九霞園(きゅうかえん)は埼玉県さいたま市北区盆栽町(旧:大宮市盆栽町)にある盆栽園です。
ここでは九霞園の歴史や初代園主・村田久造(1902-1991)の業績を紹介します。(最終更新日:2010.11.9)
(参考:ロバート・バラン氏による,村田久造の英文伝記→http://www.phoenixbonsai.com/KMurata.html)
- 慶應義塾大学経済学部を病気のため2年で中退した村田久造(むらたきゅうぞう)が,1929(昭和4年)に開設。「九霞」は江戸中期の南画家,池大雅の号から取ったもので,池大雅が村田久造の生家に立ち寄ったことがあるのにちなむ。
- 1931(昭和6)年から,宮内庁大道(おおみち)庭園盆栽仕立場の手伝いにあたる。
- 1933(昭和8)年から1937(昭和12)年にかけて,国後島において蝦夷松の採取を行う。
- 1934(昭和9)年2月23日,昭和天皇第1皇男子・継宮親王殿下(今上陛下)ご誕生を祝して,笹野長拮の五葉松を皇居に献上。
これが世に言う「君が代松(初代)」である(記録上は早川三郎三重県知事からの献上)。(初代「君が代松」は昭和31年に枯死。)
- 蝦夷松の取り木を世界で初めて成功させる。
- 川澄昌国との共同開発により,世界初となる盆栽専用手入れ道具を多数考案。
- 昭和10年代初頭,キンバイザサ科ロードヒポキシスを,「花弁の厚い桜」の意で「厚桜(アツザクラ)」と命名する。
(一般には「アッツ桜,アッツザクラ」のように誤って定着するが,ロードヒポキシスは南アフリカ原産でアリューシャン列島アッツ島とは無関係)。
- 1937(昭和12)年のパリ万国博覧会に盆栽を出品する。
- 1938(昭和13)年,盆栽園として始めて定休日を設定する(当初は毎月9日)。
- 1940(昭和15)年,埼玉県下中等学校ならびに青年学校連合特別野外大演習に際し,台臨の朝香宮殿下に蝦夷松の盆栽献上。
-
太平洋戦争中は,蔓青園二代目加藤留吉と清大園二代目清水瀞庵の「盆栽の灯を消さぬように」との計らいで,村田久造が町内会長に推され,盆栽園として営業
を続ける。(当時,町内会長は徴用されない決まりがあった。太平洋戦争中も盆栽園の看板を掲げて営業を続けたのは九霞園だけと言われる。)
- 終戦直後,宮内省(宮内庁)管理部長三井安弥の要請で,枯死寸前だった皇居内の盆栽の救済にあたる。
- 「小糸焼」の復興を目指す長倉三郎(小糸泰山)に,生活の助とするため盆栽鉢を焼くことを薦め,指導を行う。なお,村田久造と長倉三郎は従兄弟である。
- 1950(昭和25)年1月,日本盆栽組合(日本盆栽協同組合の前身)組合長に就任(〜1956年1月)。
- 1965(昭和40)年2月,日本盆栽協会設立とともに理事に就任,以来13年間理事を務め,のち同協会顧問。
- 「幻の陶工」呑平の復刻版ともいうべき「信楽呑平」の作成を監修する。
- 吉田茂元首相を始めとする政界の要人や,皇族・秩父宮家などの盆栽の管理・育成にあたる。
- 1987(昭和62)年,長年にわたる日本文化への貢献により村田久造,勲五等雙光旭日章受章。これは盆栽業者初の叙勲である。
- 有機固形肥料「バイオゴールド」(タクト)の開発に協力。
文章および画像の無断転載を禁じます。