4 倭国王帥升と伊都国 「後漢書」東夷伝に曰く、『安帝の永初元年( 西暦107年 )倭の国王帥升等、生口( 捕虜・奴隷 )160人を献じ、請見を願う』とある。 (1) 倭国王帥升等の実像 「後漢書」は上記で述べたように、「魏志倭人伝」より製作年代は新しいのであるが、倭国王に関してその名が著されたはじめての文献である。 西暦 57年に後漢光武帝は、奴国の王に「漢委奴国王」の印綬を授けたことはすでにみた。そしてその奴国王はゆるやかな連合体を構成するクニ・グニを代表する性格をもつものと述べた。この連合体の目的は朝鮮半島及び半島を経由して中国との交易にあった。そして、奴国王の墳墓の後に数世代あったことが考古学的に認められている。このようにして歴史に現われた奴国王が、50年後の西暦107年に「倭の国王帥升」という人物にその代表の座を明渡した。なぜだろうか。 「後漢書」東夷伝に倭の国王帥升等は生口160人を献じたとあるが、この「生口160人」はこの時代としては大変な数である。たとえば、卑弥呼は西暦239年に魏の明帝に生口10人を献じ、またその後、卑弥呼の宗女の壱与(台与)は西暦248年頃に生口30人を献じたとある。この数からみると異常なまでの多さである。 このことについて西嶋定生氏は『倭国内の各諸国は、倭国王への服属あかしとして、それぞれ自国で調達した「生口」を倭国王に拠出し、倭国王はそれらを自己の権威と誠意を示すための物量の一部として奉献したのではあるまいか』とし、さらにその『倭国の形成の際には、その7、80年後に発生した漢末の倭国王の争乱と共通する争乱を経過したのではないか』(「倭国出現の時期と東アジア」他-東京大学出版会)と書いている。生口のなかには、その争乱に際して捕虜となったものなども入っているのであろう。 ゆるやかな連合体を構成するクニ・グニを代表する性格をもつ「奴国王」の時代から、未確認ではあるが50年間のあいだに経済的利権の絡む権力抗争と思われる「倭国争乱」があって、より強固な連合組織が出来、帥升は「倭の国王」と「後漢書」東夷伝に記されるような地位を得たのであろう。帥升は倭国の初代国王である。ただ、その倭国の範囲は、ということになると、まだ「北部九州を中心とする諸国」に限られた範囲と考えている。この時代の「倭国」は、のちの「日本国」に等しい統一された「国」を意味していない。 範囲を限定するのに慎重なのは、その範囲によって、「倭の国王」といわれた帥升のもつ政治権力構造・支配構造の内容が質的に変化するからである。瀬戸内(吉備)勢力や出雲勢力・畿内(大和)勢力をも含むとすれば、政治権力構造・支配構造の内容が、後の卑弥呼が女王として「共立」されたの時代の「連合国家」に等しいものになるからである。 つまり西暦107年のこの時代に卑弥呼の時代の「連合国家」に等しい「倭国」が出現していたことになるからである。このような「大国」は後述する「倭国大乱」の後にもとめなければならない。この時代の瀬戸内(吉備)勢力や出雲勢力・畿内(大和)勢力は、政治・経済・文化等について北九州玄界灘沿岸の諸国と交流をもちながらも独自の政治体系をもっていたと考えたい。 (2) 倭国王帥升の王都 倭国王帥升の王都は、福岡県の糸島平野周辺であろう。前原市にある「三雲・井原遺跡」といわれている遺跡群がその中心で、帥升の王都と思われる。前原市教育委員会によれば、「三雲遺跡が伊都国王が寝起きしてたであろう伊都国の中心地であると考えられるまでに至りました」という。 王仲殊氏は「三角縁神獣鏡と邪馬台国」(梓書院)で、師升等は邪馬台国の「男王」であるといっている。そして邪馬台国の所在地は畿内に見られるといっている。深くは立ち入らないが、もし邪馬台国の所在地が畿内であるとしたら、伊都国師升等=邪馬台国となるので妙な話になってしまう。伊都国は九州にある国である。伊都国の主探しを始めなければならないことになる。王仲殊氏が「邪馬台国=畿内説」で良かったと言うべきか。 ただ、「後漢書」東夷伝に倭の国王帥升等は生口160人を献じたとあることを考えると、師升等は邪馬台国の「男王」であると王仲殊氏に誤解されるような政治的権力をすでに手中にしていたかもしれない。寺沢薫氏は、「紀元前3世紀末の弥生時代前期末の段階ですでに国家の誕生を認めようとする」立場であるので、当然のことながら、「倭国と倭国王は、イト国の福岡前原市井原鑓溝遺跡でこの王墓をおいてほかはない」とし「前漢王朝から冊封を受けたであろう三雲南小路の王の3、4世代ほどの末裔だ」といって「倭国の誕生」をこの時代にみている。この「前漢王朝から冊封を受けたであろう」という人物はもちろん帥升である。 なお、「倭国王帥升等は魏志倭人伝にみる倭女王遣大夫難升米等と同じように倭国王遣帥升等と解釈して、帥升は使節団の長であるという説があるが、私は倭国の初代国王とみている。そして帥升は「帥升等」という名ではなくて、「等」は北九州の諸国が帥升のもとに結集して「遣使」をつかわしたので複数の意味、と捉える。
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