◇ある日、主イエスの所に、当時としては偉いと考えられていたファリサイ派の人と律法学者たちがやってきました。弟子達が食事の前に手を洗わないのを見て「どうして言い伝えに従わないのか」と質問しました。主イエスは二つの方向から答えておられます。
一つは、「言い伝え」というものが、いかに人間の都合で作られ、神様の御心をゆがめることになっているかの指摘です。神様の御心を本当は分かっているのに、自己都合で勝手な解釈をし、自己弁護のために作られたのが「言い伝え」であったのです。「神の言葉を無にしている」(13節)とはっきり言われました。
主イエスは、ユダヤ教の指導者の過ちを指摘されました。この過ちはキリスト教会にもありました。カトリック教会は、伝承を大切にして、同じ様な間違いをしました。宗教改革の原理の一つ「聖書のみ」という言葉は、その反省から生まれました。聖書を「神様の御言葉」として受け取るためです。
◇では、私たちプロテスタントは、このような過ちを決して犯さないのでしょうか。そんなことはありません。同じ事柄ではありませんが、同質の過ちを犯していることがよくあります。
食事の前に手を洗う、そのこと自体は良いことです。当時も今も変わりありません。ところが私たちは、その「良いこと」をしない人たちを裁いてしまうことがあります。「良いこと」が、実に裁きの剣になっているのです。
私たちに与えられた良いこと、良い力、良い知恵など多くあります。それらをもって、人を裁き、レッテルを貼り、ストレスを発散をしているとしたら・・・ファリサイ派の人たちと同じではありませんか。「ファリサイ」とは分離を意味します。彼らは「あの人達と自分達は違う」と言って明らかに差別をしていました。それが今回の記事になっています。
◇二つ目には、それらのことは、人間の汚れた心(自己弁護を計り、神様の御言葉さえねじ曲げてしまう心)から出てくるのだと指摘されました。「手を洗う」という外側のことを問題にしているが、本当は「心」なのです、と言われたのです。では、清い心とは?
神様の御言葉を自己都合でねじ曲げることなく、そのまま、あなたを通って具体化させるという素直な心が、真実に「清い心」なのです。自らの清さを見せびらかすのでなく、この「自分」を通して、神様の清さを素直に現していくのです。
鳩のごとくに素直であれ!
(1999.4/25礼拝 勝田教会牧師 二宮幸雄)