「神の相続人」

ローマ8:12−17

2001.1/28 礼拝説教要約

勝田教会牧師  二宮幸雄

 

 ◇信仰生活をしながら、自分の姿にがっかりすることがあります。主イエス・キリストを信じて、生きているのにいっこうに神様のお心よりも、自分の考えを大切にしてしまう自分を見るからでしょう。古くからの教会用語で表現すれば「自分に死にきっていない」とか「清められていない」ということなのかもしれません。

 本日の聖句ではかなり明瞭に、私たち一人一人を「あなたは肉に生きるのか、それとも霊の導きに従って生きるのか」と厳しく問いつめています。信仰の完成を目指しての論議も、大きな山場を迎えています。私たちは人ごとでなく、自分のこととして、この問いの前に立たされていると思います。

 自分を中心に、何とか自分が生きられるようにという考えで生きているうちは、それはついには死に至ります。自己主張や自分中心な人たちが集まって、ついには大変な不幸になる例を、私たちは知っています。この人たちは自分を守るために、最後の責任を引き受けようとしないのが特徴のようです。

 ◇実はそのことが、自分を真に「霊の導きに従う人」として生かし切れない原因の一つであると思います。私たちは怖いのです。人はみな、少なからず罪を持ち、その中で生きています。少しずつ相手のせいにして、気持ちを軽くして生きていこうとしやすいのです。私たちは自分の責任をしっかり受け止め、まわりの人たちの罪の責任さえ引き受けようと覚悟するとき、霊の導きを経験することになるのです。それが「キリストと共に苦しむなら」と言われている(17節)内容です。

 勇気を出して、自分の責任と共に隣り人の重荷をも負って歩みだしてみてください。(多くの場合は否応なしに負わされることでしょう)その重さに耐えかねて、つぶされていく自分を発見するかもしれません。

 しかし、安心してください。神様はあなたの側にお立ちくださり、お前は、私の腕に落ちたのだ。お前は私の者だ。お前は、見失われたが、私に見いだされたのだ。たといお前がぼろをまとっていても、お前は、私の子供だ、誰も私の手から引き離すことはできない、とお語りになられると信じます。

 そうして私たちは、真実にキリストと共なる「神の相続人」となって行くのです。たゆまず主と共に前進を!

 

次へ  ここに愛があるトップへ  前のページへ  ホームへ  目次へ