◇キリスト教は「言葉の宗教」だと言われます。これをさらに正しく言えば「神様の御言葉を信じる宗教」ということです。いくら「言葉の宗教」と言っても、人の言う事を信じる宗教という意味ではありません。ましてや、言葉だけの宗教などという意味でもありません。キリスト教の中でも、私たちプロテスタントは、少し人間の言葉数が多すぎるように感じます。信仰生活を送って行く中で、もっと御言葉が語られ、御言葉に依るということが多いほうが幸せなのではないかと反省させられます。
◇詩編119:41−48の内容は信仰告白と祈りです。この詩人は「御言葉に依り頼み、待ち望み、御言葉を尋ね求め、恥としないで、むしろ御言葉を愛し、楽しみにして歌います」と告白しています。何と御言葉を中心にした信仰でしょう。信仰告白とは、神様の御言葉に対する告白であることを思わされます。
御言葉は神様の御心です。私たちの生活では、いつも忙しく動き回り、騒がしい何かの音を聞いているということがあまりに多すぎるのではないでしょうか。
◇瞑想と祈りの時をもっと大事にしたいと思います。「汝ら静まりて、我の神たるを知れ」と詩編46編にある御言葉を思い起こします。何もしないでボーっとしている時を持ってください。はじめは何かしたくなってたまらないでしょう。「こんな事をして、いったい何になるのだ」と腹立たしくなるかも知れません。そこが我慢のしどころです。
時間に追われることから離れて、時を持つことが大切なのです。瞑想を、何か思いめぐらすことと思う人もありましょうが、思いめぐらすというより、何も考えないでいることという方が近いでしょう。先の詩編46の御言葉は、新共同訳では「力を捨てよ。知れ、わたしは神」となっています。
◇そうして祈りは始まるのです。私たちは「祈り」は神様に何か申し上げることのように考えやすいのですが、祈りは神様から御言葉を頂くことです。ドイツ語で祈りを「ベーテン」(乞う)というのは示唆に富んでいます。またラテン語では「オラチオ」(神が語る)です。
私たちは静まって、自分の力を抜いて、神様がお語りになられるのを聞く事が大切なのです。少年サムエルが「主よ、語りませ」と言って祈る姿は祈りというものの本質をよく示しています。
御言葉に依る生活の確立は、真の祈りから始まると言えましょう。