盆栽哲学2

九霞園の盆栽と,そこに込められた思想を紹介するコーナーです。
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大きな木を小さく作ることが盆栽の面白みというのが世間の認識だとしても,
型に押し込んで意のままにしようとした結果は,纏足と同様の奇形に近い。
盆栽の理想は,小さな木が大きな景色に見えることではないだろうか。
(05/03/07追加)

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立ったまま上から見下ろす人,腰を落として見つめる人。
棚を低くしたら,その人の植物に向き合う姿勢が見えるようになった。
(03/06/16追加)

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「人工美」に対する「自然美」とは枝の形や根ばりといった細部の形体を忘れることで
初めて体験できるものだが,盆栽界は意味を知らずにこの言葉を安易に使い過ぎる。
青空の美しさ,海原の雄大さをいうとき,人はそこに何らかの形体や意味を見出したり,
まして算盤をはじいたりするだろうか。
(02/11/15追加)

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植物のペースと共に歩めば年単位の日数と手数がかかる。
質にこだわればこだわるほど採算ベースから外れてゆく。
工芸におけるかつての手わざの多くが失われたのと同様に,
市場原理の洗礼を受けない文化としての盆栽が残るのは皇居の中だけかもしれない。
(02/10/26追加)

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盆栽は自然の縮図ではあり得ないから, 作為と誇張を排するという
人工的な手段によって植物の普遍的な形態を目指し,
自然よりも自然らしい樹形を理想としたい。

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自然はいつも人間の想像を超えてゆくから, 人工の枠をはめようとすると,
木を愛で慈しむはずの盆栽が,超えようとするものと抑えようとするものの,
単なるせめぎ合いへ堕落する。

写真1
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Photo by SAKAKIBARA & WAKABAYASHI