倭人の起原2

Top頁 | 前頁 | 次頁


3 流亡の民の時代 


(1)  テン王国と倭族

  かって中尾佐助氏・佐々木高明氏が提唱した「照葉樹林文化」と名づけた文化が、大陸長江の雲南地方にあった。その雲南省の古都昆明の近傍に「テン池」(湖面の海抜は1886.5m、湖面の面積は198ku、湖岸線の長さは163.2km、湖水の深さは平均5.5m、貯水量は13億m3という)という湖があり、その近くに紀元前400年から後200年の間にテン王国なるものがあった。このテン王国はまだよく分かっていないが、近くの元謀県で発見された「元謀原人」は170万年前の中国最古のものといわれ、後のテン王国に繋がるものであろう。この170万年前という年代についてはにわかに信じられるものではないが、ただ雲南省にあった「元謀原人」の遺跡は中国古代を知る上で欠くことができないものといえるだろう。

テン王国と倭族地図

  あくまでも仮説であるが、「テン池」の周辺に自生していたイネを改良して、「栽培イネ」を作ったのがこの「元謀原人」の子孫ではなかったかと考えている。この「テン池」の周辺には大小さまざまな湖沼があり、高地ではあるが水稲に適した土地であった。気候は亜熱帯でなく比較的温暖な気候で、雨量は年間を通じて豊富であった。湖沼の周辺に多くの湿原があり、建物は竪穴式ではなく高床式であった。鳥越憲三郎氏のいう「高床式の住居」の起源となったのだろう。

 「栽培イネ」の発展はその後の衣食住の有様に変化をもたらす。採取されたイネを保存するために湿地帯がある土地に適した「高床式倉庫」が考案されて、やがて住まいの文化・食の文化と発展していったと考えていい。「元謀原人」の子孫が、「栽培イネ」と「高床式の住居」という住まいの文化・食の文化を携えて、大陸の各地へ散らばったと考えているが、その移住の中心は、荷の移動に便利な舟を利用できる長江流域が中心であろう。長江中・下流域の遺跡から約6000年前の水田跡が発見されている。その水田跡では、水田と水田を区分する「あぜ」で仕切られ、灌漑用の施設らしきものも発見されている。

テン池、元謀原人遺跡、テン王墓の概略図

上記図は、テン池、元謀原人遺跡、テン王墓の概略図。多少の誤差はお許し下さい。

  「元謀原人」の子孫とは断定できないが、テン王国そのものも、やはり稲作と漁労(テン池)の国であって、また女系中心社会といわれ、男根信仰と蛇信仰とを持った国であったという。日本の弥生社会に類似したところが多い。このテン王国そのものは紀元前400年頃から後200年頃という時代で戦国前期にあたり、秦帝国の滅亡の後に興った漢帝国から魏・蜀・呉の三国時代にかけて、北方漢族の南下により滅亡した。一説に災害・疫病に拠るともいわれている。この後テン王国の民は各地へ流亡者となって散ってゆく。 

  安田喜憲氏は、「日本海学講座」で、『雲南省にいる越人のことを何というかというと、雲南省にいる越人というのは、テン王国ですから、テン越という。つまり、かつて揚子江流域には、羽根飾りの帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々がいた。そういう人々が越人なのです。その越人は、浙江省から実は鳥取県の淀江だけではなくて、越前、越後の国........この越前、越後の国の越は、まさにこれです。...........つまり越人の越が越前、越後です。それはどこから来たかというと、おそらくこういう揚子江流域の人々が、羽根飾りを付けて船に乗って、そして新しい文化を持ってやってきた。

 それは3500年前に突然来たわけではないのです。この揚子江(長江)の下流域と日本海側との交流は、6000年前の鳥浜貝塚の時代にもあるわけです。6000年前の鳥浜貝塚と河姆渡遺跡の間には、深い交流があったのです。だからその海のルートというものは、6000年前にもう確立しているのです。それを当然受け継いで。その海のルートというものは、代々伝承されますから、3500年前にはもっと航海の技術も発展していますから、このルートを通って、この若狭や北陸地方と中国の揚子江の下流域には、深い文化的な交流があったのです。』といっている。少々長い引用で恐縮だが、お分かり戴けたであろうか。

 わたしは『170万年前の中国最古のものといわれる元謀原人の子孫はテン王国の倭族』ではないかと考えている。それは「羽根飾りの帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々」として越人・呉人に比定することができる。前章で述べた鳥取県淀江町で発掘された弥生中期に属する「角田遺跡」から出土された壺に描かれた図柄はこれらと酷似している。詳しく云えば、その上半部には、太陽、4人の人が乗った舟、長いハシゴをもつやぐら風の建物、高床倉庫のようなもの、銅鐸らしきものがパノラマ風に描かれているというものだ。日本の弥生文化ときわめて酷似するといわざるを得ない。 

@戦国時代

  戦国時代の楚の第35代威王熊商(紀元前287年の頃)のとき、楚はテンを攻めて属国にしたが、ソウキョウという将軍が、秦から派遣された司馬錯という将軍に楚の黔中郡を奪取され、退路を断たれた格好になってやむを得ずテンに戻り、テン王国の王になったという記事が「史記西南夷列伝」にみられる。史実性につていはどうであろう。

  テン王国はまた、いわゆるシルクロードの西南の道にある重要な場所で、色々な地域から多くの商人や異民族がここに集まり、商業や交易が行われた。その繁栄の様子が昆明の南、江川県「李家山遺跡」から出土したテン王国の青銅器に詳しく描かれている。ついでながら上記図の蜀・巴は、テン王国と同じ習俗を持つ鳥越憲三郎氏のいう「倭族」に属する国だ。

  テン王国の青銅器は、冶金鋳造技術の面でかなり高い水準に達していたといわれている。1972年に出土した「牛虎銅案」(長いテーブルみたいなもの)は、祭祀の際に牛や羊などの供物を載せる器具であるが、その「牛虎銅案」を作るための冶金鋳造技術、すなわち分鋳法と溶接技術が非常に優れたものであると評価されている。テン王国の人々の冶金鋳造技術の高さをかいまみることができよう。

  ただ、祭祀の際には、牛や羊などの供物だけでなく、稲作儀礼として女性(男性もあったのではないかと考えられるが、定かではない。)の首を落とし、供物としたという説もある。生贄ということであろうか。犠牲になった人は「農耕神としての蛇」に化身すると信じられていた。男根信仰と蛇信仰そして牛や羊などの供物を用いた祭祀は、北方系の黄河文化と比べて極めて異質なもので、中国は単一民族ではなく多民族国家であることの証左である。

A前漢時代

  前漢の第七代武帝のとき、南方の身毒国(インド)へ行く道を開拓するため、使者を派遣したが、ことごとく失敗に終わった。その原因が、インドへ行く通路上にある夜郎国とテン王国などの小国が障害となっていると知れ、武帝はこれらの国の討伐を命じた。夜郎国とテン王国は降伏して漢の版図に組み入れられた。そしてテン王国は漢の版図の益州郡に組み入れられたが、入貢して独立を認められ金印を授かった(紀元前109年)「史記西南夷列伝」。

  その金印は、1784年(天明4年)に北九州博多湾の志賀島で甚兵衛という農夫が偶然に発見した「漢委奴国王」と同じ『蛇紐』であった。テン王国が授かった金印は、1955年から行われた「石賽山遺跡」の発掘調査によって六号墓から発見されている。「史記西南夷列伝」に記載された内容が正しいものと確認された。それにしても、倭国の「倭」という名称もひどいが、インドが「身毒」とは気の毒だ。

B後漢時代

  後漢時代の初代光武帝のとき、テン地区のテン池・連然・建伶の民が反乱を起こして、3年もの間反乱が続いたという(42年)。倭の奴国が入貢(57年)する15年前のことである。この反乱は、郡・県の官吏の搾取が酷かったことに起因するという。テン地区は古より金銀銅鉄などの財物が豊富で、交易も盛んであったことから、土着の大姓と称される豪族が多く、テン地周辺に威勢を張っていた。また、中原からも辺鄙な蛮夷地域とみられていたので、争いごとが少なく独自の文化と経済の発展をみた。しかし、後漢の武威がテン地区にもおよぶようになり、郡・県に置かれた後漢の官吏が、テン地区が辺鄙な蛮夷地域であることをいいことに悪辣な搾取をしたので3年もの反乱に繋がった。

  テン王国が賜った金印は、1955年から行われた「石賽山遺跡」の発掘調査によって六号墓から発見されている。この「石賽山遺跡」六号墓の主は王であったと考えられるが、この時代のテン王国は、『王が死ぬと「金印」もあわせて埋葬される慣習があった』といわれている。このことを考えると、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印も同じように奴国王と共に埋葬されたと類推することができる。現在色々の説があるが、埋葬物と考えるのがもっとも妥当だと思う。ただ、発見された場所が志賀島なので、古代の志賀島周辺の地形などを考慮しなければならないと思う。

  57年に倭の奴(な)国が入貢して後漢の光武帝より授かった金印(「漢委奴国王」)については、「後漢書」東夷伝に、後漢光武帝の 『建武中元二年( 西暦57年 )に、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす』とあり、中国の史書「後漢書」東夷伝に記載され、そして上記で述べたように志賀島で実物が発見されているので、相互に正しいことが補完され証明されている。 

漢委奴国王模造印

漢委奴国王印(模造)

C三国時代

 魏・蜀・呉(下記に述べる呉とは異なる。)の三国時代に入ると、蜀を手に入れた前漢景帝の子中山靖王劉勝の子孫と称した劉備玄徳の宰相、諸葛亮孔明が225年に軍を発向し、軍を三軍にわけ各地の地方豪族を討伐した後、建寧で合流してテン地区に入りテン王国の都であるテン池を陥落させた。諸葛は紀元前400年頃から続いたテン王国を滅亡に導いた。この後テン王国の民は、在地に残るものも当然あっただろうが、蜀や呉の各地へ流亡者となって散って行ったと考えることができる。なお、蜀の英傑諸葛亮孔明は234年に没した。劉備や諸葛孔明は蜀に入ったが、蜀人や巴人ではない。仮説だが、蜀人や巴人は、元謀原人系の子孫、すなわち「倭族」であると考えている。

  この頃の日本は、邪馬台国の時代にあたる。卑弥呼は239年大夫難升米らを魏朝第三代皇帝明帝曹叡 ( 曹叡=曹操の孫 ) の都洛陽に遣わし、天子に朝献することを求め、「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」などを賜り、また「銅鏡百枚等」を賜っている。そして248年頃に卑弥呼は死んだ。この時に下賜された「金印紫綬」が発見されれば、邪馬台国所在地問題は一挙に解決するだろう。 

(2) 山海経の倭族

 「山海経」(せんがいきょう)は、中国古代の「地理書」であるが、その内容は中国古代に関する神話 地理、歴史、民族、動物、植物、鉱物、医学、宗教など多岐にわたって書かれている。山海経の内容は「奇想天外」「荒唐無稽」などといわれてあまり信頼されていない。

 さる東京世田谷美術館で開催された「1998.6.20三星堆−中国5000年の謎・驚異の仮面王国」と題して行われた展示会をみたわたしとしては、荒唐無稽どころか、古代中国四川省の......「蜀文化」と呼んでいいだろう........は、従来いわれてきた「蜀・巴は未開の蛮地」といういつの間にか植えつけられていた印象が、ことごとくひっくり返った瞬間であった。

 1986年に三星堆遺跡から出土した遺物は、山海経の記述内容と極めて類似している。山海経の内容は広範囲のもので、ひとつひとつを対比して行くことは困難であるが、山海経に記述されたシャーマンと思われる西王母のことを取り上げれば、『山海経大荒西経』に「西海の南、流沙のほとり、赤水の後、黒水の前に大きな山あり、名は崑崙の丘。神あり、人面で虎身、文あり、尾あり、みな白し、ここに住む。丘のふもとに弱水の淵があり、これを環る。丘のかなたには炎火の山あり、物を投げればもえ上がる。人あり、勝を頭にのせ、虎の歯豹の尾をもち、穴に住む、名は西王母」とある。

  三星堆遺跡から出土した巨大な青銅製の鳥や黄金杖の魚や鳧の紋様、及び陶器の魚の紋様、鳥頭像などはみな伝説中の王である魚鳧と関係があるのであろう。出土した遺物に山海経の記述内容と類似すると思われるものがあるのだが、画像を入手していなかったので残念ながら掲載できない。右の画像「三星堆出土青銅立人像で推定してほしい。

三星堆出土青銅仮面

三星堆出土青銅立人像
三星堆出土青銅仮面 三星堆出土青銅立人像

 東京世田谷美術館で開催された「三星堆」展のパンフレットより

 わが国の在り方を常に憂いておられる、評論家「加藤周一氏」はこの三星堆出土の遺物をみて「世界的な美術史の枠組みのなかで三星堆の仮面群、すなわち彫刻群を眺めれば、その様式は他に例をみない独特のものである。」と云っている。

 ところで、『山海経海内東経』に、蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とある。比較的知られている記述だが、鉅燕とは大きい燕という意味で、蓋国は現在の山東省のほぼ中央にあった小さい国。燕と蓋国の位置関係からこの「海内東経」の部分は信頼が置けない。それはともかくここで注目したいのは、「倭の北に在り倭は燕に属す」の倭のことである。この倭は古日本人という意味での倭ではない。蜀人や巴人と同じく、元謀原人系の子孫、すなわち「倭族」であると考える。蜀・巴から長江を下り江南地域に入った倭族が、長い時間をかけながら北上して山東半島の中央あたりまで移動し「倭は燕に属す」と呼ばれる小国を形成したのだろう。

 ただ、燕国は現在の北京市にほぼあたるが、そこでは1927年に北京市郊外で46万年前から23万年前のものといわれている北京原人が発見された。この北京原人の子孫は、実際のところはよく分かっていない。しかし、同様のことは元謀原人についてもいえるわけだが、いずれしても蒸発して消失するわけではないので、北京原人の子孫が山東省辺りに居てもおかしくはない。北京原人の子孫であるとすれば、わたしのいう「倭族」ではない。古代中国では、中原からみた周辺の蛮族を「倭」と呼んだ形跡があるので「倭族」と混同しないように注意しなければならない。 

(3) 呉越同舟

 上記のように「テン王国と倭族」・「山海経の倭族」までをみてきたが、ここでは、時代は遡って呉(三国時代の呉とは異なる)と越の消息を辿ってゆきたい。

 ところで、後漢の王充の著した「論衡」に、「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢(鬯)を貢す。」、「周時、天下太平にして、越裳、白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」とある。この記述は倭人に関する現在知られている最も古い伝承である。この記述のなかの「越常倭人」は、鳥越憲三郎氏によれば、「四川省の倭人である蜀の国(劉備の時代の蜀ではない)は薬草の暢を献上し、南方の越裳、つまり(南)越の国も白い雉を贈ってきたことを述べたものである。」(「古代中国と倭族」中公新書)として、列島の倭人でないことを明らかにしている。鳥越憲三郎氏は倭人を「倭族」という大きな概念として捉え、そして越と倭は同音で越人は列島に渡来した倭人と同源とみている。

 周の成王は紀元前1100年頃の武王⇒成王と続く第二代の王である。周の武王は紀元前1550年頃に興った殷王(大乙)朝を1050年の頃に滅ぼし、成王の時に東方の反乱を平定して周王朝を確立した。第三代康王の時に最も栄えたが、その周の王朝確立の時に越人との倭人が祝いに来朝したというのが王充の著した「論衡」の記述であろう。

  周の古公亶父(ここうたんぼ)は周の建国の父であるが、彼には太伯・仲雍・季歴という三人の子があった。このうちの末子の季歴が跡継ぎとなり、季歴が卒するとその季歴の子の昌が立った。後の西伯文王である。文王のあと武王(周王朝第一代)が立った(「史記」周本紀第四)。

 太伯・仲雍は、父が末弟の季歴を跡継ぎにすることを知って、身の危険を感じ、南方の荊蛮の地(周や越の統治の及ばない太湖北岸の現在の無ヨウ県と考えられている。)へ逃れ「呉の始祖」となったという。荊蛮の地(「荊」は楚の国をいい、「蛮」は僻地としての蔑称。)へはしった太伯は、自ら国号を「句呉(こうご)」と称した。荊蛮の民で彼に帰服したものが千余家あり、彼を立てて呉の太伯とした(「史記」呉太伯世家第一)。

  この呉の太伯については、魏志倭人伝に「男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国にいたるや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。 今倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし。」とあり、さらに魏略に「帯方より女(王)國に至るには万二千余里。その俗、男子は皆、黥而(面)文(身)す。その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという。昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。」とある。

  魏略・晋書・梁書などに記載された倭人は「みずから呉の太伯のすえ」といったとあるが、問題はこの倭人が倭国すなわち「列島に住した倭人」のことをいうかどうかである。呉の太伯のすえであることはいいとしても、倭国に在住した倭人どうかは疑問の余地がある。ただ、「帯方より女(王)國に至るには万二千余里」という文言があるので、それとわかるのみである。もし万二千余里という距離の記述及び距離・方向に誤りがある場合には、「列島に住した倭人」の根拠がなくなる。どうにでも解釈できる曖昧な記述と批判されてもやむを得ないだろう。「会稽東冶の東にあるべし」という文言など到底倭国とは思えない記述である。会稽東冶の東にいたのは「東提人」であろう。(テイの漢字がないので当て字)

  話は変わるが、現在の広島県呉市はむかし呉浦と呼んでいた。この呉浦はあまり注目されておらず、残念ながら呉浦の文献上での古代史はよくわからない。考古学上では、縄文時代のものといわれる呉市郷原町の「郷原遺跡」から、縄文前期〜後期の土器・打製石鏃(せきぞく)石匙(せきひ) スクレーパ・石錐などが出土しており、呉市広町芦冠の「芦冠遺跡」では、縄文後期〜晩期の土器・板状土偶などが出土している。 また、弥生時代のものといわれる呉市広町横路から弥生式土器破片が出土し、呉市栃原町では弥生式土器(壷)が出土している。多少の土器類が出土しているが、多分、大戦中の影響で大半が壊されてしまったのだろう。出雲や吉備にも近いし、戦争などなければもう少し状態のいい遺跡が発見されたに違いない。呉という名のゴロ合わせをするつもりはないが、もう少し資料が欲しいところだ。

  また、越については、その先祖は禹の後裔にして夏后の帝少康の庶子(無余)であった。会稽に封ぜられて、祖先の禹の祭祀を行い守った。身に入れ墨し、髪を切り、草の荒地を開いて、邑を作った。その後、二十余代で允常に至った。允常のとき、呉王闔廬(こうりょ)と戦い、たがいに恨んで伐ちあった。允常が没して子の句践(こうせん)が立って越王(越の始祖)となった(「史記」越王句践世家第十一)とある。このあと呉王は闔廬の子の夫差(ふさ)に代わる。呉と越の誕生話であるが、同時に「呉王夫差」と「越王句践」との戦の物語でもある。

  呉王夫差には、楚の平王に仕えていたが父・兄がその平王に殺されたので楚を出奔して呉王夫差に仕えた伍子胥(ごししょ)が軍師としており、一方、越王句践には宰相范蠡(はんれい)と種(しよう)が軍師として仕えていた。ここのくだりはまことに面白いところであるが、残念ながら主題ではないので先へ進みたい。なお、周の文王には太公望呂尚(たいこうぼうりようしょう)という軍師がいた。太公望呂尚はその功労が認められて後に斉の国を建国する。また「孫子の兵法」の作者として知られる孫武(そんぶ)は、斉の人だが、伍子胥に見出されて呉王闔廬に仕えた。

呉人(倭族)の渡海

  越王句践は紀元前473年に呉王夫差を滅ぼした。そしてさらに北上して山東半島の付け根の琅邪山に都を移し、紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるまで越の都となった。越王句践が琅邪に都を移したのは、呉人を琅邪に追って来た結果であって、最初から意識して都したものではないだろう。ここから朝鮮半島や日本列島に渡ることは航海が上手な越人にとっては、それほどの困難ではなかったであろう。越は紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるが、この前後つまり、呉と越の戦いから越が呉を滅ぼし、楚が越を滅ぼした間に、多くの民が流民となって各地へ渡っていった。

  越王句践に敗れた呉人は、越に南から追われるようにして北上し、山東半島から朝鮮半島中北部に渡ったもの、また、長江河口から海に漕ぎ出し倭の九州西部に上陸したものなどが考えられる。ただ、北上して陸伝いに半島に行くことは、燕に阻まれるし、また燕を運良く通過できても、北に扶余がいたので、陸伝いに半島へ行くことは不可能であった。さらに燕に住み付いた呉人も考えられる。

越人の渡海図

  これら呉人・越人は「栽培イネ」と「高床式の住居」という住まいの文化・食の文化を携えて列島に渡ったとみる。呉人・越人は鳥越憲三郎氏のいう「倭族」であり、もともとは江南地方沿岸に住んでいた、断髪・文身(いれずみ)の「倭族」に共通した習俗をもつ長江文明を享受した民であった。黄河文明をもつ大陸中原の民族からみると異質な民族と見えたに違いない。

(4) 南船北馬

 楚(? - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在した王国。中国南方で強大な勢力を持った国。現在の湖北省、湖南省がほぼその地域にあたる。首都は郢(エイ)といわれている。史記によれば、楚は古の五帝の一人テイセンギョクの子孫となっている。もちろん伝説であって史実ではない。陳舜臣氏はその著書「中国の歴史」(講談社文庫)で、楚の祖先は、おそらく三苗(苗族)だろうといっている。三苗というのは、はっきりしていないが、苗(メオ)族にもいろんな部族がいるので三苗といったのだろうと陳舜臣氏は語っている。

 楚は、周などの中原諸国からは蛮族として蔑まれたが、かれらは独自の長江文明を持っており、長江文明の流れを汲む民族であった。楚は、伝説の域を出ないが、陸終の第六子、季連の末裔が建てた国といわれている。何代か後の熊繹(ゆうえき)が中原の大国周の成王から子爵に封じられ楚蛮に領地を得て丹陽に住んだという。

 楚は、熊渠(ゆうきよ)の時代に『我は蛮夷なり。中国のごうしに与らず』とうそぶき自ら王号を称えるようになったが、周に暴虐な脂、が立つと恐れて王号を廃止したという。春秋時代の熊通(ゆうとう)の時代に随(姫姓)をつてに周に爵位を上げて貰う事を要求したが、周の桓王に断られたために熊通は再び王を名乗り、楚の武王となる(紀元前704年)。次の楚の文王のときに郢(エイ)に都を移した。楚は春秋時代の後期に鉄鋳造技術が発展して多くの鉄製品を作ったが、なかでも有名なのが龍淵・泰阿・工布の3本の名剣である。 

 荘王の時代に楚は、非常に強勢となって陳・鄭などを属国化し、晋の大軍をヒツで破り、春秋五覇の一人に数えられた。ちなみに五覇の第一号は斉の桓公である。楚が非常に強勢となった背景には、「我は蛮夷なり」であった楚が、「楚みずからのものを、ほとんどなげうって、中原の文化をとりいれ、自己改造したのではないでしょうか」と陳舜臣氏は語っている。

 楚の平王の時代、伍子胥(ごししょ)の父伍奢と兄伍尚が平王に殺された。伍子胥は楚を出奔して呉王夫差に仕えたことはすでに述べた。呉軍の侵攻により首都の郢(エイ)は陥落したが、楚の平王はすでに死んでおり、伍子胥は平王の墓を暴き、平王の遺骸に鞭打ったという。一方楚は、この結果一時的に存亡の危機を迎えたが、山中に避難していた申包胥(しんほうしよ)の必死の懇願により秦の哀王が根負けした形で軍を動かし、楚の昭王が首都の郢(エイ)に帰還する事が出来た。その後楚は都を移したが、今度は越王句践に率いられた越軍が侵攻してきた。

春秋時代勢力概略図

春秋時代勢力概略図。多少の誤差はお許し下さい。

 陳舜臣氏は語る、「文化の伝播や交流という面でも、海の道はきわめて重要であったはずです。その道の開拓者は、越をおいてほかにはいないでしょう。...........沿海の国が覇者になったのは、海の民の意気が、異常に高揚したとみるべきでしょう。文身断髪の越の人たちは、精神的にも躍動するものをもったはずです。舟をより遠くへやる意欲がうまれたとみていいのです。.........日本に稲作が伝わったのは越族が高揚した時期に相当しているのです」と。(「中国の歴史」講談社文庫) その後楚は再び盛り返して、すでにみたように紀元前334年の頃に越を滅ぼすことになる。

 楚の懐王の時代に、次第に強国となってきた秦に対しどう当たるかで論争となり、親秦派と親斉派に家臣は二分したという。親斉派の筆頭は屈原であり、懐王に対し秦は信用ならないことを言を極めて諭したが、親秦派の後ろにいた秦の宰相張儀の謀略により屈原は失脚して失意のうちに都を去った。楚の懐王は屈原の反対にもかかわらず、会盟のために秦に赴き、秦の宰相張儀の謀略にあい謎の死を遂げてしまう。しかも秦軍に大敗した。楚は、紀元前278年に秦の白起により首都を陥とされ、項燕将軍の活躍で秦に対して抵抗したが、項燕将軍の奮闘の甲斐もなく、秦の王翦将軍に破れ、紀元前223年頃に楚王負芻は秦に捕えられ、楚は滅びた。秦の始皇帝の時代であった。

【コラム】 屈原

  屈原(紀元前343年頃〜紀元前277年頃)は、名は平といい、原はあざな。 中国,戦国時代の楚の政治家で、詩人としても知られている。『楚辞』の代表的作家。楚王の一族といわれており、楚の懐王(在位紀元前329年〜紀元前299年)のもとで政治・外交にあたった。屈原は国を思う憂愁の情とをもって『離騒』を作ったといい、このため「憂国詩人」と呼ばれることもある。楚の懐王は屈原の反対にもかかわらず、会盟のために秦に赴き張儀の謀略にあい謎の死を遂げてしまう。しかも秦軍に大敗した。のち頃襄王が位を継いだ。屈原は秦との和に際し張儀を殺すように進言したのだが、入れられず失敗に終わってしまう。その後、讒言により頃襄王の不興をかい江南にながされ、屈原は哀しみのうちに汨羅(べきら)の川に身を投じたという。その死を悼んだ楚の人々は、屈原の遺体が魚に食べられないようちまきを作って川に投じたという。『史記伯夷列伝』

 古く呉越と並んで長江流域に土着した荊楚は、越国を滅ぼして、長江中下流域を支配する強大な国家になったことはすでにみたが、しかし、この楚も紀元前223年頃に秦との覇権争奪に破れ秦に統合された。このとき楚人は秦に組み入れられたか、荊蛮の地を去り、長江を下って、大海原へと船出したかも知れない。わたしは、歴史とくに古代について考えるとき、できるだけロマン的なものは排除して考えることが多いけれども、この蛮夷と呼ばれた中国南部にあった呉・越・楚を考えるときは、例外的に感慨深いものがある。それはたぶん、未開の地・蛮夷などと呼ばれた長江流域にあった国々が、じつは非常に高度な思想・技術・伝統をもった国々であったことを知る驚きであるのかも知れない。 


Top頁 | 前頁 | 次頁 | 参考文献

企画/制作  歴史ネットワ-ク 鈴木 稔