私たちは弱いのです<マルコ福音書14:32−42>

 ◇「ゲッセマネの祈り」の場面です。主イエスが涙ながらに、真剣にお祈りをしているのに、弟子たちは眠ってしまいました。40節に「ひどく眠かったのである」と言い訳のように記されています。本当にどうしようもなく眠かったのでしょう。主イエスはそれをご覧になり「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」とおっしゃり、さらに祈られました。

 「心は燃えても、肉体は弱い」とはどのような意味でしょうか。「精神力はあっても、身体はついていけない」という意味に取られることもありますが、むしろ「あなた方が、心に信じている神様は強いのだけれども、あなた方は弱いのです」と理解した方が自然でしょう。だから、「祈って、その神様のお力に頼りなさい」という意味にとれます。

 私たちは弱いのですが、なかなかそれを認めようとしません。弱いとは不完全であり、何か欠けているという感覚があるのでしょう。それらは補うべきものであると考えてしまいます。

 ◇弱く不完全なものは悪にさえなります。強く完全なものは良きものとさえ、されています。そこで、私たちは懸命になって、さらに強く、さらに良きものになろうと努力を重ねるということになりかねません。そして自分を縛り、周りの人を縛ってしまうことがあるのではないでしょうか。弱さも確かに不自由なものですが、この束縛の方が強いように思われます。

 主イエス・キリストは、祈る傍らで眠りこけてしまう、弟子たちの弱さをも担って、十字架につかれたのです。私たちは自分の弱さを素直に認めて、それで良しとされていることに感謝できたらどんなに幸せでしょう。

 「『いい人』をやめると楽になる」という本があります。読むと随分気持ちが楽になります。その本の帯には、「縛られない、失望しない、傷つかない、重荷にならない、疲れないつきあい方」と書いてあります。

 私たちの弱さは主イエス・キリストが引き受けて下さっています。今さら、強がる必要などはないのです。少なくとも、私たち教会員の間では、主が、私たち一人一人の弱さを担って下さったことを互いに喜び、感謝し、主をほめたたえつつ、十字架を見上げて、今週も生きていきましょう。

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