「神の不思議」マルコ福音書12:1−12 |
1999.10/24勝田教会礼拝説教牧師:二宮幸雄 |
◇主イエス・キリストは「権威についての問答」にお答えになられるかのように「ぶどう園と農夫のたとえ」を話されました。神さまこそが真に権威をお持ちで、その神さまに権威を頂いて生きている私たちは本当に幸せであることを、先週聞きました。
この「ぶどう園と農夫のたとえ」は権威ある神さまのお姿を示していますので、怖く、厳しい話に聞こえます。このたとえに出てくる、ある人とは神さま、ぶどう園はイスラエルの民、農夫たちはその指導者、僕は預言者たち、愛する息子は申し上げるまでもなく、主イエスを指しています。この話を聞いていた祭司長、律法学者、長老たちは、自分たちは民の指導者であると自認していましたから、神様の自分たちに対する厳しい裁きを言われたと思い、腹を立てたとも考えられます。
9節でこのたとえが終わるならそれが正しいでしょう。しかし本当のところは10節以下のお言葉を正しく聞くことが出来なかったのが、その原因でした。ここに語られる「神の不思議」を受け入れられなかったのです。
◇このたとえは神さまの裁きの物語ではありません。むしろ大きな憐れみに根ざした赦しと救いの物語です。 10節、11節を大切に読む必要があります。イスラエルの指導者だけでなく、私たちクリスチャンも聞き違えることがあります。
神さまは本当に権威ある方です。しかし、その権威を行使なさろうとはせず、むしろ人々が無視して捨てた神の御子によって、赦しと救いを成就なさるというのです。「これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と主イエスも言っておられます。神さまが真実に神さまであられるとはこのようなことなのです。ある人が「権威はそれを用いることよりも、放棄することによって高められる」と言っていますがその通りだと思います。
この不思議と思える神さまのなさり方に「これでは正義が貫かれない」と怒りを覚える方もありましょう。しかし私は大きな憐れみを感じ、膝をかがめて感謝したくなります。ここが律法学者や祭司長と私たちクリスチャンの違いなのではないでしょうか。神さまの恵み、愛と憐れみのゆえに、今日、ここに在るを得ているのです。ご自分の罪深さと、この「神の不思議」に思い至ることが出来る私たちはまことに幸いです。
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