赦されない罪 <マルコ福音書3:20-30>
◇キリスト教は、愛の宗教、赦しの宗教だと思われています。それは当たっています。しかしキリスト教にも「赦されない罪」はあります。このことによって、私たちは、罪とは? 赦しとは? と考えることが出来ます。
聖書で言う罪とは、物を盗むとか人を殺すといった犯罪はもちろんですが、それ以上に、神様と正しい関係にないことを言います。神様との関係がずれていると、物を盗みたくなったり、人が邪魔になったりするのです。ですから、窃盗も殺人も根本にある神様との正しくない関係がもたらす具体的な結果です。
◇「赦し」とは神様との関係が正しくなることです。その赦しをもたらされた方が、主イエス・キリストです。私たちは主イエス・キリストによって、神様との正しい関係を与えられた者です。
主イエスは神様のご愛によって、私たちの所へ遣わされてきました。ですから主イエスのお働きは、神様の尊い愛に裏打ちされています。私たちの罪を赦そうとされる神様のご意志の現れであり、そのお力によるものです。
◇主イエスが「赦されない罪」について話されたのは、人々、特にエルサレムから下ってきた律法学者が「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言っていたからでした。これは、主イエスが神様から来られたことを否定し、その背後にある神様の救いのご意志、その御愛をも拒絶することです。「聖霊を冒涜する」とはそのような内容を持っています。
信仰上の赦し、神様との正しい関係がどのようにして成り立つかが分かってきますと、主イエス・キリストを正しく信じないばかりか拒絶する人は、赦されないということが理解できます。
◇私たちキリスト者は、主イエス・キリストが神の御子であられ、私たちの救いのために十字架におつきになり、完全に罪のあがないをして下さった、とかたく信じています。心に信じているだけでなく口で告白して、キリストの体である教会の一員になっています。私たちは赦されているのです。
私たちは赦されている安らぎを、またその喜びをいっぱいに味わいつつ、信仰生活を歩めばいいのです。私たちの周りには、まだ主イエスを信じないで、不安と悲しみの中にいる人々がいるのではないでしょうか。そのような方々が一日も早く、赦された安らぎと救われた喜びを共に出来るように、祈りつつ誘いましょう。