
1999年11月の「戦国談義」は、当「歴史ネットワ−ク」が11月末でちょうど6ヶ月になるのを記念して自主開催と致しました。1ヶ月もの長い間、歴史ファンの皆様の多数のご参加を戴き誠にありがとうございました。文頭にて厚くお礼申し上げます。
「戦国時代における自由都市堺の盛衰」

上記の図を簡単に説明しょう。中央の赤いピンが「堺」。その上のピンが豊臣秀吉が築いた大坂城のある「大阪」、築城以前は石山本願寺があった。下の薄緑のピンが「和歌山」で当時は紀州雑賀といった。
堺は、摂津国と和泉国の境界にあることから「堺」と呼ばれ、平安中期には、熊野詣での宿場であった。鎌倉時代の中ごろから、南北に分かれて南荘、北荘となり、室町時代に至って南北連合組織が形成されてやがて「会合衆」( 戦国時代の自治都市の合議機関の呼称、はじめは10人であったが、後に36人になる。 )が自治的都市運営をおこなうようになる。
堺は「戦国時代」にはこの町を訪れたイエスズ会の伝道師達に「堺の町は、はなはだ広大にして富豪な商人が多数おり、ベニスの如く執政官により治められている。」といわしめ、さらに、「日本全国当地堺より安全な所なく、他の諸国において動乱あるも、この堺には勝者、敗者もなくこの堺に至れば、皆平和である」といっている。
このように伝道師達にいわれた堺も「織田信長」という一人の戦国武将の登場により、やがて戦乱の渦に巻き込まれていく。もちろん、信長の登場以前にも三好三人衆 ( 三好長逸、三好政康、岩成友通 ) や松永久秀らによる抗争の渦中に引き込まれたことも度々ある。しかし、信長が堺に関与する以前は、戦乱のなかにあっても一貫して「会合衆」の指導のもとに自治的都市運営がされていた。
では、堺の町がこのように「会合衆」による自治的都市運営ができた理由、背景等は一体何か。その理由、背景等として、作者は主として次のものが考えられると思っています。
この「堺の町」について、皆さんのご意見をお聞かせ戴きました。
なぜ堺の町は繁栄し、そして豊臣秀吉の時代から徳川家康の時代にかけて衰退していったのか。 また、堺の町と織田信長との係り、堺の町の独自の文化、そしてその文化を生み出した堺の町の人々などについて、語り合いました。下記に編集してございますので、ご参照下さいませ。
1999年11月30日 管理人
「戦国談義第一巻」 堺の町の概観
「戦国談義第二卷」 堺の文化と人々
「戦国談義第三巻」 堺と織田信長
「戦国談義−別卷」 ご質問その他
![]()