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| (6) 卑弥呼の死と壱与(台与)の登場 @ 親魏倭王卑弥呼 景初三年、西暦239年6月、卑弥呼は大夫難升米( ナシメ)らを魏朝第3代皇帝明帝 ( 曹叡=曹操の孫 ) の都洛陽に遣わし、天子に朝献することを求め、その年の12月に「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」などを賜り、また「銅鏡百枚等」を賜う。 この「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」下賜ったことは、卑弥呼は魏より冊封をこの年にはじめて受けたということである。57年の奴国王、107年の倭国王が後漢に朝貢して以来、実に130年振りの出来事である。この間倭国が大いに乱れて、188年に卑弥呼が女王として「共立」されて始めておさまった。この大乱のもたらしたものは、倭国という北九州を中心とする30余国といわれる「連合国家」を形成したことであろう。倭国大乱は「連合国家」を形成する起源となった。この「連合国家」を邪馬台国連合と仮称することにしよう。 西暦240年に、帯方郡太守の弓遵(キュウジュン)が、上記の「魏の詔書」、「金印紫綬」、「銅鏡百枚等」を倭国に送付したとあるが、実際は魏使梯儁(テイシュン)が「魏の詔書」、「銅鏡百枚等」、「親魏倭王」の金印を届けるため倭国にやってきた( 記録に残る始めての外交使節ということができる。)。これは、この時代の中国の政情が不安定であったためである。どうやら太守の弓遵は戦死したらしい。 この邪馬台国連合に対立する狗奴国が卑弥呼が都する女王国の南にあった。よく邪馬台国連合に対立する形式として「狗奴国連合」という言葉が使用されるが、狗奴国が連合国家であったかどうかは定かではない。相変わらず謎のままである。 A 卑弥呼の鏡 上記で述べたように、卑弥呼は西暦239年(景初三年)に魏朝第3代皇帝明帝より銅鏡100枚を下賜されているが、定説では日本各地から出土している500枚ほどの「三角縁神獣鏡」がこれに相当するのではないかと云われている。この「三角縁神獣鏡」を「威信財」とし、これを基礎に「邪馬台国=畿内大和説」の有力な根拠とされてきた。しかしながら、
との理由でこの「三角縁神獣鏡」は舶載鏡でなく、和製ではないかとの疑念が提起されている。承知のように「邪馬台国=畿内大和説」の根拠は「前方後円墳」の広がりとこの「三角縁神獣鏡」の分布状況により説明されるものであるから、この一角が上記の a)、b)でもろくも崩れ去るのである。 以前に卑弥呼の時代の畿内勢力について述べたが、この畿内勢力=わたしは先住天孫族の饒速日尊の勢力と思っているが=この勢力も瀬戸内海または日本海経由で銅鏡などを大陸・朝鮮半島から入手していたことも十分に考えられると思っている。 王仲殊氏は『三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作し たもの』(三角縁神獣鏡と邪馬台国 梓書院) としており、また、森浩一氏が『渡来した呉の鏡職人と弥生の青銅器製作の技術を伝えた人々と一緒に三角縁神獣鏡を作った』(日本神話の考古学-朝日新聞社)と云っておられるように、「三角縁神獣鏡」は、卑弥呼が西暦239年(景初三年)に魏朝第3代皇帝明帝より銅鏡100枚を下賜されたという鏡でなく和製なのであろう。 なお、邪馬台国=畿内大和説でこの銅鏡の畿内からの分布で説明する研究者として「小林行雄氏」、「高橋健自氏」らがいる。特に小林行雄氏の長年にわたる研究の業績は特筆すべきものがある。
西暦243年、女王卑弥呼、難升米、都市牛利らは全ての倭人国に金印紫綬、銀印青綬を示し、倭人国全体の大王権、宗主権を主張したが、狗奴国は女王国に従わず抗争する。女王卑弥呼は魏に液邪狗らを遣わしこの状況を報じた。遺使の液邪狗らは率善中郎将の印綬をもらう。そして、西暦245年に魏朝は、詔して倭の難升米に黄幢を下賜して、郡に付して仮授した。 西暦247年に、『女王卑弥呼、狗奴国の卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越らを遣わして帯方郡に 相攻撃する状を説く、魏帯方郡は張政らを倭に遣わして告諭す。また、「詔書」「黄幢」を難升米に拝仮し、「檄」を為りて之を告諭す。』とあり、 狗奴国と女王国の抗争が激化する。女王卑弥呼は魏に倭載斯烏越らを遣わしこの状況を説明した。一方魏朝は帯方郡の張政らを倭国に遣わし、さらに「詔書」「黄幢」を難升米に拝仮し、「檄」を作って女王卑弥呼に告諭した。 話は少し脇にそれるが、この「難升米」という人物についてだが、239年に始めて魏志倭人伝にその名が記されて以来、「詔書」「黄幢」などを難升米に拝仮したりしているけれどこの人物の実体が知れない。「難升米」を旧王国の伊都国王とする説もあるようだが、推理小説家松本清張氏の「卑弥呼暗殺説」が仮に真実だとすれば、案外この「難升米」が張政に告諭されて「以って死す」となったのかもしれない。もちろん仮定の話だが。 魏志倭人伝に曰く、『塞曹掾史張政等を遣わし、困って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為してこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。』 卑弥呼死す。西暦248年の頃のことだ。大いに塚を作り、その径(さしわたし)百余歩(約150メートル)である。殉死した者は奴婢百余人とある。 そして卑弥呼の死後、男王を立てたが国中がこれに服さず相誅殺する。その数は千余人。この為卑弥呼の宗女壱與(台与)年十三になる少女を立て王と為して、国中が遂に定まった。この後、新女王となった壱與は使者を遣わして張政らが帰るのを送らせたとある。もちろん新女王壱與(台与)は年13ということであるから、誰か補佐するものがいたのであろう。 今までに登場した倭の人物は、まず「率善中郎将」(武官の長)の『難升米』、「率善校尉」(護衛官)の『都市牛利』、『伊声耆』、『載斯鳥越』(注)、「率善中郎将」の『液邪狗』。そして忘れてはならない狗奴国の『卑弥弓呼』である。(注)載斯鳥越を「載斯」と「鳥越」するものがある。また「載斯」を官名とするものもあるが、定かではない。
C 卑弥呼の死を探る 魏志倭人伝に曰く、『塞曹掾史張政等を遣わし、困って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為してこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。』 さて、『卑弥呼の死を探る』などと大それたタイトルで書き始めたが、この先どうなるか、わたしにも判らない。問題はこの「卑弥呼以て死す」をどのように解釈するかがポイントになるだろう。この「以て死す」は、
というように分けられる。「卑弥呼以死」の『以』は、漢文の語法では『以・・死』の間に原因となる語がなければ「・・・をもって」と読まないとある。したがって、a) の張政らが女王国に来る前に死んだ、ということになる。 この説を支持している学者の一人明治学院大学教授「武光誠」氏がその著書「邪馬台国がみえてきた」(ちくま新書)で、井沢元彦氏に対する批判として「井沢説のような論法は、一般にはうけいれやすい」とし、さらに「氏のごまかしをみつけるためには魏志倭人伝に伝えられた卑弥呼の死の前夜の状況をみておく必要がある」とし、結論として「魏の仲裁」があって「それによって戦乱がおさまった」としている。したがって「卑弥呼殺し」はなかったとする。井沢氏を弁護するつもりはないが、井沢氏は「卑弥呼の死の前夜の状況」を実によく観察していると思う。氏の逆説の日本史『封印された倭の謎』を読んだ読者諸兄には、わたしの云っていることがお判り戴けるだろう。 井沢氏がごまかしたかどうかの詮議はともかく、武光誠氏は「邪馬台国がみえてきた」という本を出版しているが、その「あとがき」で次のように述べている。「しかし、私の立場では邪馬台国が大和か九州かといったことはたいした問題ではない」と。まるで最近の「小泉総理」のようだ。だとすれば「邪馬台国がみえてきた」なとどする大それたタイトルで本を発行するのはごまかしではないのか。ついでにいえば、氏は「東日流外三郡誌事件」(注)で、詳細は省くけれど簡単に騙されたうちの一人である。文献史学・考古学ともに他の学者・研究者に対する批判のみでは、唯一歩の前進もないのである。(注)「東日流外三郡誌事件」の出典は安本美典氏の「倭王卑弥呼と天照大御神」(勉誠出版) 話を元に戻そう。a) の張政らが女王国に来る前に死んだとする説で最もポピュラ-なものは、@ 狗奴国との「相攻撃する状」のときに死んだとするものである。つまり戦死である。次にあまり支持されていないが、A 巫女・祈祷者・シャ-マンとしての能力が衰えて自然死した。卑弥呼は年がすでに長大であったことは前に記した。これらはいずれも決定的な根拠がない。 * では、b) 張政らが女王国に来てから死んだ。という説を考えてみよう。この説では、以下のように大別できるだろう。AとBはまとめて、卑弥呼の巫女・祈祷者・シャ-マンとしての能力が衰え、狗奴国との戦争が不利な状況になり、指導者の交代が必要になったので殺した、ということができる。
わたしは、AとBをまとめた、「卑弥呼の巫女・祈祷者・シャ-マンとしての能力が衰え、狗奴国との戦争が不利な状況になり、指導者の交代が必要になったので殺した」と考える。@の巫女・祈祷者・シャ-マンとしての能力が衰えて自然死したは、卑弥呼の死の前後の状況をみると、まず考えられない。Cは後に宗女壱与(台与)が登場してくるので、狗奴国との戦争に負けたとは考えにくい。いずれにしても仮説・推測であることには間違いない。 「卑弥呼の巫女・祈祷者・シャ-マンとしての能力が衰え、狗奴国との戦争が不利な状況になり指導者の交代が必要になったので殺した」と考えるけれども、これをもって、松本清張氏や井沢元彦氏のいう「卑弥呼暗殺説」というかどうかであるが、わたしは「暗殺」とは思っていない。確かに「主殺し=暗殺」というイメ-ジはあるが、それよりも少し穏当な倭国の風習としての「持衰」と考える。 「持衰」(じさい)については、(5)の「邪馬台国の社会と習俗」ですでに述べてあるが、再掲すると、「渡海して中国に詣るときには、常に一人の『喪人の如く人』がおり、頭髪を梳らず、しらみを取ることもなく、衣服を洗わず、肉食をせず、婦人を近づけない。そして、海を渡ることが無事に成功した場合は、財物を与え、病気が流行ったり暴害に遭って不成功に終わった場合は、その『喪人の如く人』を殺す。」と。一種の生贄みたいなものといえる。 ただ、卑弥呼の場合はあくまでも女王であってこの「持衰」の対象となるものには当て嵌まらない。わたしが云いたいのは、当時の倭国にはこの「持衰」のような風習があったということを強調したいのである。とすれば、狗奴国との戦争が不利な状況になりつつある場合には、能力の衰えた卑弥呼に「天の岩屋戸」にお隠れになってもらった方がいいと周囲の神々が考えたとしてもおかしくはない。
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