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1 旧石器時代から縄文・弥生時代へ


 遠い記憶、確実に我々の体内に存在する過去の記憶。存在することは確かなのだが、残念なことに具現できない。

 そのような遠い記憶の源はアフリカに発生した。およそ700万年から300万年前のことである。我々の祖先は今日では「猿人」と呼ばれ、アフリカに誕生した。その後大陸の各地に移動して、そして200万年前のころに第4紀更新世という時期を経験して、「先土器文化」を持ったジャワ原人(200万年前)や北京原人(60万年前から50万年前)のころに現われた。さらに約15万年前にはネアンデルタール人が現れ、そして日本では、その存在形態に疑問が投げかけられてはいるが、故直良信夫氏が1931年に5万年前から12万年前の旧石器時代の地層から発見した『明石原人』(およそ7万年から8万年前の「旧人」と現在ではいわれている。)も誕生したという。

【時事通信ニュース速報】 

=石器発掘で学会論争に決着=

 兵庫県明石市教育委員会は六日、同市藤江の藤江川添(ふじえかわぞえ)遺跡で、5万年前から12万年前の旧石器時代の地層から打製石器を発掘したと発表した。石器が見つかった地層は、近くの海岸で明石原人の骨が見つかった地層と年代がほぼ一致し、東北地方で旧人が七万−八万年前に使っていたとされるほぼ同じ種類の石器が見つかっていることから、同市教委は今回の発見は明石原人が旧人であったことを裏付けるもので、原人か旧人かの論争に一応の決着がついたとしている。

 明石原人の骨は1931年、故直良信夫氏が発見したが、東京大空襲で喪失。当初は原人の骨と思われていたが、その後発見された地層を調べた結果、旧人の可能性が高まり、原人か旧人かなどで長らく学会の論争が続いていた。原人と旧人は、同様に狩猟生活をしていたが、脳の大きさや骨格の違いによって区別される。原人は更新世中期に属し、簡単な石器を使用したのに対し、旧人は更新世後期前半に存在し、進んだ技法による打製石器を用いたとされる。【1997-10-06】

【識者のコメント】

 春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授は「明石に旧人がいたのを裏付ける発見だ。今まで空白だった近畿と中四国の旧石器時代の研究が今回の発見で広がる可能性がある。今後の調査に期待したい」と話している。(毎日新聞ニュース速報 1997-10-07より)

 

 日本最古の遺跡としては「国内最古の遺跡と確認された岩手県宮守村の金取(かねとり)遺跡」がある。およそ9万年から8万年前といわれている。この遺跡は「日本最古の旧石器遺跡」であることが、日本考古学協会の調査 (発掘していた調査委員会の委員長は佐々木広村長) によって確認されている。旧石器時代としては中期にあたるという。「発掘ねつ造事件」の発覚以後発見されたはじめての遺跡である。現在第三次発掘調査が平成16年6月に行われ遺跡資料の分析に入っている。

 2万5千年前に長野県野尻湖畔でナウマン象が存在したことが確認されている。また、沖縄県具志頭村では、1万8千年前の人骨(『港川人』と呼ばれている。)が発見された。発見された方は那覇市に住む大山盛保氏である。1970年から1971年かけて発見された人骨『港川人』は、5体から9体分あり、うち4体がほぼ完全な形で残っているという。 

港川フィッシャー遺跡

港川人1号頭骨の画像

港川フィッシャー遺跡の画像

港川人1号頭骨の画像

画像提供: 具志頭村立歴史民俗資料館 

更新世末期の東アジアの地図

更新世末期の東アジアの地図

画像提供: 具志頭村立歴史民俗資料館

 氷河期が終わりになる1万年前の頃になると、海面が上昇して日本列島が形造られた。人の生活様式も槍・弓矢・石鏃が使用されるようになった。また、人が定住したと考えられている鹿児島県の「栫ノ原遺跡」(かこいのはらいせき)など「定住遺跡」があらわれる。  

 さらに各地に貝塚があらわれ、「縄文土器時代」に入る。貝塚の遺跡として神奈川県の「平坂貝塚遺跡」は、土器編年のうえで重要な遺跡とされている。この時代の人は狩猟を生活の中心としていたが、貝塚にみられるように特定の地域に定着することが高まったといえる。

 この後竪穴式住居の集落化がみられ、そこにムラが生まれて広場、墓、集会所などが発生した。ムラの発生は人の身分をも生んだ。  

 青森県の「三内丸山遺跡」は、約5千5百年前から4千年前の縄文時代の集落跡とされ、長期間にわたる定住生活をしていた形跡がみられるという。発掘調査により現在竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが発見され、縄文時代の集落全体の様子が理解できる好例となっている。

大型掘立柱建物跡

南盛土

三内丸山遺跡のパンフレットより『大型掘立柱建物跡』

三内丸山遺跡のパンフレットより『南盛土』

 さらに、土器、石器、土偶、土や石の装身具、掘り棒、袋状編み物、編布、漆器などの木器や骨角器、他の地域から運ばれたと考えられるヒスイ(新潟産であろう)や黒曜石(北海道産であろう)なども出土している。また、栽培植物( ヒョウタン・ゴボウ・マメ・クリ)が明らかになった。クリなどはアク抜きのためにも土器が必要となるであろうから必然的に縄文土器の発達がみられることになる。

 さて、縄文時代はこのようにして列島各地に点在する定住遺跡をもたらし、長い時の記憶を刻むことになった。やがて2千数百年前のころになると稲作が伝わり「新しい食文化」ともいえる弥生時代を迎えることになる。


2 稲作の伝来と人々の移動


 縄文時代の晩期には、食料の調達が容易になったためか列島の総人口が25・6万人くらいになったとの説がある。統計方法などの集計手段の詳細が知れないので根拠を示すことはできないが、しかし、列島全体として考えれば、極めて感覚的ではあるが無理な人口数値ではないように思う。

 弥生時代は人の移動と稲の伝播により幕を開けるといってもいい。イネといっても自生しているイネではなく自生しているイネを改良した「栽培ができるイネ」のことだ。「栽培イネ」の起源は、作物学の京都大学教授渡部忠世氏により提唱された「インド北部のアッサム丘陵から中国南部の雲南高地にかけての地帯が起源」という説が最近では支持されているのではないかと思っている。その「栽培イネ」の列島へのル-トは、雲南高地から長江を上流から下流へと伝わり、最終的に列島へ伝わったというものだ。日本ではこのアッサム・雲南を起源とする「栽培イネ」を「ジャポニカ」と呼び、これに対して従来の説であるガンジス川下流域のイネを「インディカ」といっている。

 わたしは後述することと考えあわせて渡部忠世氏の「インド北部のアッサム丘陵から中国南部の雲南高地にかけての地帯を起源とするジャポニカ説」を支持したい。2500年前の頃のインド(南インド)は、後にインダス文明と呼ばれる時代を迎えていた。舗装道路や排水溝が完備され、公衆浴場もあったという。その高度な技術を持ったトラビダ人の先祖と思われる人々が、年代についてははっきりしないが、自生しているイネを収穫量の多い「栽培イネ」にに改良したのだろう。 

 また、大陸の長江中流・下流域、現在の中国浙江省の「河姆渡遺跡」で、7000年から5000年前といわれる広大な稲作跡から120トンもの稲のもみが発見され、そのうちインディカが70パーセントでジャポニカが10パーセントであるという。中国浙江省の「河姆渡遺跡」からインディカが70パーセントも発見されたことは、ガンジス川下流域のイネを起源とする従来説もまだ根拠を失ったわけではない。「河姆渡遺跡」の考古学的調査の精度がどの程度のものかはよくわからない。7000年から5000年前といわれる長江中流・下流域の稲作跡「河姆渡遺跡」といわれて脚光を浴びているが、今後のさらなる調査・研究が必要であると思う。その成果に期待したい。

東アジア地図

  富山県小矢部市の「桜町遺跡」は、1988年に一般国道8号小矢部バイパスの建設工事に伴って発掘調査が行われた際に発見された遺跡だが、この「桜町遺跡」は約12000年前の縄文時代の遺跡とされ、従来弥生時代に日本へ伝えられたとされた「高床式」の建物が、2000年前の縄文時代に建てられていたとし、さらにその高床式の建物は、中国浙江省の「河姆渡遺跡」の高床式の建物の木組み工法と一致したといわれて、脚光をあびた。

大型高床建物絵図

大型高床建物の柱材

 床の高さが地上から2mもある大型高床建物の柱材とされている。祭りや儀式を行う際の建物(祭殿)ではないかといわれている。

パンフレット「今よみがえる縄文のむら桜町遺跡」より掲載

 1999年4月21日に岡山理科大学において日本最古のイネ細胞化石が「朝寝鼻貝塚」から発見されたとの発表がされている。このイネ細胞化石は、加計学園・岡山理科大学の道路敷地内に所在する朝寝鼻貝塚の約6000年前の地層から発掘されたというものだ。稲作伝来のこれまでの定説が覆されるもので今後の進展が期待されている。

 このほか、やはり岡山県の縄文中期の遺跡「姫笹原遺跡」(5000年から4000年前)や縄文後期の「南溝手遺跡」(4000年から3000年前)かあり、さらに、鹿児島県では縄文中期、長崎県では縄文晩期の遺跡などからイネ細胞化石が発見されている。稲作の伝来は「弥生時代」という説が覆される日も遠くはない。ついでに「水田耕作」についていうと、佐賀県の「菜畑遺跡」、福岡県の「板付遺跡」(縄文晩期とも弥生初期とも中期ともいわれている。)から水田耕作跡が発見されている。

 最古といわれる佐賀県の「菜畑遺跡」の水田跡は、いまから約2,500〜2,600年前の縄文時代晩期後半のもので、当時の地形は海岸線が近く干潟が形成されていた。その干潟後背の海水の入り込まないゆるい谷間の中央部に幅1.5m〜2.0mの水路を掘ってあり、そしてその両側には土盛りがされて「畦」を形ってある。畦によって区画された水田は、10〜20平方メートルくらいの水田だといわれている。住居跡もあり、その端部は土止めの杭列も設けられていた。なお、出土物としては「農工具」に使われたと考えられる「石包丁」と、「扁平片刃石斧」。「木工具」としては「蛤刃石斧」が出土した。福岡県の「板付遺跡」もほぼ同様な遺跡である。

菜畑遺跡

 稲作の伝播を図にすれば概略次のようになるだろう。雲南高地から長江中流域、下流域で発展した「栽培イネ」はやがて列島に渡る。このル-トは確実なことはいえないが、おおよそ三つのル-トがある。一つは、台湾海峡を渡って現在の台湾に渡り、そして北上し南西諸島に上陸して、沖縄では『港川人』(1万8千年前の人骨)の子孫に恵みをもたらした。そしてさらに北上して九州南部に上陸した。二つには、長江流域から直接九州に渡った。三つには、長江流域から北上して山東半島から遼東半島に渡って現在の朝鮮半島北部に伝わり、そして南部に伝わった。また、一方ではさらに北上して現在の河北省、遼寧省を経由して朝鮮半島北部に伝わりそして南部に伝わった。朝鮮半島南部に伝播した「栽培イネ」はやがて列島の九州北部に渡わったというものだ。

稲作の伝来

稲作の伝来

 上記の図をみるまでもなく、列島の周囲には大海が横たわっている。対馬海峡でさえ「魏志倭人伝」に「倭人は帯方東南大海の中にあり」といい、「はじめて一海を度る。千余里。対海国に至る」ともいって、「大海」、「一海」としてその存在を著している。「大海を渡る困難」が伝わる部分である。しかし、現在の我々が考える以上に当時の船は脆くはない。鳥取県淀江町の「角田遺跡」は弥生中期に属する遺跡であるが、この遺跡から出土された土器に羽飾りをつけた人と船が描かれている。「水田の下から出てきた大きな壺の上半部で、太陽、4人の人が乗った舟、長いハシゴをもつやぐら風の建物、高床倉庫のようなもの、銅鐸(銅製のベル)がパノラマ風に描かれている」という。 左がその土器の全体写真。右が船の部分の拡大像である。引き伸ばしてあるので不明瞭であるが、雰囲気は伝わるだろう。

角田遺跡の発掘土器

発掘土器の拡大像

角田遺跡の発掘土器

発掘土器の拡大像

画像提供 : 米子市( 旧淀江町 )

 また、岐阜県の「荒尾南遺跡」から出土した弥生時代後期に属する土器には、やはり船が描かれている。この船は「準構造船」又は「構造船」ではないかといわれているほど大きな船である。画像が手に入らないのでご紹介できないのが残念だが、とにかく100人ほど乗れる船であろうとのことであるので想像を絶する。弥生時代後期に属する土器とあるので、「倭人伝」の卑弥呼・台与の時代にあたるか。ただ、この土器に描かれた船が倭人が造った船であるかどうかは不明である。倭人が造った船との証拠はいまのところはない。想像を逞しくすれば、大陸江南地方・長江流域で造られたものではないかと考えている。

 列島各地にいわゆる「縄文人」の存在をみてきた。これらの人々は考古学的には年代の測定によって区分される「原人」や「旧人」と呼ばれる時代を経て、そしてその「原人」「旧人」を祖先として、さらに進化して、生活のための住居・土器等々を発見・改良しながら、やがて「縄文人」と呼ばれる人々になった。解剖学・生態学的にはこれらの人々はもっぱら人骨の構造などにより、「縄文人」として分類されるのであろう。いずれにしても日本に渡った人々は「縄文人」と呼ばれる人類に進化したのである。 

原始から旧石器の時代に渡来してきた人々
原始から旧石器の時代に渡来してきた人々
縄文時代に渡来してきた人々
縄文時代に渡来してきた人々

 やがて、時代は大きく変化して、それまでの狩猟・漁労・採取を主とした生活様式から、稲作を中心とした生産性をもった定住生活へと変わった。定住生活は人々にこれまでになかった文化を生み、『大陸』(現在の中国をいう)や『半島』(現在の朝鮮半島をいう)から異文化の流入も手伝って、土器は金属器へと変わり、金属器は青銅器から鉄器へと変わった。農具は金属に変わることによって生産性をさらに高めた。

 生産性を高めた「定住生活」は人口の増加をもたらして、その生活域を拡張するに至る。それは他の部族の生活域を侵すことになり、結果的には他の部族への略奪・侵略へとつながった。人々はやがて武器を持ち、生活している地域の防御のための工夫(環壕集落)を凝らすことになる。皮肉なことに、紛争は民族・部族の纏まりを促し、そこに中心的な指導者を生み、人々を呪縛する原始的な信仰を生んだ。「弥生時代」の到来である。

佐賀県神埼郡の「吉野ヶ里遺跡」の環壕 神奈川県横浜市都筑区中川の「大塚遺跡」の環壕
佐賀県神埼郡の「吉野ヶ里遺跡」の環壕 神奈川県横浜市都筑区中川の「大塚遺跡」の環壕

 寺沢薫氏はその著書「王権の誕生」で、『最古の環壕集落は、内蒙古自治区に集中する。例えば、赤峰市興隆窪(こうりゅうわ)遺跡は、183×166メートルの楕円形の環壕集落で、韓国や弥生時代の初期環壕集落を見るようだ。しかし、年代は紀元前6200年〜紀元前5400年、日本では縄文時代の早期だ。ここから南下して黄河を遡ると、有名な仰木韶(ぎょうしょう)文化の西安市半坡(はんば)遺跡だ。幅、深さとも5〜6メートルにも達する断面V字形の環壕が、長軸200メートルの楕円形をなして、住居や貯蔵穴、家畜小屋、土器窯などを囲っている。東南の隅がコの字状に突出しているから、吉野ヶ里遺跡のような望楼が建っていたのだろう。しかし、この壕は、実は外壕であり、中心部に内壕が存在し中には長方形の大型建物がある。弥生環壕集落の特別の集団を内側で囲むという二重構造も紀元前4500年のここまでたどれるのである。』といって弥生時代の環壕集落の伝播が相当古い時代まで遡れることを強調している。

 そして『東方へのルートには、夏家店下層文化期(紀元前2300年〜紀元前1600年)の赤峰市大甸子(だいでんし)遺跡がある。350×200メートルの楕円形で、弥生時代の環壕集落に規模、時期ともに近づく。内蒙古に発し、円熟した黄河流域の新石器時代中期社会で整備された環壕集落の構造は、再び東へと伝わり、朝鮮半島を経て、列島の弥生時代に見事に再現されている。』ともいっている。新石器時代中期は日本では「縄文時代中期」にあたる。

 集落の構造は「環濠」と「環壕」とがあるが、濠は水をたたえたもの、壕はいわゆる空堀というものだ。空壕を巡らした「環壕集落」は、そのルーツは上記のごとく内蒙古自治区にみることができるが、水をたたえた「環濠集落」は地域的な特性から長江下流域を起源とするものであろう。また、黄河流域でも空堀が水溝に発展したとみることができよう。

 従来、弥生時代は「イネの伝来」により幕を開けるとよくいわれていたが、最近では教科書・歴史参考書でも「弥生時代はイネの伝来により幕を開ける」と必ずしも云ってはいない。上記で見てきたように、イネの伝来もプラントオパール遺伝子分析などで時代はかなり遡ることが判ってきた。また、発掘土器等、高床式建物、環濠集落なども年代測定技術の飛躍的発達により時代はかなり遡ることが判ってきた。

 「弥生時代」という名称は、1884年(明治17年)に東京都文京区弥生町にあった貝塚から「壷形土器」を有坂昭蔵、坪井正五郎らが発見したことに始まる。少し話がそれるが、「弥生時代」という時代区分に、列島に住んでいる人々を「縄文人」や「弥生人」というふうに区分して説明する書物があるがおかしい話である。それも主として渡来系の人々を弥生人といったり、列島先住民のことを縄文人といったりしている。「弥生時代」に列島に住む人々は、しいて言えば皆「弥生人」である。辞書を引いても渡来系の人々を「弥生人」と言っているものは知る限りでは、ない。「弥生人」という言い方を敢えてするならば、「弥生時代に列島に住む人々」という意味に理解すべきである。 

まとめ


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