「信仰による義」ローマの信徒への手紙3:21−31 |
2000.8/13礼拝説教要旨 勝田教会牧師 二宮 幸雄 |
◇私たちキリスト者は「赦された罪人」です。私たちは与えられた赦しを喜び、赦してくださった主に感謝を捧げながら生きているのです。
ローマ書は3:21から新しい主題に入ります。すぐ前までは人間の罪の深さを指摘していました。その結論は、「正しい人は一人もいない」ということです。ここからはその罪深い人間への赦しの福音が語られます。この部分(3:21−31)はローマ書の中心的テーマが示されています。説教題を「信仰による義」としましたがこれはそのままローマ書の副題にもなります。 ◇27節に「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。・・・・信仰の法則によってです。」とあります。人は誇りがなくては生きていけないとさえ言われます。「一寸の虫にも五分の魂」などと言われる通りです。しかし、そのわずかに残る誇りも「取り除かれました」と言われています。生きられないではないか。死ねと言うのか。そうです。古い自分に死んで、新しい生命に生きるためです。
◇古い自分というのはどのようなものでしょう。自分を巡るわずかな誇りにしがみつき、生きてきた姿です。
しかし、今や、信仰の法則によってそれは不必要になりました。私たちは誇りを自分にではなく、主イエス・キリストに見いだしたからです。主が私の誇りとなりました。パウロは「誇る者は主を誇れ」(Uコリ10:17)と言っていますが、どのような場合でもその通りです。先に、誇りがなければ人は生きられないと申し上げました。私たちの誇りは主イエス・キリストです。
◇このように誇りについて申し上げると気になさる方があるかもしれませんが、これはキリスト教信仰の一つの大切な要です。この世の試みは誇りを残しつつ何とか人を生かそうとします。しかし教会は違います。教会が真実にキリスト教の教会であることの印は、全員が「ただ、赦された罪人であること」を自覚していることです。
神様の私たちへの大きな恵み、赦しをないがしろにしないために、もう一度、信仰の再点検を迫られる思いです。私たちは神様のご恩を忘れやすいのです。ご一緒にローマ書を読みながら、そこに盛られた絶大な恵みと、主の下さっている喜びを共にいたしましょう。 主の御栄光を仰ぎ見ましょう。