その人にふさわしく   <マルコ福音書4:26-34>

 ◇主イエス・キリストは「人々の聞く力に応じて、たとえで」御言葉を語られました。(33節)分かり易く言えば、信仰のある人には分かるが、不信仰な人には分からない御言葉であったということです。「種をまく人のたとえ」で四つの土地が出てきますが「あの話を聞いて自分はどの土地に当てはまるのだろう、と考えているうちはあの話は分からない」とある人が言っています。自分のことを考え、自分の生き方を思っている間は、本当の信仰とは言えません。信仰とは、自分を思うことではなく、自分に与えられた神様の恵み(種)を思うことなのです。

 ◇今日の聖句は二つとも「天国のたとえ」と言われるものです。内容は読んで分かるとおり、種の持つ不思議な力、その種をお育てになるのは神様であるということです。あなたに蒔かれた信仰の種を思ってください。また、あなたが愛する隣人に蒔いた信仰の種を考えてください。種自体に力があるのです。それをお育てになり、大きくするのは神様なのです。

 ◇マルコ福音書4章1節から始まった「たとえ集」の締めくくりが「天国のたとえ」です。信仰の真髄にせまる迫力が感じられます。信仰とはその担い手である、この私が問題なのではなく、その信仰をお与えになられた方を仰ぎ見ることであり、与えられた賜物である信仰(神様の恵み)に心を向けていることだからです。そうすれば、神様の蒔かれた種、恵みがいかに成長するかが分かるでしょう、と言われるのです。

 使徒パウロはコリント人への手紙の中で次のように書いています。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えたものです。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

 ◇私たちはあまりにも、自分で何かを為そうとしすぎなのではないでしょうか。神様の御業が、自分のうちに、また愛する隣人のうちに成就していくのを、もっと待つ必要があるのではないでしょうか。信仰生活とはある意味で、御業がこの自分と隣人に成るのを待つことなのです。

 

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