主に遣わされて<マルコ福音書6:6b−13>

 ◇「キリスト者の生涯は、派遣された者として生きることである」と、ある人が言っています。考えてみれば確かに、私たちの国籍(本国)は天にあります。そして、私たちはそこに帰って行くものです。そうであるなら、この世の生活は、そこから遣わされて、ここに生きているというのは正しいでしょう。

 主イエスは、弟子たちをお遣わしになられるとき、二人一組で行くようにされました。二人というのは、困難に出会ったときには、互いに助け合いつつ、切り抜けることが出来るという、すばらしい点がありましょう。しかし二人というのは互いに譲り合って生きて行くということでもあります。このようにして、この世にあっては協力と謙遜を持って生きて行くようにと、主イエスは導いておられるのではないでしょうか。

 私たちは単独者として遣わされているわけではありません。互いに惜しまず力を出し合い、互いに相手を尊敬する謙遜さを持ちましょう。

 ◇さらに、主イエスは弟子をお遣わしになられるとき、お言葉はお与えにならず、生活態度について、いろいろ注意をされました。必ず持っているべきは「汚れた霊に対する権能」です。その他は出来るだけシンプルに、予備や蓄えを持たず生活しなさいと言われました。マタイ福音書の6章で、主ご自身がお教えになられたように、「明日のことは思い煩わず、今日、一日を精一杯に生きるように」というのです。

 そのとき、何を語ろうか、何を宣べ伝えようかと心配する必要はありません。遣わされた者としての生活そのものが、神の国のメッセージなのです。

 マタイ福音書とルカ福音書は「神の国(天国)は近づいた」と宣べ伝える言葉が与えられていますが、マルコ福音書では生活態度です。主イエス・キリストと共に生活した弟子たちは、生活に福音があることを悟りました。

 言葉よりも行為を大切にしようとするマルコ福音書のメッセージを大事にして、自分の生活態度を点検してみましょう。真に、福音的な生き方をしているでしょうか。主の赦しはあなたの生活に、溢れ出ていますか。

 言わず語らずとも、遣わされた者として、今日を生きることが、福音を伝えることになるのです。

                                         (勝田教会牧師  二宮幸雄)

 

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