「主は冷たき墓に」ルカ福音書23:44-56 |
2000.4/16勝田教会礼拝説教 牧師:二宮 幸雄 |
◇主イエスの十字架上での死と葬りについて記されています。ルカは主イエスの最後のお言葉を「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と伝えています。詩篇31編のお言葉です。この詩篇は一日の終わり、床につくときの祈りの詩編です。主イエスもおそらくそうしておられたことでしょう。主イエスは一日の終わりのように、御生涯を閉じられました。ステパノもまた、同じように祈りつつ召されていきました。以来、キリスト者の就寝の祈りとしてよく用いられるようです。ルターの夜の祈りにも見られます。
主イエスにおいてそうであったように、私たちの一生は一日のごとく、一日は一生のごとくにあると言えましょう。「一日一生」という著名な本もあります。人は日々の生活をしているように死んでいくのです。また今日、死んでも良いように生きるのです。寝るときには、今日、身の回りに起きたことの全てはもちろん、自分自身をも神様の御手に委ねて生きるのです。信仰の秘訣です。信仰生活は主の御手に委ねることに始まり、終わるのです。
◇主イエスは墓に葬られました。神の国を「待ち望んでいた」人の手で、「準備の日」安息日が「始まろうとして」いたときです。さらに、主イエスの墓を見届けた婦人たちは「準備をした」とあります。主イエスの葬りは終わりを示すのではなく、むしろ復活の一部です。墓はその舞台、葬りは復活の準備に他なりません。
私たちにとって「お墓」とはどのようなところでしょう。一生の終わりに納まるところなのでしょうか。確かにそう言えます。しかしそれは一面です。私たちにとっても、主イエスにおいてそうであったように単なる終わりなのではなく、むしろ「希望の場」です。ただ通過点と言うよりも、そこから待ち望んでいる天国へ行くのです。
昨年、私たちは教会墓地を造り、そこを「天国へのステッピング・ストーン」(天国への踏み台)と考えました。ここを通して、主にお会いできるかと思うと、楽しみの入り口、期待の門とさえ思えてきます。お墓において確かに地上の活動は終わります。しかし、そこにおいて、これまでも少しずつ示されてきた神様の恵みの御業が、このみすぼらしい私の人生に大々的に展開され始めるのです。
私たちは主と共に葬られ、主と共によみがえるのです。