「年の終わりに」黙示録22:18−21 |
1999.12/26礼拝説教 牧師 二宮幸雄 |
◇クリスマスの後、年末礼拝をしています。クリスマスには遠く2000年も昔に心を向け、幾多の苦難を越えしめる神様の恵みを思いました。年末礼拝では、行く手に眼を転じて、私たちの終わりを考えましょう。
私たちキリスト者の生涯は、過去の歴史的出来事であるキリストの十字架に決定的に影響を受けています。それと共に、これから迎える将来・未来がどのようなものであるかが、私たちの生き方を決定づけるのです。
そこで私たちの行く手はどうでしょう。一言で結論を申し上げれば、私たちの行く手は天国です。キリスト者とは、キリストの十字架の恵みから出発し、キリストのお約束である天国に向かって旅する人だからです。
◇多くの宗教でも、また思想でも人類の行く手について論じ、それなりのことを示しています。特に私たちにとっては天国が問題なのです。では天国とはどのようなところなのでしょう。聖書にある天国の姿はすばらしいものです。そこでは全体と個が共に少しもかけることなく生かされています。
◇思想的表現をすれば、全体主義と個人主義とが共に生かされています。仏教の言い方からすれば、大乗仏教と小乗仏教の願いが共に達成されているといえましょう。私たちは自分を取り巻く環境、広い意味での全体と、この私という個人とのつきあい方、順応の仕方に苦労します。自然の環境や社会の環境、多くの人たちの考えと自分の思いなど、どのようにしたらいいのか迷うこともあります。実は救い・私たちの究極の行く手についても同じ悩みがあるのです。そこで、個人の救いを求めて、環境から解脱することであるという考えが起きたりします。また救いとは大海に落ちる一滴の水のように、全く自分を無くすことであると言われたりもします。
しかし聖書が示す天国は、黙示録の21:3−4に「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」とある通り、私と神様とに何の矛盾もなく、神様は私という個人の真実な慰め手となって下さるというのです。
黙示録が示す行く手を信じるなんて、と思われる方もありましょう。しかし私たちキリスト者はそれを固く信じて疑わないのです。「安んじて行け」。