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3 流亡の民の時代 (1) テン王国と倭族
「栽培イネ」の発展はその後の衣食住の有様に変化をもたらす。採取されたイネを保存するために湿地帯がある土地に適した「高床式倉庫」が考案されて、やがて住まいの文化・食の文化と発展していったと考えていい。「元謀原人」の子孫が、「栽培イネ」と「高床式の住居」という住まいの文化・食の文化を携えて、大陸の各地へ散らばったと考えているが、その移住の中心は、荷の移動に便利な舟を利用できる長江流域が中心であろう。長江中・下流域の遺跡から約6000年前の水田跡が発見されている。その水田跡では、水田と水田を区分する「あぜ」で仕切られ、灌漑用の施設らしきものも発見されている。
上記図は、テン池、元謀原人遺跡、テン王墓の概略図。多少の誤差はお許し下さい。 安田喜憲氏は、「日本海学講座」で、『雲南省にいる越人のことを何というかというと、雲南省にいる越人というのは、テン王国ですから、テン越という。つまり、かつて揚子江流域には、羽根飾りの帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々がいた。そういう人々が越人なのです。その越人は、浙江省から実は鳥取県の淀江だけではなくて、越前、越後の国........この越前、越後の国の越は、まさにこれです。...........つまり越人の越が越前、越後です。それはどこから来たかというと、おそらくこういう揚子江流域の人々が、羽根飾りを付けて船に乗って、そして新しい文化を持ってやってきた。 @戦国時代 テン王国はまた、いわゆるシルクロードの西南の道にある重要な場所で、色々な地域から多くの商人や異民族がここに集まり、商業や交易が行われた。その繁栄の様子が昆明の南、江川県「李家山遺跡」から出土したテン王国の青銅器に詳しく描かれている。ついでながら上記図の蜀・巴は、テン王国と同じ習俗を持つ鳥越憲三郎氏のいう「倭族」に属する国だ。 ただ、祭祀の際には、牛や羊などの供物だけでなく、稲作儀礼として女性(男性もあったのではないかと考えられるが、定かではない。)の首を落とし、供物としたという説もある。生贄ということであろうか。犠牲になった人は「農耕神としての蛇」に化身すると信じられていた。男根信仰と蛇信仰そして牛や羊などの供物を用いた祭祀は、北方系の黄河文化と比べて極めて異質なもので、中国は単一民族ではなく多民族国家であることの証左である。 A前漢時代 その金印は、1784年(天明4年)に北九州博多湾の志賀島で甚兵衛という農夫が偶然に発見した「漢委奴国王」と同じ『蛇紐』であった。テン王国が授かった金印は、1955年から行われた「石賽山遺跡」の発掘調査によって六号墓から発見されている。「史記西南夷列伝」に記載された内容が正しいものと確認された。それにしても、倭国の「倭」という名称もひどいが、インドが「身毒」とは気の毒だ。 B後漢時代 テン王国が賜った金印は、1955年から行われた「石賽山遺跡」の発掘調査によって六号墓から発見されている。この「石賽山遺跡」六号墓の主は王であったと考えられるが、この時代のテン王国は、『王が死ぬと「金印」もあわせて埋葬される慣習があった』といわれている。このことを考えると、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印も同じように奴国王と共に埋葬されたと類推することができる。現在色々の説があるが、埋葬物と考えるのがもっとも妥当だと思う。ただ、発見された場所が志賀島なので、古代の志賀島周辺の地形などを考慮しなければならないと思う。
C三国時代 この頃の日本は、邪馬台国の時代にあたる。卑弥呼は239年大夫難升米らを魏朝第三代皇帝明帝曹叡 ( 曹叡=曹操の孫 ) の都洛陽に遣わし、天子に朝献することを求め、「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」などを賜り、また「銅鏡百枚等」を賜っている。そして248年頃に卑弥呼は死んだ。この時に下賜された「金印紫綬」が発見されれば、邪馬台国所在地問題は一挙に解決するだろう。 (2) 山海経の倭族 「山海経」(せんがいきょう)は、中国古代の「地理書」であるが、その内容は中国古代に関する神話 地理、歴史、民族、動物、植物、鉱物、医学、宗教など多岐にわたって書かれている。山海経の内容は「奇想天外」「荒唐無稽」などといわれてあまり信頼されていない。 さる東京世田谷美術館で開催された「1998.6.20三星堆−中国5000年の謎・驚異の仮面王国」と題して行われた展示会をみたわたしとしては、荒唐無稽どころか、古代中国四川省の......「蜀文化」と呼んでいいだろう........は、従来いわれてきた「蜀・巴は未開の蛮地」といういつの間にか植えつけられていた印象が、ことごとくひっくり返った瞬間であった。 1986年に三星堆遺跡から出土した遺物は、山海経の記述内容と極めて類似している。山海経の内容は広範囲のもので、ひとつひとつを対比して行くことは困難であるが、山海経に記述されたシャーマンと思われる西王母のことを取り上げれば、『山海経大荒西経』に「西海の南、流沙のほとり、赤水の後、黒水の前に大きな山あり、名は崑崙の丘。神あり、人面で虎身、文あり、尾あり、みな白し、ここに住む。丘のふもとに弱水の淵があり、これを環る。丘のかなたには炎火の山あり、物を投げればもえ上がる。人あり、勝を頭にのせ、虎の歯豹の尾をもち、穴に住む、名は西王母」とある。 三星堆遺跡から出土した巨大な青銅製の鳥や黄金杖の魚や鳧の紋様、及び陶器の魚の紋様、鳥頭像などはみな伝説中の王である魚鳧と関係があるのであろう。出土した遺物に山海経の記述内容と類似すると思われるものがあるのだが、画像を入手していなかったので残念ながら掲載できない。右の画像「三星堆出土青銅立人像」で推定してほしい。
ところで、『山海経海内東経』に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とある。比較的知られている記述だが、鉅燕とは大きい燕という意味で、蓋国は現在の山東省のほぼ中央にあった小さい国。燕と蓋国の位置関係からこの「海内東経」の部分は信頼が置けない。それはともかくここで注目したいのは、「倭の北に在り倭は燕に属す」の倭のことである。この倭は古日本人という意味での倭ではない。蜀人や巴人と同じく、元謀原人系の子孫、すなわち「倭族」であると考える。蜀・巴から長江を下り江南地域に入った倭族が、長い時間をかけながら北上して山東半島の中央あたりまで移動し「倭は燕に属す」と呼ばれる小国を形成したのだろう。 ただ、燕国は現在の北京市にほぼあたるが、そこでは1927年に北京市郊外で46万年前から23万年前のものといわれている北京原人が発見された。この北京原人の子孫は、実際のところはよく分かっていない。しかし、同様のことは元謀原人についてもいえるわけだが、いずれしても蒸発して消失するわけではないので、北京原人の子孫が山東省辺りに居てもおかしくはない。北京原人の子孫であるとすれば、わたしのいう「倭族」ではない。古代中国では、中原からみた周辺の蛮族を「倭」と呼んだ形跡があるので「倭族」と混同しないように注意しなければならない。 (3) 呉越同舟 上記のように「テン王国と倭族」・「山海経の倭族」までをみてきたが、ここでは、時代は遡って呉(三国時代の呉とは異なる)と越の消息を辿ってゆきたい。 ところで、後漢の王充の著した「論衡」に、「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢(鬯)を貢す。」、「周時、天下太平にして、越裳、白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」とある。この記述は倭人に関する現在知られている最も古い伝承である。この記述のなかの「越常と倭人」は、鳥越憲三郎氏によれば、「四川省の倭人である蜀の国(劉備の時代の蜀ではない)は薬草の暢を献上し、南方の越裳、つまり(南)越の国も白い雉を贈ってきたことを述べたものである。」(「古代中国と倭族」中公新書)として、列島の倭人でないことを明らかにしている。鳥越憲三郎氏は倭人を「倭族」という大きな概念として捉え、そして越と倭は同音で越人は列島に渡来した倭人と同源とみている。 周の成王は紀元前1100年頃の武王⇒成王と続く第二代の王である。周の武王は紀元前1550年頃に興った殷王(大乙)朝を1050年の頃に滅ぼし、成王の時に東方の反乱を平定して周王朝を確立した。第三代康王の時に最も栄えたが、その周の王朝確立の時に越人と蜀の倭人が祝いに来朝したというのが王充の著した「論衡」の記述であろう。 太伯・仲雍は、父が末弟の季歴を跡継ぎにすることを知って、身の危険を感じ、南方の荊蛮の地(周や越の統治の及ばない太湖北岸の現在の無ヨウ県と考えられている。)へ逃れ「呉の始祖」となったという。荊蛮の地(「荊」は楚の国をいい、「蛮」は僻地としての蔑称。)へはしった太伯は、自ら国号を「句呉(こうご)」と称した。荊蛮の民で彼に帰服したものが千余家あり、彼を立てて呉の太伯とした(「史記」呉太伯世家第一)。 魏略・晋書・梁書などに記載された倭人は「みずから呉の太伯のすえ」といったとあるが、問題はこの倭人が倭国すなわち「列島に住した倭人」のことをいうかどうかである。呉の太伯のすえであることはいいとしても、倭国に在住した倭人どうかは疑問の余地がある。ただ、「帯方より女(王)國に至るには万二千余里」という文言があるので、それとわかるのみである。もし万二千余里という距離の記述及び距離・方向に誤りがある場合には、「列島に住した倭人」の根拠がなくなる。どうにでも解釈できる曖昧な記述と批判されてもやむを得ないだろう。「会稽東冶の東にあるべし」という文言など到底倭国とは思えない記述である。会稽東冶の東にいたのは「東提人」であろう。(テイの漢字がないので当て字) 呉王夫差には、楚の平王に仕えていたが父・兄がその平王に殺されたので楚を出奔して呉王夫差に仕えた伍子胥(ごししょ)が軍師としており、一方、越王句践には宰相范蠡(はんれい)と種(しよう)が軍師として仕えていた。ここのくだりはまことに面白いところであるが、残念ながら主題ではないので先へ進みたい。なお、周の文王には太公望呂尚(たいこうぼうりようしょう)という軍師がいた。太公望呂尚はその功労が認められて後に斉の国を建国する。また「孫子の兵法」の作者として知られる孫武(そんぶ)は、斉の人だが、伍子胥に見出されて呉王闔廬に仕えた。
越王句践は紀元前473年に呉王夫差を滅ぼした。そしてさらに北上して山東半島の付け根の琅邪山に都を移し、紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるまで越の都となった。越王句践が琅邪に都を移したのは、呉人を琅邪に追って来た結果であって、最初から意識して都したものではないだろう。ここから朝鮮半島や日本列島に渡ることは航海が上手な越人にとっては、それほどの困難ではなかったであろう。越は紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるが、この前後つまり、呉と越の戦いから越が呉を滅ぼし、楚が越を滅ぼした間に、多くの民が流民となって各地へ渡っていった。 越王句践に敗れた呉人は、越に南から追われるようにして北上し、山東半島から朝鮮半島中北部に渡ったもの、また、長江河口から海に漕ぎ出し倭の九州西部に上陸したものなどが考えられる。ただ、北上して陸伝いに半島に行くことは、燕に阻まれるし、また燕を運良く通過できても、北に扶余がいたので、陸伝いに半島へ行くことは不可能であった。さらに燕に住み付いた呉人も考えられる。
これら呉人・越人は「栽培イネ」と「高床式の住居」という住まいの文化・食の文化を携えて列島に渡ったとみる。呉人・越人は鳥越憲三郎氏のいう「倭族」であり、もともとは江南地方沿岸に住んでいた、断髪・文身(いれずみ)の「倭族」に共通した習俗をもつ長江文明を享受した民であった。黄河文明をもつ大陸中原の民族からみると異質な民族と見えたに違いない。 (4) 南船北馬 楚(? - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在した王国。中国南方で強大な勢力を持った国。現在の湖北省、湖南省がほぼその地域にあたる。首都は郢(エイ)といわれている。史記によれば、楚は古の五帝の一人テイセンギョクの子孫となっている。もちろん伝説であって史実ではない。陳舜臣氏はその著書「中国の歴史」(講談社文庫)で、楚の祖先は、おそらく三苗(苗族)だろうといっている。三苗というのは、はっきりしていないが、苗(メオ)族にもいろんな部族がいるので三苗といったのだろうと陳舜臣氏は語っている。 楚は、周などの中原諸国からは蛮族として蔑まれたが、かれらは独自の長江文明を持っており、長江文明の流れを汲む民族であった。楚は、伝説の域を出ないが、陸終の第六子、季連の末裔が建てた国といわれている。何代か後の熊繹(ゆうえき)が中原の大国周の成王から子爵に封じられ楚蛮に領地を得て丹陽に住んだという。 楚は、熊渠(ゆうきよ)の時代に『我は蛮夷なり。中国のごうしに与らず』とうそぶき自ら王号を称えるようになったが、周に暴虐な脂、が立つと恐れて王号を廃止したという。春秋時代の熊通(ゆうとう)の時代に随(姫姓)をつてに周に爵位を上げて貰う事を要求したが、周の桓王に断られたために熊通は再び王を名乗り、楚の武王となる(紀元前704年)。次の楚の文王のときに郢(エイ)に都を移した。楚は春秋時代の後期に鉄鋳造技術が発展して多くの鉄製品を作ったが、なかでも有名なのが龍淵・泰阿・工布の3本の名剣である。 荘王の時代に楚は、非常に強勢となって陳・鄭などを属国化し、晋の大軍をヒツで破り、春秋五覇の一人に数えられた。ちなみに五覇の第一号は斉の桓公である。楚が非常に強勢となった背景には、「我は蛮夷なり」であった楚が、「楚みずからのものを、ほとんどなげうって、中原の文化をとりいれ、自己改造したのではないでしょうか」と陳舜臣氏は語っている。 楚の平王の時代、伍子胥(ごししょ)の父伍奢と兄伍尚が平王に殺された。伍子胥は楚を出奔して呉王夫差に仕えたことはすでに述べた。呉軍の侵攻により首都の郢(エイ)は陥落したが、楚の平王はすでに死んでおり、伍子胥は平王の墓を暴き、平王の遺骸に鞭打ったという。一方楚は、この結果一時的に存亡の危機を迎えたが、山中に避難していた申包胥(しんほうしよ)の必死の懇願により秦の哀王が根負けした形で軍を動かし、楚の昭王が首都の郢(エイ)に帰還する事が出来た。その後楚は都を移したが、今度は越王句践に率いられた越軍が侵攻してきた。
陳舜臣氏は語る、「文化の伝播や交流という面でも、海の道はきわめて重要であったはずです。その道の開拓者は、越をおいてほかにはいないでしょう。...........沿海の国が覇者になったのは、海の民の意気が、異常に高揚したとみるべきでしょう。文身断髪の越の人たちは、精神的にも躍動するものをもったはずです。舟をより遠くへやる意欲がうまれたとみていいのです。.........日本に稲作が伝わったのは越族が高揚した時期に相当しているのです」と。(「中国の歴史」講談社文庫) その後楚は再び盛り返して、すでにみたように紀元前334年の頃に越を滅ぼすことになる。 楚の懐王の時代に、次第に強国となってきた秦に対しどう当たるかで論争となり、親秦派と親斉派に家臣は二分したという。親斉派の筆頭は屈原であり、懐王に対し秦は信用ならないことを言を極めて諭したが、親秦派の後ろにいた秦の宰相張儀の謀略により屈原は失脚して失意のうちに都を去った。楚の懐王は屈原の反対にもかかわらず、会盟のために秦に赴き、秦の宰相張儀の謀略にあい謎の死を遂げてしまう。しかも秦軍に大敗した。楚は、紀元前278年に秦の白起により首都を陥とされ、項燕将軍の活躍で秦に対して抵抗したが、項燕将軍の奮闘の甲斐もなく、秦の王翦将軍に破れ、紀元前223年頃に楚王負芻は秦に捕えられ、楚は滅びた。秦の始皇帝の時代であった。
古く呉越と並んで長江流域に土着した荊楚は、越国を滅ぼして、長江中下流域を支配する強大な国家になったことはすでにみたが、しかし、この楚も紀元前223年頃に秦との覇権争奪に破れ秦に統合された。このとき楚人は秦に組み入れられたか、荊蛮の地を去り、長江を下って、大海原へと船出したかも知れない。わたしは、歴史とくに古代について考えるとき、できるだけロマン的なものは排除して考えることが多いけれども、この蛮夷と呼ばれた中国南部にあった呉・越・楚を考えるときは、例外的に感慨深いものがある。それはたぶん、未開の地・蛮夷などと呼ばれた長江流域にあった国々が、じつは非常に高度な思想・技術・伝統をもった国々であったことを知る驚きであるのかも知れない。 企画/制作 歴史ネットワ-ク 鈴木 稔 |
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