるで映画のような、しかし実際に60年前にあった、想像を絶する世界です。
戦争は悲惨なものであり、絶対に繰り返してはならないものです・・・。
そのためにも、現代に生きる我々は、振り返って歴史を勉強することが
必要なのではないでしょうか。
たくさんの人々の犠牲の上に、今の我々があるということは
忘れてはいけないでしょう。
今回はそんなことを知らしめるため、祖父の弟が僕にこの話を
調べさせたような、そんな気がします。
全ての犠牲者の方々に敬意と追悼の意を表しつつ・・・
2005.8.14 Moto
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