手を伸ばしなさい    <マルコ福音書3:1-12>

 ◇2章の終わりにありました「安息日」についての展開が見られます。主イエスは「また」安息日に会堂に入られました。礼拝をささげるためです。

 私たちにもよく分かる、日曜日の礼拝の場を思い浮かべてください。「主イエスは怒って・・・悲しみながら」と5節にあります。主イエスは何をそんなにお怒りなのでしょう、何に対して、このように悲しんでおられるのでしょうか?

 ◇安息日、その日はいかなる(人間の)業をもしてはならない、と決められていました。竹森満佐一先生はある本の中で「人が誰からも教えられないで、生まれた時から習得している技術がある。それは人をさばく技術だ」と書いています。人間の業の代表は「裁くこと」ではないでしょうか。主イエスが出席された礼拝において起きていたことは、まさにそのことでした。「人々は主イエスを訴えようと思って安息日に・・・注目していた」と2節にあります。安息日にしてはならないのは裁くことです。

 ◇安息日が真に安らぎの時、安息の日となるために、私たちは少なくともこの日は、人を裁くという業を休むのです。私たちは生活のほとんどの場面で、裁きあって生きています。むろん罪に定めるというような意味ではなく、自分の目で人を判断し、その人との距離を決定したりするということです。その極端な姿が、主イエスに対する人々の目です。安息日に人を裁こうとしているのです。それに対して主イエスは怒り、悲しんでおられるのです。

 ◇日曜日の礼拝に出席して、そこには裁きはない、裁く必要もない、ということが分かってきますと、どんなに大きな安らぎがあることでしょう。真の慰めを経験するのではないでしょうか。現代社会に生きる私たちに、今、一番必要なのは、この安らぎではないでしょうか。

 ですから私たちは日曜日には、もっとも人間的な業である「裁くこと」を休みます。ただ、神様の恵みの中にあって、無条件に赦されている自分を味わい、神様を仰ぎ、礼拝するのです。

  主イエスは怒り、悲しみ、戦っておられます。そして盾となってくださり、私たちをその赦しの内に抱きかかえていてくださるのです。この恵みの安らぎを充分に味わうことが、神様の恵みを無駄にしないで、生きることになるのです。

 

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