武田勝頼記


「貴方は、武田勝頼についてどんな武将であったと思われますか。」

 この掲載文は、1999年9月に「孫市の館」の孫市BBSにて歴史通の皆さんが行った談義です。大変有意義な内容ですので、ここに過去ログを掲載致します。過去ログを保存しておいて良かった !。
 9月のことでもあり、記事の掲載編集が前後( 一応古い順に掲載 )しているかもしれませんが、ご容赦のほど宜しくお願い致します。
 また、発言者が分からないと思われる部分は、管理人において編集致しました。  

孫子曰く  投稿者:諾斎  

 孫子曰く・兵(戦争)とは国の大事なり、死生の地、存亡の道察せざるべからざるなり。 ・彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。 彼れをしらず己れを知らざれば、戦う毎に必らず殆うし。
 
 長篠での勝頼は、戦をする上においての基本自体が全然なっていない。 長篠での敗戦は、将たる勝頼の責任であり、あの時点での、 信長・家康連合軍と自分たちの力関係を考えれば、 あり得ない戦法であり、戦術・戦略・情報はどうなって いたのか疑問でなりません。
 
 信玄が勝頼の側に、文官系の人間を置き、武官系の武将を 置かなかったのが、敗戦の一つとも言われていますが、 自分の父親が残してくれた財産よりも、 勝頼は自分の才能を過剰評価し過ぎていたのではないのでしょうか。 偉大な父親の後を継いで良く頑張ったとは思います。 父親を越えようと意識し過ぎたのがいけなかったのでしょうかね。


武田勝頼
 投稿者:森田丹波守  

 確かに勝頼の評価はもう少し見直されてもいいとはおもいます。 偉大なる父を持ったゆえの悲劇でしょうね。 しかし長篠の戦いでの采配は明らかに失敗だとおもいます。 まず兵力が敵の半数以下なのに正面攻撃を行った事。 しかも馬防柵があるのが分かっているのにもかかわらず。 これは自軍の過信、敵軍の過小評価、彼我の戦力分析の失敗ですね。

 また織田・徳川軍が柵の手前100Mほどのところに連吾川があり 川を渡り柵までは登り勾配になっています。 これではいくら信玄台地から速度をあげてきても川を渡りその後 登りとすればその威力が充分に発揮できないことは事前に偵察すれば 分かるはずです。戦場が自軍に有利か不利かを判断できていないのも 大将として問題だとおもいます。

  それ以上に問題なのは歴戦の諸将の助言を退け長坂長閑や跡部勝資らの なにかといえば「新羅三郎公より〜」と現実より家門の名誉や机上の空論を ひけらかす奴ばらの意見を採用しているのが問題です。 戦国武将は日々生きるか死ぬかの生活を送っており、歴戦の武将ともなれば 負けると分かっている戦はせず勝てずとも負けない戦をしたものです。

  しかし自分達の意見を採用せず戦の何たるかを理解し得ない小人物の意見を採用するような大将のもとでは遅かれ早かれ滅亡は免れないとおもい、それならば武田騎馬隊の最後を華々しく飾って名誉の死を諸将が望んだとしても不思議ではありません。 これは明らかに勝頼の責任です。 死を覚悟した武田騎馬隊の威力はすさまじかった。三倍近い敵兵を相手に 戦死者武田方七千、織田・徳川方六千『長篠日記』 武田方諸将の望みどうり強烈な印象を残し、騎馬隊は壊滅した。


武田勝頼
 投稿者:不識院 

 長篠に於いて、馬防御柵が築かれたいわば織田・徳川連合軍の土俵に なぜ武田軍は挑んだのでしょうか? これはひとえに、勝頼殿の若さと驕りなのではないでしょうか? 信玄公もかつて上田原で黒星を喫してますよね。 勝頼殿も今少し臆病なら、目の前の柵に対して考えたことでしょう。 彼はあまりにも勇猛過ぎた。

 学研の歴史群像シリーズ50『戦国合戦大全』に 騎馬軍団”最強”伝説の真相を追うという興味深い記事が載っていました。 イメージとは異なる戦国騎馬・・・ 近代軍隊のように、歩兵隊や騎兵隊といった明確な種類はされていなかったとか、躑躅ヶ崎館から戦国期の馬の骨が出土され、体高は 120cm、体重も250kg前後と推定され、敵陣に突入した際の衝撃力 も少ないなど。etc、etc(割愛) 走る速度も甲冑を着けた騎馬武者を乗せて走ると、人間が走る速度 とさほど変わらなかったと考えられている等、ドラマとかでの イメージが崩されました。 『信長』のような騎馬部隊のみの突撃はなかったようです。 騎馬武者・徒立の兵・従者が一体となって突撃してきたのでしょう。 長篠合戦の屏風を観ると、なるほどそんな感じなんですよね。

  そして、こんなことも載ってました。 一般に長篠合戦は、新兵器の鉄砲を軽視し、伝統的な騎馬突撃に 固執した勝頼と、鉄砲を重視した信長の戦いと言われているが、 実際には、双方とも鉄砲を重視していた。ただ、主として火薬確保 の問題から、織田軍の銃隊が武田軍の銃隊を、質量ともに圧倒して いたのである。 長篠合戦を、名もない鉄砲足軽と高名な騎馬武者、新兵器鉄砲と 旧式な騎馬突撃、進歩的な信長と頑迷な勝頼といった幼稚な図式で語ることは、そろそろ止めにすべきではなかろうか・・・

 蛇足ですが、『信長』の羽柴秀吉役は仲村トオルさんだったと思います。 お市役が鷲尾いさ子さんでしたね。役どころでは結ばれない二人は、 現実社会ではご結婚しているのがまた面白いところです。 果たして、週末婚なのだろうか? とにかくお幸せにです。


武田勝頼
 投稿者:天陽  
 WAGさん、私も勝頼の評価には同感です。 戦国で、信玄と謙信は別格だったと思っています。 その信玄の子ですから、勝頼は劣っていても何ら悲しむことではない。 当時で言えば、私の評価は家康よりも勝頼の方が総合的に勝っていたと思います。 若い勝頼は、独眼竜と同じように、遅れすぎた生まれだったのではないでしょうか?

勝頼は無能? NonNon!!  投稿者:WAG  

 皆様おひさしゅう、WAGです。 「信長 KING OF ZIPANG」 ビデオで総集編を全三巻まとめて見ました。 改めて見るといいですね〜〜!! 宣教師の目から見た「信長」という斬新なテーマも面白い。 OPテーマのバリトンにも驚いたが、初っ端の法皇の登場にも驚いた。 さすがバブリーだったころの大河ドラマだ。 戦闘シーンがリアルで迫力がある。桶狭間の戦いはちょっとナンセンスだけど・・・。 姉川の決戦や長篠合戦は緊迫していて良かったです。 でも徳川家康(郷ひろみ)と羽柴秀吉(風間トオル)は違和感アリアリです。 明智光秀(マイケル富岡)は意外とグー。演技も上々。誰だ配役決めた奴? 特に印象に残ったのは長篠合戦です。

 そう、鉄砲が初めて大規模に運用された戦い。 ........................霧の中から諏訪太鼓が響いてくる。緊張が高まる織田方の鉄砲隊。 当然だ。あの信玄公の最強の騎馬軍団の突撃が今始まるのだから。 配下の動揺を押さえる織田方の諸将。 霧を切り裂いて疾風の如く突撃してくる武田の騎馬隊。 怒涛の如く眼前に迫り来る。 鉄砲隊の緊張は最高に達した。
 
「放てッーーー!!」 合図と供に、轟音が長篠平に響き渡る。 そのとき、霧に包まれた武田本陣では、勝頼は勝利を確信していた。 兵力差は多少ある。しかし相手は尾張の弱兵、こちらは甲斐の強兵。 そしてなにより、その差を埋めて余りある強大な騎馬軍団を勝頼は擁しているのである。 たとえ鉄砲の一斉射撃を受けても、生き残った騎馬武者が鉄砲隊に飛び込み、斬りたて混乱を誘う。 その間に第二第三の騎馬隊が次々突撃し、混乱している鉄砲隊に襲いかかる。 雪崩れの如き騎馬軍団の突撃は、容易に敵の陣形を切り裂き、突き崩すことができるだろう。 今までの戦いであれば……。
 
  しかしこの合戦では轟音は一度では止まらなかった。 連続して巻き起こる轟音。 騎馬隊の突撃が疾風に如きならば、このときの鉄砲隊の銃撃はまさに暴風。 怒涛の如く突撃し、ぶち当たり、蹂躙するのが騎馬軍団の本領である。 衝突力を失った騎馬武者はその本来の力の大部分を失う。 一度動き出したら止まる事は許されない。 すなわち、一度動き出したら止まることはできない。 次々と銃火に倒れていく武田騎馬武者。 それでも武田騎馬軍団の突撃は止まることはない。突撃することが勝利への道と信じて。 そして突撃を繰り返すたびに、無敗を誇った騎馬軍団が消えていく。
 
 すべてが終わったころ、馬防柵の前には信玄の天下への夢の跡が累々と横たわっていた。 霧の中の本陣で呆然とする武田勝頼。 武田本陣には、名の有る武将達の討ち死にを告げる声が、いつまでも止むことはなかった。 ・ ・ ・ 亡き武田信玄が築きげた有能な家臣団と、無敵武田騎馬軍団の名声を 勝頼は長篠合戦のわずか一瞬で失った。

 長篠の一戦で人物としての評価をガクッと下げた武田勝頼。 はっきりいってこの評価は酷いと思う。 長篠合戦以後の施政を見るとまあ酷いもので、しょうがないことはしょうがない。 でも長篠合戦を武田勝頼という人物を評価するのに使うのは納得できないのである。 無敵を誇った騎馬軍団を偉大な父から引継ぎ、勝頼自身も決して無能な武将ではない。 むしろ有能であったとも言える。信玄が長年落とせなかった、高天神城をあっという間に落としているし。

 勝頼にしてみれば、何が何だか判らない状況だったと思う。 狐に摘まれたような感じだろう。 勝頼にしてみれば、勝てる戦であった。 ところが、全軍に突撃の下知を出してみれば、出撃した騎馬軍団がすべて消えてしまったのである。 武田方としてみれば、織田方が騎馬軍団に対してある程度の対応策を用意してくることは予想できたと思う。 また事前の諜報活動で、織田軍が馬防柵を用意していることを知っていたと言える。 そうすると織田方が奇策を取らず、常識的な騎馬兵への対応策を取ってくると判断するのも無理はない。

 すなわち馬防柵を用意し、騎馬の足を止め弓矢や鉄砲で出血を強いるというものである。 その程度の対応策では武田の騎馬軍団を止めることができない。 急作りの馬防柵など、騎馬武者のスピードに乗った体当たりで容易に破壊できる。 織田軍は鉄砲を数多く持っているようだが、玉込めの時間が長く、 装填する前に騎馬武者の突撃で用意に蹴散らせる。だいいち鉄砲なんてものは当たらない。 すなわち、織田軍を破るには、騎馬軍団による連続した途切れの無い突撃が有効である。 ……… このような結論に達してもしょうがないんじゃない?

 鉄砲を合戦で有効に使うには「精度」と「連射速度」を上げる必要がある。 信長はこの二点を、「近距離射撃+三段構え」という当時にすれば驚天動地の鉄砲運用術で解決してしまった。 また信じられないほどの大量の鉄砲(3000挺)を投入してきた。

  前方で鉄砲の猛射が始まり、先発した部隊が馬防柵の手前でバタバタ倒れていく。 後続の騎馬武者達は信じられない事態に混乱し、判断力を失うだろう。すでに作戦は始まり、全軍突撃に入っている。 騎馬武者にしてみれば、突撃して敵陣を突破することが、勝利に直結しているんだから止まれるわけがない。 動き出した騎馬軍団を止めることは容易ではない。そして鳴り止まない轟音に馬も驚き、狂ったように走ってしまうだろう。 無敵を誇った騎馬軍団の突撃が、戦果ゼロ被害甚大なんて想像を超えた事態だろう。 司令部が判断力を失うのも良くわかる。ペテンに掛けられた気分であったに違いない。 撤退の合図を出すとしても、使い番が到着するまでにすべては終わっていたのが実情ではないか。 つまり全軍突撃の下知を出した時点で、この事態は決していたんだと思う。途中で撤退すれば、これほどまで被害が大きくならなかったのに…、なんて考えはおかしい。 走り出したら急には止まれない。

 長篠合戦は、純然たる戦いではないと思う。当時の誰もが勝頼の立場に立ったならば、 同じ結果に陥ったと思う。もしかしたら、武田信玄でさえも。 それだけ織田軍の戦術は、画期的であった。戦国の世で、いきなし現代戦をしたら、そりゃねぇ。 つまり「コロンブスの卵」だったんだと思う。こんな戦で勝頼の技量を問うのは酷いよ。 長々と書いてしまいました。すごい長さだ。すまんこってす。「信長」はいいよ。 特に加納随天と黒人のソテロ。化物だよ随天。弁慶以上だ。立ち往生どころの騒ぎじゃない。 歩き回ってるんだから。それからソテロ。本能寺から妙覚寺までの使いを頼まれ、 明智兵10人を拳一つでなぎ倒す。いくらタイソンブームだからって酷すぎる。 皆様是非見るべし。
ではアテブレーデ、オブリガード。

武田勝頼 投稿者:織田有楽斎  

 某の武田勝頼像は、猛将でござりまする。(^^; しかし、一国の指導者という観点から見た時は、評価が低くなるように思いまする。これは、勝頼本人の責任というよりは、信玄の後継者体制作りの失敗に責任があるように思いまする。 勝頼も、戦場の指揮官だけで許される立場なら、後世の評価は、ず っと良くなっていたような気がしまする。 その意味で、長篠の戦いは、猛将らしい戦い方だったのかもしれませぬ。


なんかすごいことになってる・・・(笑)  投稿者:WAG  

  研究室の合宿で、席を外していたら、すごいことになってますね(笑)。 なんか活発でいいなぁ。でもネットでの議論は結構キワドイですからね。 皆様ほどほどに・・・。とかく掲示板やMLは熱くなりやすい。 一般論ですが、言葉尻を捕らえるようなことはやめましょう。

 三方ヶ原の戦いにおける家康の考え方は、 一戦して勝ちさっと引き上げる、というものだったと理解しています。 後ろから追撃して、敵の裏から崩す。(裏崩れと呼ばれますが) この考え方は正しいでしょうし、成功の確率も高いでしょう。 気付かれなければの話しですが・・・。 三方ヶ原では信玄の方が上手で、それを十分に予測し正面決戦にもっていったのでしょう。

  家康は後年、小牧・長久手で追撃戦を成功させてますし。 まぁ相手が三好秀次だったからでしょうが・・・。 三方ヶ原の経験があったからかもしれません。 家康には経験を生かす機会があり、 勝頼にはそれがなかったということでしょう。 ところで信勝は家督を継いでいたのでしょうか? 確か信玄の遺言では、16歳になったら武田家の家督を継ぐんじゃなかったっけ?


 勝機?  投稿者:にんじゃ  
 
  この掲示板では長篠と三方ヶ原で、あたかも三方ヶ原のほうが勝機があったような記述が見られますが、逆でしょう? 三方ヶ原は兵力、士気、実績、どれを取っても徳川に利はありませんが長篠では士気と、実績は武田が上回っていたと思います。 倍以上の織田方にたいし死傷者は互角だった事実からもうかがえるのではないでしょうか。鉄砲の数がもっと少なかったり、大雨が降ったりしてたら、勝っててもおかしくない戦いだと思います。 三方ヶ原には「たら、れば」を使っても勝つ要素はないような気がしますが。皆さんいかがでしょうか?


  お後がよろしいようで・・・  投稿者:不識院  

 まず有楽さんと私の「三方ヶ原合戦」の認識が違うようなので・・・ 私の知ってる?同合戦は、家康軍の尾行を十二分意識したうえで、 三方ヶ原大地が切れる祝田の坂の手前、1キロほどのところで 全軍を止め、魚鱗の戦闘隊形へと陣形が組まれ、敵情偵察、そして開戦。という一連の流れで武田軍の勝利。それは信玄の独壇場だった。 行軍中に徳川軍と小競り合いがあったなど微塵もないと思っています。 仮にそのようなことがあったら、そこで即開戦だと思うのですよ。 それに、正面決戦をしない理由が、鶴翼にあるというのも解せない。 武田軍は敗走しているわけではなく、西上行軍をしてその後の動きは未知数ですよね。 その軍に向かって、追撃戦(避正面決戦)という言葉が不適切に私の中で響きました。 ゆえに、

> この出陣は、武門の名誉のためでもあり、徳川軍の今後の士気のため、そして、信長に対する発言力の低下を恐れたためのものであったようでござりまする。 この感情の高まりが、重臣の諫言を除けてまで出撃した理由 だと思っています。
 
 結論として、長篠・勝頼に当てはまるなと思った次第です。 それに対して、どうとるかは仰る通り、個人々々の解釈ですね。


 家康と勝頼  投稿者:織田有楽斎  

  こんばんは。(^^;
 
 不識院さん発言>実際誘き出された場所は、武田騎馬軍団が最も得意とする広大な原野です。狭い谷地での必勝をと思った徳川軍はなぜついていったのですか? これは明らかに当初の追撃作戦と違いますよね。

> 血気にはやる旗本の一部が、制止命令をもきかずに武田軍に攻撃をしかけてしまったためのようでござりまする。

 不識院さん発言>開戦の発端は、小山田隊の飛礫隊の投石挑発に乗った、石川数正隊 から始まったみたいですが・・・血気にはやる旗本の一部が、攻撃を仕掛けるのと、決戦の場所に誘き出されたのは別問題ですよね。 ちなみに、血気にはやる旗本・・・はいつ攻撃したのですか?
 
 武田軍が祝田方向へ進み始めた頃、徳川軍は、つかず離れず、武田軍を監視しながら、ついていったようでござりまする。 同時に、全軍を、鶴翼の陣に展開しました。 しかし、この追尾行動中に、血気にはやる旗本の一部が武田軍に攻 撃をしかけました。 それを受けて、武田軍は、急遽反転し、魚鱗の陣に、軍団を展開し、 迎撃体制に移りました。 両軍が布陣を終えたのが、午後1時頃であったという事なので、旗本 の攻撃は、午後1時以前になりまする。 (厳密な時間は、分かりませぬ。) その後、午後4時か5時までは、両軍の間に本格的な戦闘は、なく、 小山田隊が石川隊に、つぶてを投げた事により、開始されそうでご ざりまする。 従って、家康としては、谷間まで、ついて行くつもりが、決戦の場所付近で、血気にはやった旗本の攻撃のために、信玄に反転されてしまったという事でござりまする。

>> 本気で戦う気がないというのは、某の読んだ本の作者の推察であるという事をまず申し上げまする。 そしてその推察の根拠は、家康の敷いた陣形が、鶴翼の陣だったためでござりまする。

 不識院さん発言>陣形うんぬんは別として、総大将が本気で戦う気がないのに出撃するという行為自体に疑問は感じないのですか?本気で戦う気がないのに、勝算があるというのは、どこかおかしくはありませんか。
 
  「本気で戦う気がない」というこの言葉を、気にされているようでござりまするので、誤解を解きたいと思いまする。 これは、本の作者の言葉をそのまま引用したものであり、その根拠も御伝え致しました。 この場合、作者は、「正面決戦をする気がない」という意味で、 この言葉を使っていたと、某は、解釈しておりまする。 確かに、これは、誤解をまねく表現だと思うので、この作者の言 葉をそのまま引用した某の手落ちでござりました。 申し訳ござりませぬ。

>> 家康がこの陣を敷いたのは、小兵力を大きくみせるためであり、場合によっては、退いても良いと考えていたと推察出るためという事でござりました。

 不識院さん発言>陣構え後に退くわけですね。結果、武田軍怒濤の追撃戦を受けるだけでわないのですか。ことここに及んで、退く意味ってあるんですか?偽りの負けを演じ、策があるというなら別ですが。 でも一当てしてからですよね。

  追尾中の話だと思いまする。 信玄に、迎撃体制をとられてしまった後では、退却は、至難の技だと思いまする。 この退却の意味は、本来の篭城策に立ち返るという事だと、某 は、解釈しておりまする。 又、某が見たテレビでは、たしか、この陣形は、追撃戦をするために敷いたと放送していたように記憶しておりまする。たしか、「堂々日本史」だったような気がしまする。


 不識院さん発言>この放映を観ていないのでなんとも言えませんが、追撃戦ということは、武田軍の後を追っていた時には既に鶴翼の陣だったのでしょうかね。街道を進軍中に、そんなに軍を展開できるとは思えません。 三方ヶ原入ってからなら判りますが、それはすでに信玄の術中ですよね。まあ〜この件を有楽さんに言っても困りますよね。

 放送を録画しておくべきでござりました。(^^; >> 従って、追撃戦が成功しそうな場合は、この陣形を使って 、戦いをしかけるが、成功しそうにない時は、退却するつもりでは、なかったかと、某は、思いまする。


 不識院さん発言>武田軍が反転し、魚鱗の陣をなした時点で追尾戦ではないですよね。 成功しそうだったら戦を仕掛ける、異なったら退却する。のどこに策が存在するのか判りません。こういうことを無謀とは言いませんか?

 追撃と篭城の2つの策を考えた上で、状況に応じて、このどち らかに、しようという事では、ないかと思いまする。 この追撃戦の成功率がどの程度あったかは、某には、分かりませぬが、相手が信玄である事を考えると、低かったように思い まする。その意味で、確かに、無謀といえるかもしれませぬ。


>> この出陣は、武門の名誉のためでもあり、徳川軍の今後の士気のため、そして、信長に対する発言力の低下を恐れたためのものであったようでござりまする。

 不識院さん発言>なるほど。これこれ!策なんかはなく、上記の理由のために出撃した。 それ以上それ以下の理由はないんでは?

 出撃理由には、このままだと思いまする。 しかし、実行段階において、無理そうなら、実行を中止すると いう気持ちがあったように思いまする。


>> それより、勝機があってもなくても、必ず、戦をしかけるとい行為の方が危険な様な気がしまする。

 不識院さん発言>そういう行為を一般的に無謀と呼ぶのでは。そして『長篠・勝頼』『三方ヶ原・家康』はこの例に漏れないのでは・・・

 ただ、家康と勝頼の違いは、勝頼は、正面決戦を望み、家康は、 正面決戦を望まなかった。 この姿勢に、両者の差があるように思いまする。


>> ただ、家康は、勝機がなかったら、退く事も考えていたようなので、 ここが、勝頼の行動に比べると、慎重の様に思いまする。

 不識院さん発言>極端な話、勝機がなかったら出撃しないですよね。 敵軍を前にしての退却が当時どれだけ大変だったかはご存知でしょう。そんなことも判らず出撃したのであれば、慎重はおろか、無謀を通り越して、阿呆ですよね。 または、殿は忠勝くんに任せればという気でもあったのでしょうかね。

  勝機は、武田軍が谷間に入った時であり、その瞬間に至った時に、出撃 していたのでは、手遅れになったのだと思いまする。 その意味で、勝機が確定しない段階から、出撃したと思われまする。


>> 総大将が勝利を信じるのは、必要な事だと思いまする。 しかし、戦場での状況に応じて、時には、兵を退くくらいの柔軟な気持ちもないと、猪武者になってしまうと思いまする。もちろん、いったん、戦が開始されたら、退却するのは、難しい場合 が多いと思いまするので、戦の開始する前に、退く事が必要だと思いまする。

 不識院さん発言>ここに出てくる家康さんは、開戦前に退いていますか?「これは誘い込まれている」と気づき、行動してますか?

  「誘い込まれている」とは、思わなかったのだと思いまする。 結果的に、「三方ケ原の戦い」は、家康の負け戦に終わったわけであり、 それも自軍より多数の兵で、しかも戦巧者の信玄率いる兵に攻撃をしかけ て負けたとなれば、無謀な行動だったという事になるとは、思いまする。 しかし、最終的に惨敗する事になる正面決戦に至る過程に、家康は、勝頼 と違って、唯一の勝機を探しだし、そこに向かって、行動していたという点が、評価できるという事でござりまする。

 
  それに対して、勝頼は、勝ち負けは、別として、勝機を探しだす行動が表面に見えてこないため、家康の負け戦と勝頼の負け戦に、差があると思い ました。 強いていうなら、勝頼は、自らの騎馬軍団の強さの中に、勝機を見出して いたという事になるのだと思いまする。 この「戦力分析の見誤り」と、家康の「追撃策の成功率の見誤り」に果た してどちらの誤りが大きいのかというのが、この論争の核心の様な気がし まする。

  この判断は、人によって、差があると思うので、各人に御任せしたいと思 いまする。人によっては、誤りは、誤りとして、同じだと言う方もおられるかもしれませぬ。

  某としては、追撃戦の成功率が、資料不足のため、分からない事もあり、 はっきりしている戦力分析の見誤りの誤りの方が大きく見えまする。 この優劣には、おそらく答えは、簡単には、出ないと思いまする。 従って、上記の判断は、某の個人的な私見として受け取って頂ければと思う所存でござりまする。


Re:お手柔らかに御願い致しまする。(^^  投稿者:不識院

> >実際誘き出された場所は、武田騎馬軍団が最も得意とする広大な原野です。狭い谷地での必勝をと思った徳川軍はなぜついていったのですか?これは明らかに当初の追撃作戦と違いますよね。

 有楽斎さん発言>血気にはやる旗本の一部が、制止命令をもきかずに武田軍に攻撃をしかけてしまったためのようでござりまする。

  旗本? 12:00頃に移動、14:00頃に武田軍反転、それより両軍陣構え。 戦闘開始は16:00頃と伝わってます。 開戦の発端は、小山田隊の飛礫隊の投石挑発に乗った、石川数正隊 から始まったみたいですが・・・ 血気にはやる旗本の一部が、攻撃を仕掛けるのと、決戦の場所に 誘き出されたのは別問題ですよね。 ちなみに、血気にはやる旗本・・・はいつ攻撃したのですか?


 有楽斎さん発言>本気で戦う気がないというのは、某の読んだ本の作者の推察であるという事をまず申し上げまする。 そしてその推察の根拠は、家康の敷いた陣形が、鶴翼の陣 だったためでござりまする。

  陣形うんぬんは別として、総大将が本気で戦う気がないのに 出撃するという行為自体に疑問は感じないのですか? 本気で戦う気がないのに、勝算があるというのは、 どこかおかしくはありませんか。


 有楽斎さん発言> 家康がこの陣を敷いたのは、小兵力を大きくみせるためで > あり、場合によっては、退いても良いと考えていたと推察.......。

  陣構え後に退くわけですね。結果、武田軍怒濤の追撃戦を受けるだけではないのですか。 ことここに及んで、退く意味ってあるんですか? 偽りの負けを演じ、策があるというなら別ですが。 でも一当てしてからですよね。


 有楽斎さん発言> 又、某が見たテレビでは、たしか、この陣形は、追撃戦を するために敷いたと放送していたように記憶しておりまする。たしか、「堂々日本史」だったような気がしまする。

  この放映を観ていないのでなんとも言えませんが、追撃戦と いうことは、武田軍の後を追っていた時には既に鶴翼の陣 だったのでしょうかね。 街道を進軍中に、そんなに軍を展開できるとは思えません。 三方ヶ原入ってからなら判りますが、それはすでに信玄の術中ですよね。 まあ〜この件を有楽さんに言っても困りますよね。


 有楽斎さん発言> 従って、追撃戦が成功しそうな場合は、この陣形を使って 、戦いをしかけるが、成功しそうにない時は、退却するつもりでは、なかったかと、某は、思いまする。

  武田軍が反転し、魚鱗の陣をなした時点で追尾戦では ないですよね。 成功しそうだったら戦を仕掛ける、異なったら退却する。の どこに策が存在するのか判りません。 こういうことを無謀とは言いませんか?


 有楽斎さん発言> この出陣は、武門の名誉のためでもあり、徳川軍の今後の士気のため、そして、信長に対する発言力の低下を恐れたためのものであったようでござりまする。

  なるほど。これこれ! 策なんかはなく、上記の理由のために出撃した。 それ以上それ以下の理由はないんでは?


 有楽斎さん発言> 敵に攻撃をしかける勝機を見定め、勝機があったら、攻め、勝機がなかったら、攻めないという行為は、指揮官としては、まともなような気がしまする。 これは指揮官としての定石でしょう。 それより、勝機があってもなくても、必ず、戦をしかけるとい行為の方が危険な様な気がしまする。

  そういう行為を一般的に無謀と呼ぶのでは。 そして『長篠・勝頼』『三方ヶ原・家康』はこの例に 漏れないのでは・・・


 有楽斎さん発言> ただ、家康は、勝機がなかったら、退く事も考えていたようなので、 ここが、勝頼の行動に比べると、慎重の様に思いまする。

  極端な話、勝機がなかったら出撃しないですよね。 敵軍を前にしての退却が当時どれだけ大変だったかはご存知でしょう。 そんなことも判らず出撃したのであれば、慎重はおろか、 無謀を通り越して、阿呆ですよね。 または、殿は忠勝くんに任せればという気でもあったのでしょうかね。


 有楽斎さん発言> 総大将が勝利を信じるのは、必要な事だと思いまする。 しかし、戦場での状況に応じて、時には、兵を退くくらいの柔軟な気持ちもないと、猪武者になってしまうと思いまする。 もちろん、いったん、戦が開始されたら、退却するのは、難しい場合が多いと思いまするので、戦の開始する前に、退く事が必要だと思いまする。

  ここに出てくる家康さんは、開戦前に退いていますか? 「これは誘い込まれている」と気づき、行動してますか?


 諾斎さん発言> 勝頼が助かっていたとして、天下を取れるだけの資質があったのかというと・・・・無かったと思います。 いくら父親が偉大であったとしても、勝頼に総大将としての資質があれば、家臣からも信頼され、自分自身も家臣を信頼できていたのでは。

  いや〜難しいですね。 なんで信玄は勝頼に文官の徒しか側近につけなかたのでしょうかね。 豊臣家でも起こった、武官と文官の亀裂が武田家でも起こってしまっています。 話は逸れますが、大谷刑部の発病は豊家にとって痛かったよな。 (私見です) それに、勝頼は所詮信勝の後見人というのも影響したのかな・・・ 今となっては勝頼が天目山の後生き残っていたら・・・ そしてその後の活動を看ることは出来ませんが・・・ 資質ということでしたが、天下人たる信長は、諸々で謀反を起こされていますよね。 最終的には、その謀反で倒れていますよね。 彼の場合は・・・


総大将の資質  投稿者:諾斎  

  家康も勝頼も家臣に諫言されながらも無謀な戦を仕掛け、 家康は助かり、勝頼は結局死ぬことになった。 紙一重の出来事のようにみえますが、実際は紙一重などではなく、 二人にはかなり大きな差があったのではないでしょうか? 家康は助かり、後に天下と取ることになりますが、 勝頼が助かっていたとして、天下を取れるだけの資質が あったのかというと・・・・無かったと思います。 いくら父親が偉大であったとしても、勝頼に総大将としての 資質があれば、家臣からも信頼され、自分自身も家臣を 信頼できていたのでは。 この二人の資質の差が、結局歴史の結果として 出ているような気がするのですが?


お手柔らかに御願い致しまする。(^^  投稿者:織田有楽斎  

ど〜も。(^^; 不識院殿のレスは、なかなか手きびしいでござりまするなぁ。(汗) 某の分かる範囲で、私見もまじえて、御返答致しまする。

>武田軍は別に敗走している訳ではないですよね。 よって合戦の場合、戦うのは反転した武田全軍ですよ! その軍団に向かって追尾することが勝算ある策なのでしょうか?
>追分から祝田に向かうには街道を外れますよね。実際誘き出された場所は、武田騎馬軍団が最も得意とする広大な原野です。狭い谷地での必勝をと思った徳川軍はなぜついていったのですか?
>これは明らかに当初の追撃作戦と違いますよね。

  血気にはやる旗本の一部が、制止命令をもきかずに武田軍に攻撃をしかけてしまったためのようでござりまする。


>ここなんですが、総大将がこんな心構えでいいんですか?本気で戦う気もなく追撃を行い、結果ハイ負けました。ということは、無謀も無謀、愚の骨頂と違いませんか?

 本気で戦う気がないというのは、某の読んだ本の作者の推察であるという事をまず申し上げまする。 そしてその推察の根拠は、家康の敷いた陣形が、鶴翼の陣だったためでござりまする。 この陣形は、兵力が優位にある時は、威力を発揮しまする が、少ない兵力では、威力を発揮しませぬ。 家康がこの陣を敷いたのは、小兵力を大きくみせるためで あり、場合によっては、退いても良いと考えていたと推察出るためという事でござりました。


 又、某が見たテレビでは、たしか、この陣形は、追撃戦を するために敷いたと放送していたように記憶しておりまする。たしか、「堂々日本史」だったような気がしまする。 従って、追撃戦が成功しそうな場合は、この陣形を使って 、戦いをしかけるが、成功しそうにない時は、退却するつ もりでは、なかったかと、某は、思いまする。 正面決戦をするつもりなら、あの陣形は、とらなかったのではないかと思いまする。 この出陣は、武門の名誉のためでもあり、徳川軍の今後の 士気のため、そして、信長に対する発言力の低下を恐れた ためのものであったようでござりまする。 敵に攻撃をしかける勝機を見定め、勝機があったら、攻め、 勝機がなかったら、攻めないという行為は、指揮官としては、まともなような気がしまする。

>結局、家康の武田軍追尾も家臣は家康に諫言し、出陣の無謀を説いています。それでも家康は出陣した。これは、長篠での勝頼にそっくり当てはまりませんか?

 この部分は、たしかに、似ていると思いまする。(^^; ただ、家康は、勝機がなかったら、退く事も考えていたようなので、ここが、勝頼の行動に比べると、慎重の様に思いまする。


>確かに意味合いは全然違いますね。これは完全に私見なので、大きく意味をはき違えて居るかも知れませんが、勝頼は勝利を信じて決戦に臨んだのだと思います。 それは別段戦法を変えることなく。(ゆえに敗北したのですが)始めから勝利を確信していたから工夫を必要としなかったのでしょう。 それに引き替え、家康は、「背後追撃戦」を掲げ出陣し、本気で戦う気はなく、勝機がきたら戦おうという気構えで、狭隘での作戦にも関わらず広大な原野で敗北をしている。
>先に述べた意味合いの違とは、ここに出てくる家康像は、長篠での勝頼に遠く及ばなく、気構えからして・・・
>いや〜話にならないなぁ

  総大将が勝利を信じるのは、必要な事だと思いまする。 しかし、戦場での状況に応じて、時には、兵を退くくらいの柔軟な 気持ちもないと、猪武者になってしまうと思いまする。 もちろん、いったん、戦が開始されたら、退却するのは、難しい場合が多いと思いまするので、戦の開始する前に、退く事が必要だと思い まする。


きな臭いところ  投稿者:不識院  

 とかく総大将は大変ですね。 来シーズンも長嶋続投とありますが、どうなんでしょうね。 いや〜采配は難しい・・・

> > この作戦はどの時点でたてられたのでしょうか?

> 武田軍が、祝田方向に、進みはじめたころだそうでござりまする。

  なるほど、武田軍が姫街道へ移動したころに家康は、既に祝田にての追撃戦を描いていたわけですね。 この時点では、完全に武田軍は浜松城を素通りして、なんの策も 弄さずに西上するということが条件になりますよね、徳川将兵には。 ちなみに、武田軍が姫街道へ移動したのが12:00頃で、7Km近く 進軍して、14:00頃反転してます。 秋葉街道と姫街道の街道の分岐道地点から浜松城まで約4Kmほどあるでしょうか。

> > 武田軍は別に敗走している訳ではないですよね。 よって合戦の場合、戦うのは反転した武田全軍ですよ! その軍団に向かって追尾することが勝算ある策なのでしょうか?
> > しかも敵は倍の兵力を擁しているわけですよね。 そして前哨戦での一言坂でも徳川は負けていますよね。 無謀という言葉は当てはまりませんか?

> 武田軍と正面衝突したのでは、兵力が絶対的に劣る徳川軍に勝ち目がない。 しかし、追分から祝田に至るルートは、狭い谷地であり、武田軍の隊列は、長く延びざるおえない。その伸び切った一瞬をとらえて、側背から攻撃を加えれば、唯一の勝機が到来するという事で言う事でござりました。

 追分から祝田に向かうには街道を外れますよね。 実際誘き出された場所は、武田騎馬軍団が最も得意とする広大な原野です。 狭い谷地での必勝をと思った徳川軍はなぜついていったのですか? これは明らかに当初の追撃作戦と違いますよね。


> 家康は、城外に出陣した後も、本気で戦う気は、なく、勝機がきたら戦おうというつもりだったらしいとの事でござりまする。
  ここなんですが、総大将がこんな心構えでいいんですか? 本気で戦う気もなく追撃を行い、結果ハイ負けました。 ということは、無謀も無謀、愚の骨頂と違いませんか?

> > > それでは、長篠の戦いで、勝頼がとった策に、どのような勝算 があったのでござりましょうか?

> > 野戦に於いて、過去、織田・徳川連合軍に負けていない。etc
> > そんな勝頼の傲慢が若さ故に決戦に走らせたのではないのでしょうか。
> > 但し、私もこの采配は失敗だったと再三申し上げています。

> どちらかというと、これは、勝算というものでは、なく、 勝頼の気持ちに従った采配だったという事でござりまするな。

  結局、家康の武田軍追尾も家臣は家康に諫言し、出陣の無謀を説いて います。それでも家康は出陣した。 これは、長篠での勝頼にそっくり当てはまりませんか?


> 家康は、「坂の上からの、谷間を利用した、背後からの、追撃戦」 という作戦を講じておりまする。
> これに対して、勝頼には、空濠と木柵が設置され、さらに鉄砲まで用意され、その上、約2.5倍の兵に、正面決戦を挑んでおりまする。 従って、家康は、少ない兵が多数の兵にかてる勝機を狙って、戦いをしかけているのに、対して、勝頼は、何の工夫もしておりませぬ。
> この差が、同じ負け戦でも、意味合いが違うような気がしたので、投稿させて頂きました。

  確かに意味合いは全然違いますね。 これは完全に私見なので、大きく意味をはき違えて居るかも知れませんが、 勝頼は勝利を信じて決戦に臨んだのだと思います。 それは別段戦法を変えることなく。(ゆえに敗北したのですが) 始めから勝利を確信していたから工夫を必要としなかったのでしょう。 それに引き替え、家康は、「背後追撃戦」を掲げ出陣し、本気で戦う気は、 なく、勝機がきたら戦おうという気構えで、狭隘での作戦にも関わらず広大な原野で敗北をしている。 先に述べた意味合いの違とは、ここに出てくる家康像は、長篠での勝頼に 遠く及ばなく、気構えからして・・・ いや〜話にならないなぁ


(無題)  投稿者:織田有楽斎  

  こんにちは〜。(^^; 本論からはずれてしまっていたら、申し訳ござりませぬ。 ただ、家康の幻の追撃戦については、本やテレビで何度 か見ており、「さすがは、家康・・」と関心していた事があったので、投稿したくなりました。

 不識院さん発言> 家康は、武田勢が祝田の坂を下りはじめた所を、背後から追撃をする作戦をとりました。 この作戦はどの時点でたてられたのでしょうか?

 武田軍が、祝田方向に、進みはじめたころだそうでござりまする。
しかし、信玄に策を読まれ、坂の手前で武田軍に迎撃されたため、「三方ケ原の追撃戦」は、幻となり、徳川軍の惨敗になったわけでござりまする。

 不識院さん発言>信玄に策を読まれたのではなく、信玄が策にはまったのでは ないのでしょうか。

 信玄の祝田方向へ行くというおびき出しの策に、家康が、は まったという事でござりまする。
その意味で、家康は、単なる無謀な戦いをしたのでは、なく、勝算を持って戦ったわけで、「勝頼の長篠の戦い」とは、同格では、ないような気がしまする。

不識院さん発言>武田軍は別に敗走している訳ではないですよね。 よって合戦の場合、戦うのは反転した武田全軍ですよ! その軍団に向かって追尾することが勝算ある策なのでしょうか? しかも敵は倍の兵力を擁しているわけですよね。 そして前哨戦での一言坂でも徳川は負けていますよね。 無謀という言葉は当てはまりませんか?

  武田軍と正面衝突したのでは、兵力が絶対的に劣る 徳川軍に勝ち目がない。 しかし、追分から祝田に至るルートは、狭い谷地で あり、武田軍の隊列は、長く延びざるおえない。 その伸び切った一瞬をとらえて、側背から攻撃を加 えれば、唯一の勝機が到来するという事で言う事で ござりました。 家康は、城外に出陣した後も、本気で戦う気は、な く、勝機がきたら戦おうというつもりだったらしいとの事でござりまする。
 そして、唯一の勝機の瞬間を、信玄に見せられてしまったために、決断し、戦いを挑みましたが、それが、 信玄の罠だったという事でござりまする。

> それでは、長篠の戦いで、勝頼がとった策に、どのような勝算があったのでござりましょうか?

 
不識院さん発言> 野戦に於いて、過去、織田・徳川連合軍に負けていない。etc そんな勝頼の傲慢が若さ故に決戦に走らせたのではないのでしょうか。 但し、私もこの采配は失敗だったと再三申し上げています。

  どちらかというと、これは、勝算というものでは、なく、 勝頼の気持ちに従った采配だったという事でござりまするな。


> 同じ負けでも、勝算をもって戦に望んだ家康の戦いの方が何枚も、上のような気がしまする。

 
不識院さん発言> 私には、家康の勝算というものが理解できない。 少なくとも、勝頼には過去の実績があった。 同じ負けでも、家康は脱糞しただけで、討ち死にした部将格は平手汎秀 (しかも織田家)くらいで、運は家康にあったのかな?

 家康は、「坂の上からの、谷間を利用した、背後からの、追撃戦」 という作戦を講じておりまする。 これに対して、勝頼には、空濠と木柵が設置され、さらに鉄砲まで 用意され、その上、約2.5倍の兵に、正面決戦を挑んでおりまする。 従って、家康は、少ない兵が多数の兵にかてる勝機を狙って、戦い をしかけているのに、対して、勝頼は、何の工夫もしておりませぬ。 この差が、同じ負け戦でも、意味合いが違うような気がしたので、投稿させて頂きました。


<そんな事は...氷解>  投稿者:不識院  

 にんじゃさん発言> 三方ヶ原と長篠ですけど戦の目的が違うのでなんとも言えませんね。 前者は上洛戦の寄り道ですが後者は自分を滅ぼす戦いです。 武田は家康なんかどうでも良かったわけですが、信長は武田を滅ぼしに来てるわけですからね。

  寄り道ではなく、浜松城から家康を誘き出し、野戦に持ち込んでいますよね。 それに連合軍が長篠に出張ってきたのは、特別武田家を滅ぼす というより、長篠城の救援後詰めが目的ですよね。 決戦に持ち込まれた家康と、決戦に臨んだ勝頼という形では ないでしょうか?


 有楽斎さん発言>家康は、武田勢が祝田の坂を下りはじめた所を、背後から追撃をする作戦をとりました。

  この作戦はどの時点でたてられたのでしょうか?


 有楽さん発言> しかし、信玄に策を読まれ、坂の手前で武田軍に迎撃されたため、「三方ケ原の追撃戦」は、幻となり、徳川軍の惨敗になったわけでござりまする。

 信玄に策を読まれたのではなく、信玄が策にはまったのではないのでしょうか。


 有楽さん発言> その意味で、家康は、単なる無謀な戦いをしたのでは、なく、勝算を持って戦ったわけで、「勝頼の長篠の戦い」とは、同格では、ないような気がしまする。

 武田軍は別に敗走している訳ではないですよね。 よって合戦の場合、戦うのは反転した武田全軍ですよ! その軍団に向かって追尾することが勝算ある策なのでしょうか? しかも敵は倍の兵力を擁しているわけですよね。 そして前哨戦での一言坂でも徳川は負けていますよね。 無謀という言葉は当てはまりませんか?


 有楽斎さん発言> それでは、長篠の戦いで、勝頼がとった策に、どのような勝算があったのでござりましょうか?

 野戦に於いて、過去、織田・徳川連合軍に負けていない。etc そんな勝頼の傲慢が若さ故に決戦に走らせたのではないのでしょうか。 但し、私もこの采配は失敗だったと再三申し上げています。

 
有楽斎さん発言> 同じ負けでも、勝算をもって戦に望んだ家康の戦いの方が何枚も、上のような気がしまする。

  私には、家康の勝算というものが理解できない。 少なくとも、勝頼には過去の実績があった。 同じ負けでも、家康は脱糞しただけで、討ち死にした部将格は平手汎秀 (しかも織田家)くらいで、運は家康にあったのかな?


確かに?  投稿者:諾斎  

  そうですよね〜? 確かに、三方が原で信玄が家康を、 三河を滅ぼそうと思えば滅ぼせることはできたんですよね。 そうなっていれば家康も、勝頼同様、 「最初から負けると解っていながら無謀なことをした!」 というふに、歴史はなるんですよね。 ただ、なぜ家康は生き残り、勝頼は死んだのかというと、 運や才能の差ではなく、家臣からの信頼の差!ということなのでしょうね。


おもしろい  投稿者:にんじゃ  

  いいなあ、面白い感じですね。 こういうのって、インターネットの醍醐味だと思いませんか? 私は、結構好きですよ。 もっとも、両者とも良識人すぎるなあ。 もっと派手にいきましょうよ。 論争は良いことだと思いますよ。 ただ掲示板では履歴が残るのであげあしをとりやすいですけど、 相手の本論をとらえて論議しましょうね。(一般論) 私は私生活では、論争三昧なんですが、ネット上ではなぜかいいこぶって論争したことありません。 したいんですけどねえ。 説教くさい事書いてすみません。 三方ヶ原と長篠ですけど戦の目的が違うのでなんとも言えませんね。 前者は上洛戦の寄り道ですが後者は自分を滅ぼす戦いです。 武田は家康なんかどうでも良かったわけですが、 信長は武田を滅ぼしに来てるわけですからね。 気持ちは勝頼も家康も同じだったかもしれませんが 置かれた状況はぜんぜん違います。


そんな事は...  投稿者:森田丹波守  

>> しかし「長篠の合戦」においては敗北はすなわち滅亡を意味していた。

>この提示が気になっただけです。

  書き方が拙かったですかね。 たとえ十中八九が良くてもたった一つ拙かった事が命取りになることが有る。 勝頼にとって不幸にして正念場の長篠がそうなってしまったと言う事です。


徳川家康  投稿者:織田有楽斎  

  御久しぶりでござりまする。(^^; う〜ん、盛況な掲示板でござりまするなぁ。 「三方ケ原の戦い」 西上する武田軍およそ2万5000に対して、信長からの援軍 3000と徳川軍8000をあわせて約1万1000ほどでござりました。家康は、当初、篭城をきめていたらしいでござりまするが、武田勢に、素通りされてしまいました。 これに対して、家康は、同盟国の信長の先鋒としての、立場上、 敵をそのまま行かせる事は、出来なく、野戦に出る事を決意し ました。家康は、武田勢が祝田の坂を下りはじめた所を、背後から追撃をする作戦をとりました。 しかし、信玄に策を読まれ、坂の手前で武田軍に迎撃されたため、「三方ケ原の追撃戦」は、幻となり、徳川軍の惨敗になったわけでござりまする。 その意味で、家康は、単なる無謀な戦いをしたのでは、なく、 勝算を持って戦ったわけで、「勝頼の長篠の戦い」とは、同格では、ないような気がしまする。 それでは、長篠の戦いで、勝頼がとった策に、どのような勝算があったのでござりましょうか? もし、ないとすれば、同じ負けでも、勝算をもって戦に望んだ家康の戦いの方が何枚も、上のような気がしまする。


Re:なんか話が...  投稿者:不識院  

> しかし「長篠の合戦」においては敗北は すなわち滅亡を意味していた。 この提示が気になっただけです。 (揚げ足とりなんでしょうかね〜私は・・・?)


 
なんか話が
......投稿者:
森田丹波守
 
私が言いたいのは 「長篠だけで勝頼全体の評価をした覚えはない」 という一点だけです。 誰にも失敗はあるでしょうし、「長篠」の勝頼の行動にも 様々な解釈が可能で、それが私と不識院さんで違う事も承知しています。 それに「三方原の家康」と「長篠の勝頼」を比べてどっちが無謀かというとどちらも無謀ということも、運というかその後の歴史の流れが家康のほうに有ったためその評価に現在差が有ることもわかります。

 「勝頼は無能だ」とかいった覚えは有りません。 とかいたのは > 長篠合戦という一面のみで勝頼の評価をするのは、 > 木を見て森を観ずの例えに当てはまるのではないですか? と書かれていたので 「長篠だけで判断して勝頼無能という人がいるけど私はそんなことを言った覚えは無い」 というつもりで書いたのみです。

Re:お言葉ですが  投稿者:不識院  

 > ただ、「長篠の采配は失敗だ!」とか > 「もっと慎重に事を進めて欲しかった」とかは書きました > 「長篠に限って」いえばあれもこれも失敗だ、大将として問題が有った > とは書きましたが。 その失敗につきましては、『若さゆえの・・・』『勇猛すぎる・・・』などの私見 を書かせて頂きました。 (そういう一言では片づけられませんか?) イコール長篠合戦采配は、私も失敗だったと思います。 でも失敗はだれでもしますよね?っていう軽い問いかけです。
 
  そして話は別にして、 同じ様な失敗をした家康が天下を獲った。という例をあげました。 だから、勝頼以上に信長・家康が狡猾かつ運があったのではと・・・ 『勝頼無能』だなんてことには、お互い触れていないと思いますが。

御無沙汰しております  投稿者:木枯らし紋次郎  

 孫一殿、お久しゅうござります。 こちらを覗きに来てもカキコしていなかったもので… 皆さんの知識には驚かされております。 それがしの様な者が書き込むのはなんか、気が引けて… 武田勝頼の亊でみなさん盛り上がっている様ですね。 それがしも勝頼には興味があります。 長篠の合戦の様な無謀な戦をなぜ行ったのか… それがしは勝頼自身が無能だとは、思いません。 偉大な父を持つ息子の“苦悩”とでもいいましょうか? 彼を取り巻く当時の状況(家臣団の派閥ete.)など… なんとなく…(根拠は全くないのですが、ただ、なんとなく) なぜ長篠の合戦に踏み切ったのか、気持ちがわからないでもないんですが… 根拠のない発言で申し訳ありません。 では、又。

お言葉ですが  投稿者:森田丹波守  

 不識院さん発言>長篠合戦という一面のみで勝頼の評価をするのは、木を見て森を観ずの例えに当てはまるのではないですか?

  との事ですが、私はそのような評価をした覚えも有りませんし 書いた覚えも有りません。 ただ、「長篠の采配は失敗だ!」とか 「もっと慎重に事を進めて欲しかった」とかは書きましたがそのために「勝頼は無能だ」とかいった覚えは有りません。 「長篠に限って」いえばあれもこれも失敗だ、大将として問題が有ったのでは? とは書きましたが。 まぁ私の書き方にも問題が多々有ろうことは承知していますし、 認識が甘かったのも認めます。 けど、なんか誤解されているようなので。

勝てば官軍  投稿者:不識院  

 森田さん発言> 相手の覆う壺に動いてしまうのは大将たるものとしては問題がありゃしませんか?もう少し分別が欲しかった。

  確かに総大将としての分別には欠けていたかもしれませんね。 しかし、人間誰しも間違いはある。 長篠合戦という一面のみで勝頼の評価をするのは、木を見て森を観ずの例えに当てはまるのではないですか? と言いたかったのです。

  長篠合戦を武田勝頼という人物を評価するのに使うのは納得できない という、WAGさんの提示に繋がるわけですね。 そういう意味で、最終的に天下を獲った家康も、三方ヶ原では 大将とは思えない行動をしたと例を上げました。 片や天下人、片や滅亡・・・ まことに好対照ですが、その一戦に及んだ分別は同じようなもの だと思います。 勝頼より、信長・家康の方がより狡猾で、なにより天運に恵まれていたのではないでしょうか。 極論を言ってしまえば、 光秀さんが『本能寺の変』のみで評価されているようなものですよ。 「違う!光秀さんは・・・」という気持ちと一緒なんです。

勝てば官軍  投稿者:森田丹波守  

 長篠城攻防は、鳶ノ巣山砦が落とされた時点で武田側の負けだと思うんですよね。 すでにこうなった時点で過ちだと思うのですが...。 相手は倍の兵力でも、同じ様な兵条件の姉川戦で辛勝だった連合軍相手なら一泡吹かせると勝頼は考えたのでは? これが「彼我の戦力分析の失敗」です。 また姉川戦と比較したというならあれは一種の遭遇戦ですが、 今回は織田・徳川方が待ちかまえているところにわざわざ 武田方から仕掛けているわけで...そんな若さと勇猛さが後押しし、開戦に踏み切ったのでしょう。

 
不識院さん発言>残念なのは、連合軍の土俵で戦ったことである。

  相手の覆う壺に動いてしまうのは大将たるものとしては問題が ありゃしませんか?もう少し分別が欲しかった。 「失敗を〜」というのは確かに結果を知っているからいえることかもしれません。少なくとも、絶望的な戦を仕掛けたとは思えないし、勝頼もそこまで阿呆ではないでしょう。 わたしは勝頼がそう思っていたとは思っていません。自分自身 勝てると思っていたのでしょう。それは再三申していますが。 そうではなく、絶望的な戦を仕掛けたのは彼我の戦力を判断して この戦力では勝てぬと思っていた諸将のほうだと思っています。

評価  投稿者:不識院  

 諾斎さん発言> どう考えてもあの戦い方は、戦法というよりは無謀であり、正攻法すぎたきらいがあると思います。

 それ以上に、三方ヶ原に出ていった家康の方が無謀だと思うのですが・・・ しかし私はそれにしても「長篠の合戦」という戦術レベルでの判断で大きな過ちを犯した、と言っているわけです。合戦を仕掛けるのはよい。しかしもっとましな方法があるのに下策を選んだ事を「失敗」といっているわけです。

  長篠城攻防は、鳶ノ巣山砦が落とされた時点で武田側の負けだと思うんですよね。 その負けを不問にするには、長篠城救援の連合軍主力との決戦に勝利することしかない。 相手は倍の兵力でも、同じ様な兵条件の姉川戦で辛勝だった 連合軍相手なら一泡吹かせると勝頼は考えたのでは? ここまで来て、なんの役も得ずに甲府に帰るという行為が、この漢のプライドに障ったのでは・・・ そんな若さと勇猛さが後押しし、開戦に踏み切ったのでしょう。

  残念なのは、連合軍の土俵で戦ったことである。失敗を教訓として生かし後の合戦に有意義に活用できれば失敗も悪くはないと思うのです。しかし「長篠の合戦」においては敗北はすなわち滅亡を意味していた。 これは結論・極論ですよね。歴史が定まった今だから言えることで。 三方ヶ原の役後も信玄公健在だったら、家康も 「ボクもあの時はウンコ漏らしちゃったよ」なんて笑っていられない と思うんですよね。

  勝負は時の運、勝敗は兵家の常だから仕方ない。 少なくとも、絶望的な戦を仕掛けたとは思えないし、勝頼もそこまで 阿呆ではないでしょう。 生き残ったモノ勝ちの後生の評価ですよね。

 
WAGさん発言>実際1582年の織田軍による武田攻めの際、 織田信忠率いる織田軍は総勢10万だったらしいし。

 この総勢10万という数はどこから出てきたのでしょうか? 信長の版図石高からは可能な動員数かも知れませんが、 北陸・中国・本願寺に兵を割いている時期に、全兵力が 武田領に進攻したとは思えないのですが・・・


 名門、武田家としての誇り ?   投稿者:諾斎

 どう考えてもあの戦い方は、戦法というよりは無謀であり、 正攻法すぎたきらいがあると思います。 義経や信長のように、少数騎馬隊によるスピード重視の奇襲もあれば、 正成や真田のような、神出鬼没、奇抜な戦略・戦術もある。 自分はある意味では、織田信長が戦国最強の武将だったと 思っています。 そして、その織田信長という人間の戦略は、桶狭間を除けば 基本的に、相手が1万であれば、こちらは2万・3万、 2万であれば、こちらは3万・4万というような、 多勢をもって少数の相手を叩く。 戦術を駆使せれても負けることのない戦。 勝てないまでも絶対に負けないというのが信長の戦略です。 信長が戦をするということは、勝てる算段があるということで、 その信長相手に・・・・・。

  その上、桶狭間から始まり、対信玄、対謙信でもわかるように、 恐ろしいほどの強運の持ち主でもある。 勝頼とすれば、謙信在命中に信長を叩いていたならまだしも、 謙信死後であれば、もう帰順というかたちしか武田家存亡の道は 残っていなかったような気がします。 でも名門の武田家としては、帰順という道は選べないでしょうから、 遅かれ早かれ滅亡という道しか残っていなかったということですね。

勝頼その弐  投稿者:森田丹波守  

 WAGさん発言>逆に言えば、武田家の活路は、外征して織田家との一戦に及びそこで勝利するしかなかった。織田家に味方する徳川家を滅ぼし、その領土を接収するしか織田家に対抗する術はない。
 
 この意見に反論は有りません。戦略的には勝頼の判断は間違っていないと思います。時間がたてばじり貧になるのは火を見るより明らかな わけですから。
 しかし私はそれにしても「長篠の合戦」という戦術レベルでの判断で 大きな過ちを犯した、と言っているわけです。 合戦を仕掛けるのはよい。しかしもっとましな方法があるのに 下策を選んだ事を「失敗」といっているわけです。 しかも取り返しのつかない。

 
天陽さんへ 確かに古今一度も失敗しなかった武将などいないでしょう。 失敗を教訓として生かし後の合戦に有意義に活用できれば失敗も 悪くはないと思うのです。しかし「長篠の合戦」においては敗北は すなわち滅亡を意味していた。

 
WAGさまも言われるようにこのままだと 差がつく一方ですから。そういう大事な一戦なのにあの采配... たしかに勝頼の意気込みが周りの重臣から冷ややかに受け取られて いたきらいはあります。それに対抗してさらに勝頼が意固地になるという悪循環。 それならばなおさら重臣達と意志の疎通を行って君臣一体になって戦って いけていれば思うわけです。そうすれば信長もおいそれとは天下布武に 邁進はできなかったと思います。

 
にんじゃさん 鉄砲の三段撃ちは金ヶ崎の撤退の時に既に佐々成政がすでに使っていたらしいですね。 それに「画期的な戦術」という割にはその後に三段撃ちを用いて戦った という合戦を聞きませんね。これは、すでに私たちの「思いこみ」であって 本当は「画期的」というほどでも無かったのかもしれませんね。 それとも実は「三段撃ち」など無かった、か。

連荘投稿・「信長」でのカメラワーク  投稿者:WAG  

 「信長」で違和感を感じたのが、市姫(鷲尾いさ子)へのカメラワーク。 異様に市姫が大きく画面に映ってました。浅井長政と比べても妙に大きい。 そんなに市姫は背が高かったのでしょうか? そんな文献が実際に存在するの? なんか異様にクローズアップされて、毎回困惑していた記憶があります。 あの当時の男子の平均身長が150cmちょっとでしたっけ? それを考えると女性は140cmちょっとになるのかな? 実際に市姫が170cm近くの身長だったとしたら、 ああいう風になるのかな。

勝頼出撃の話。  投稿者:WAG  

 あの時期に勝頼が出撃したのはそれなりの理由があったんだと思う。 信長はこの時期着々と京以西や北陸の支配権を確立していき、 その力も信玄公生存のころとは比べものにならないほどになっている。 振り返って武田方の力は信玄公の無くなったときのまま。 このまま手を拱いていると、両軍の格差はどんどん離れてしまい、 まっているのは、滅亡の二文字。

  実際1582年の織田軍による武田攻めの際、 織田信忠率いる織田軍は総勢10万だったらしいし。 こんな数で攻められたら、長篠合戦で兵力を損耗していようがいまいが関係ないよ。 兵力を保持したまま、自領に閉じこもり領土を守り続ける。 武田信玄は生前、勝頼への遺言としてこの方針を守らせようとした。 でも圧倒的に力の差がついてしまえば、 信長の性格上、敵対し続けた武田家を必ず滅ぼしただろうし……。

 確かに武田家の滅亡は遅くなったとは思うが、結果は変わらないだろう。 あの時期に織田家と大規模な合戦に及ぶのはバカだ、と人は言うけれど、 ならば、いつならば良かったのであろうか? まだ勝てる見込みのあるうちに、決戦をしかけるのは悪い考えではないと思うよ。 その結果はどうあれね。 逆に言えば、武田家の活路は、外征して織田家との一戦に及びそこで勝利するしかなかった。 織田家に味方する徳川家を滅ぼし、その領土を接収するしか織田家に対抗する術はない。 勝頼はそのことを理解していたんだろう。 でも信玄公の遺臣達はそのことを理解しようとしなかった。 信玄公の残した言葉をただ信じ、勝頼を諌めるのみ。

  そんな家臣達に勝頼はいらだち、家臣達は逆に勝頼に失望する。 偉大な父を意識しすぎて失敗したとされる勝頼。 でも実際には、家臣達の方が先主を意識しすぎたんだと思う。 家臣の信頼を得ることなく戦に及び負けた勝頼。 でも家臣の信頼を得るには、戦で勝つしかない勝頼。 ジレンマだよね。

続き  投稿者:天陽  

 長篠の戦いは勝頼の判断ミスとの声が強いのですが、 どんな武将でも一度や二度の敗戦はあると思うのです。 信玄だって上田原で大敗しているし、信長も浅井・朝倉に一敗してます。 勝頼は敗戦後から天目山までの七年間を寝ていたわけではありません。 徳川家に調略をしかけたり、上野へ侵出したりと、精力的ではありませんが、活動しています。

 後世で、「勝頼の評価低し」と判断されたように、 武田の重臣たちも同じように判断し、先入観をもって仕えていたのでは。 そうすると、勝頼がいくら頑張ったって空回りになるだけです。 また、長篠の戦いに関しても、信長に鉄砲を大量に導入させた理由は、 武田騎馬軍団にあるのでしょう。 「ボタン一つで決着のつく戦争では、人間性が失われ悲惨なものになる」 と、誰かが言ってました。無機質な鉄砲隊に向かって特攻する人馬一体、負けたとしても私は、勝頼が挑んだ人間性のある戦争に敬意を表したい。

三段構え  投稿者:にんじゃ  

 「長篠の戦」盛り上がってますね。 私のHPでも取り上げているので見にきてください。 私は鉄砲三段構えについてかねてから疑問があるのですが、 みなさんどう思われます? 行ってみるとわかるんですが設楽ヶ原って結構狭いんですよ 本当にこんなところで何万人もで戦争ができたのか?というぐらい。 あそこに三千人の鉄砲隊を配置すると、 一列で並べたら両端は敵の方向いてないと思うんです。 自然と何列かにせざるを得ないでしょう。 それに、鉄砲隊が100人なら3段にしても意味無いと思うんです。 結局、鉄砲隊の数の多さがすごかったんじゃないでしょうか?

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