◇主イエス・キリストは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためた、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語られ、続けて「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われました。(マタイ5:17-18)
マルコ福音書は2〜3章で、安息日について記しています。安息日を守ることは旧約聖書の時代から現代に至るまで、変わらない重要なことです。ただ、主イエスの時代は、特にファリサイ派の人たちによって、安息日の本当の意味が隠され、ねじ曲げられていました。そこで、主イエスは、安息日が持っている本来の意味、神様がお与えになられた恵みを回復しておられるのです。「安息日を聖としなさい」という戒めは今も変わらない恵みの律法なのです。
◇当時は形式的に守られていた安息日を、主イエスの弟子たちが破り、主はそれを擁護なさる発言をされたことから、キリスト者は都合で安息日を守らなくてもいいのだ、という解釈もあります。しかし、それはあくまでも誤解です。
安息日を守ることは、殺すな、盗むな、姦淫するなという戒めと同様、否、それらに先立って守られるべき神様のご命令なのです。なぜでしょうか。
安息日は神様を真実に神様として崇め、礼拝する日だからです。私たちは正直に自分を顧みて分かりますが、多くの時を自分のため、自分たちのために生きています。それは群れを作って生活している動物と変わらないと言われても仕方ないのでしょうか。日曜日の本当の意味を見失っている人は、質的には一週間を月、月、火、水、木、金、金として生きていることになります。しかし安息日、私たちはキリスト者にとっての日曜日は違います。その日には一人の人して、神様の御前に立つのです。そこには真実に、人間性の回復があります。ある人が「6日間は畜生のように働く、しかし、この日に人間になるのです」と言いました。神様に愛され、赦され、生かされている自分を取り戻すのです。その神様に感謝と賛美の礼拝をささげるのです。
ファリサイ派の人たちは自分の名誉のため、他人を馬鹿にするために、安息日を形式的に守りました。私たちキリスト者にとって日曜日は、本当の人としての喜びを味わう日です。そこに私たちを招きだしてくださった神様に、心からなる賛美をささげましょう。