使徒と名づけられ <マルコ福音書3:13-19>
◇主イエスが12人の使徒をお選びになられた記事です。四つの福音書に出てくる記事ですから、私たちになじみの話です。しかし、よく注意してみると、違いがあります。マルコ福音書だけが、この12人を選んだのは、主イエスが「自分のそばに置くため」であると記しています。むろん、他の福音書と同じように、派遣、宣教、などの目的もあげていますが、マルコは第一に、おそばに置くためと記しています。
◇弟子たちが選ばれた目的は、よく考えてみれば、私たちが選ばれた目的でもありますから、私たちにとっても重要です。私たちがキリスト者であるというのは、キリストと共に生きるためであると言えましょう。その、キリストと共なる人生を送らせるために、主は私たちを御自分のおそば近くに召されたのです。
よく「信仰者の力は何か」などと聞かれることがありますが、それは主イエスが共にいてくださることです。「福音とは何か」とも問われますが、十字架・復活・赦しの主が私たちと共にいてくださることに他ならないと言えましょう。
◇マルコ福音書はこのように、主が共におられることの幸いを強調しています。それともう一つ、主が私たちをお選びになられたのは「これと思う人々」であったということです。主イエスが私たちを召されたのは、私たちの方に何らかの理由があったからではありません。主イエスは私たち一人一人を御覧になり、「この人を」と特にお思いになり、御自分の弟子にしてくださっているのです。主イエスにとってはたいそうな理由がおありだったのだろうと想像しますが、私たちには量りかねます。主の御心なのですから。
私たちは「なぜ自分がキリスト者で、あの人は違うのだろう」と思ったり「こんな自分がなぜ、選ばれたのだろう」と考えます。私たちは自分の意志で、信仰を持ち、自分がこの教会の会員になったのだと思っています。ごく普通の感じ方でしょう。しかし、自分がキリスト者である、という理由については、主イエスの選びが優先していたのです。主は私をお選びくださり、私をおそばに置いてくださっているのです。信仰を持ってもう一度、自分を見直し、幸いを噛みしめましょう。
覚えておきたい大切なことは、「信仰とは自分のうちに理由を見出すのではなく、神様の恵みのうちにこそ理由をみつけだすこと」ということです。今週も、選ばれた喜びを味わいつつ。