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2 石山合戦
< 1570年(元亀元年)
元亀元年の春、足利将軍義昭の勝手な行動を阻止するため、信長は、五ヶ条の条書を義昭に送りつける。
そして、信長自身上洛し、将軍義昭に礼をするとともに禁裏に参内する。この時、徳川家康
(永禄9年に徳川姓を名乗ることを禁裏より許可される。)
をはじめとする近隣諸国に書状を送り、上洛することを命じたが、越前の朝倉義景はこの召し出しに応じなかった。4月19日信長は、禁裏に参内し「勅命」を得
(朝倉攻めに対するものではないが。)
いわゆる「官軍」となって翌20日、家康とともに出陣。しかし、信長の妹お市の方が嫁していた近江の浅井長政の叛意の報がもたらされる
に及んで28日に陣払いし帰京、
翌5月9日に岐阜に退陣する。もとより
これで納まる筈がない。6月28日織田・徳川連合軍が近江に出陣し、浅井・朝倉連合軍を近江の姉川において
これを打ち破る。 ( 姉川の戦い )
7月27日、例の、京を追われた三好三人衆と三好康長が管領家嫡流の細川六郎を盟主として
摂津の国野田・福島に出陣する。鈴木孫一らがこの三好勢に加わる。(「足利季世記」、「細川両家記」など)
また、浅井・朝倉の残党なども加わり、野田と福嶋に城を構えるとともに、中の島、天満の森に陣を敷いた。「足利季世記には、・・掘りを廻し、塀を付、矢蔵をあげ、河の浅き所には乱抗逆茂木引て楯篭る・・とある」。8月17日には、はやくも三好勢が河内古橋城をせめる。
織田信長は、これに応じ8月26日に将軍足利義昭を奉じて美濃・尾張・三河の軍勢を引きつれ摂津四天王寺に布陣する。
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これを機に、石山本願寺の法主顕如が
三好軍と通じ、各国の門徒に対し激をとばし、挙兵させ、9月12日に
同門徒が信長の陣を攻撃する。「石山の合戦」のはじまりである。
翌13日、14日の両日、本願寺勢は信長を激しく攻撃。18日には鈴木伊賀守らが信長の兵を中島で撃退し、20日には雑賀衆が出撃して信長の兵を滓上江(かすがえ)提に撃退する。この戦いで、信長勢の野村越中守定常が討ち死にして紀州雑賀者が銀百枚を貰ったと言う。(細川両家記)
われらが孫市は、本願寺方として鉄砲3000挺で信長を激しく攻めたことであろう。ちなみに両軍合わせての銃撃戦は、「信長公記によれば『御敵身方の鉄炮誠に日夜天地も響くばかり』であった」という。この戦いは、信長にとって最も苦渋に満ちたものとなったといえる。( 野田・福島の戦い )
ただし、一部の雑賀衆( 雑賀三組すなわち社家(宮)郷、中郷、南郷の三組は、「新義真言宗」根来寺の影響を強く受けていた。)、根来衆は、信長方についたとの説がある。まったく複雑にして怪奇であるが、この時代をよく表している。
なお、9月18日の鈴木伊賀守の中島での「鉄砲戦さ」は、25人に1人の小頭を付け、50人を1組として下知したといわれ、鉄砲戦さが組織的に行われていたことを物語っている。(
陰徳太平記 )
石山合戦が生じた原因は、通説では、信長が石山御坊のある寺地に新しい城を築くためその明渡しを要求したのが原因とされている。ただし、それを立証する確実な史料はない。
この機に乗じて、越前朝倉、近江浅井の両軍が本願寺と連携をとりつつ、近江の坂本に出陣。この地を守備していた織田の部将森可成を宇佐山城に攻めて討ち死にさせ ( 坂本・宇佐山の戦い) 、21日には山科、醍醐まで進出。この報を
22日に知った信長は、23日
三好衆、本願寺との戦いを切り上げて帰京する。
9月24日、信長は、浅井・朝倉両軍との戦いに挑むが、浅井・朝倉の両軍は決戦を避け比叡山に陣を張る。この結果、戦線は膠着し、将軍義昭の上意と天皇の綸旨が出されるに及んで12月14日に両軍は和睦するに至る。(志賀の陣) 信長がこの和睦を望み受け入れたのは、11月21日に
伊勢長島の一向一揆が、信長の弟
織田信興の居城小木城を攻め、信興が自殺し落城する事件あったからであるという。
< 1571年(元亀2年)
この年は、信長の本格的な石山御坊に対しての攻撃は無く、雑賀衆らの出番もなかった。信長は、非常に多忙をきわめ、浅井・朝倉や三好討伐も重要であったが、本願寺勢力
とりわけ伊勢長島の一向一揆をなんとしても攻略しなければならなかった。この前年に弟信興が殺されていることもあって、5月12日
信長みずから出陣しその軍勢5万という。しかし、この結果は信長の大敗に終わる。柴田勝家は負傷、美濃三人衆と呼ばれた氏家ト全が殿軍として戦い討ち死にという散々な結果となり、16日に兵をまとめて岐阜に逃げ帰る。( 第1回長島攻め )なお、
美濃三人衆とは、安藤守就、稲葉一鉄、氏家ト全
をいう。いずれも、旧 斎藤家の家臣である。
8月18日、体制を立て直した信長は、近江浅井長政の居城小谷城を攻め、9月12日に坂本に進軍しこれを攻撃。そして、歴史に名高い、また、多くの議論推論を巻き起こした延暦寺の焼き討ちを行った。この焼き討ちで、延暦寺の根本中堂、大講堂や里坊など余すことなくことごとく灰燼に帰した。その業火は京からも見られたという。(延暦寺の焼き討ち)
< 1572年(元亀3年)
将軍義昭の懇請もあって、10月3日甲斐の国武田信玄が甲府を出陣。その軍勢2万5千、石山本願寺や浅井・朝倉などの応援を受け遠江に入り、二俣城を抜き、家康の居城である浜松城に進出。12月22日三方ヶ原において戦うが、家康の大敗に終わる。(三方ヶ原の戦い。)
この年の雑賀衆は、石山御坊周辺の戦闘がなかったが、信長が4月に大兵力をもって上坂するとの噂がたち、本願寺から紀州門徒宛てに上坂の要請がなされた。5月には雑賀湊衆らが四国阿波に渡って「紫雲の乱」に参加している。この紫雲の乱の詳細はわからない。11月には、本願寺と織田信長との間で和解が成立する。
< 1573年(元亀4年、改元して天正元年)
将軍義昭と信長は、挙兵、和睦をくりかえしたが、信長が二条城をかこみ威圧、7月18日槙島城に逃れた義昭は、信長と再度和睦し京から追放される。ここについに、室町幕府は滅亡することになる。(室町幕府の滅亡) ついで、8月20日越前朝倉義景を攻撃し、義景は賢松寺に自殺。さらに、返す刀で近江の浅井長政を攻め、ついに
8月28日 長政は小谷城において自殺。
ここに信長は、長年の宿敵浅井・朝倉を滅ぼす。(
一乗谷の戦い )
なお、家康の居城である浜松城に進出し、三方ヶ原において戦った武田信玄は、4月12日に病死している。
9月24日信長は、再度伊勢長島に出陣。一向宗徒の篭る門徒末寺を攻め滅ぼす。( 第2回長島攻め ) 11月入京し妙覚寺に宿。
< 1574年(天正2年)
正月、越前に一向一揆が起き本願寺の支配下(
加賀の国と同じく「百姓の天下」? )
に、これにより越前朝倉氏滅亡する。秀吉これに応じ出陣。3月28日
信長は、3千もの人数で奈良に入り東大寺正倉院の名香「蘭奢待」を切り取る(
威勢を誇示? )。
4月2日、本願寺顕如再び石山本願寺に挙兵し、信長に対抗する。本願寺は下間頼廉らが、石山御坊の周辺に雑賀衆が一人もいないことで大騒ぎし、信長の来襲に備えて雑賀の衆の上坂を頼む。三好康長らもこれに応じ河内の高屋城に挙兵する。4月3日、信長は石山御坊に迫り陣を張る。この時はさしたる戦闘も起こらず信長は岐阜に戻る。
一時岐阜に戻った信長は、7月13日伊勢長島の一向一揆討伐のため再び出陣し、各拠点を制覇しつつ願証寺に迫る。7万の大軍という。9月29日、ついに一揆勢が和を願い降伏する。
2万人の焼死者が出たという。( 第3回長島攻め ) 九鬼嘉隆の水軍が活躍する。
京から追放された足利義昭は、その後本願寺や安芸の毛利氏へ挙兵の催促をするが、鈴木孫一宛てにも出兵要請がなされた。これに孫一が応じたため、10月6日に義昭の家臣真木嶋昭光からお礼の返書がしたためられた。(
真乗寺旧蔵文書 )
この返書の宛先が「鈴木孫一」になっていることに注目したい。1534年から数えて40歳前後の孫一である。まだ若い。
< 1575年(天正3年)
4月21日、武田勝頼が徳川家康の家中大須賀弥四郎の内通により出陣し、三河の国長篠城を攻める。家康家中の鳥居勝商(忠実な武将としてその武勇伝は、有名
)
の救援要請により、岡崎にいた信長はこれを応諾。翌5月21日、信長、家康は長篠城を攻めこれを打ち破る。( 長篠の戦い )
この戦いで、信玄以来の武将馬場信房、山県昌景らが戦死する。鉄砲の威力を存分に発揮した戦いであった。このとき信長は、よくいわれる「三段式装填法」を用いたが、一説によると、われらが孫市の率いる雑賀鉄砲衆の砲術を真似たものとされている。当然である?。
ただ、「馬防柵」と「三段式装填法による鉄砲」
の組み合わせは、信長の戦上手、天才振りをよくあらわしていると思う。なお、この時の信長の鉄砲衆は、近江の国友村(
元浅井家の領国 )の「国友鉄砲衆」と考えられている。鉄砲隊長は、佐々成政である。
8月信長は、越前、加賀の一揆を平定する。3万とも4万ともいわれる一揆勢が誅されたという。これらの一揆勢の潰滅に本願寺顕如は嘆き、8月22日に紀州の門徒らに「篭城する旨」を書き送っている。そして10月21日に顕如は信長に和睦を申し入れ、信長はこれを認める。11月4日、信長は、大納言・右大将の位を受ける。
< 1576年(天正4年)
2月23日、丹羽長秀の造営によるあの有名な 近江の国
「安土城」
の本丸が完成し、信長は同日ここに移る。この城は、「天下布武」の印とあわせて、信長の「天下統一」の強い意思が感じられる。
4月14日、本願寺顕如が、足利義昭、毛利輝元らと語らい再度、摂津の国石山本願寺に兵をあげ信長に対抗。明智光秀、荒木村重らがこれを攻撃する。そして信長自身出兵(
4月29日と思われる )するが、この時の信長勢の作戦は、木津砦と石山御坊の間の連絡を断ち、木津川河口を押さえることによって補給線を遮断し、大坂湾の制海権を確保しょうとするものであった。
この作戦は5月3日から行われたが、信長勢のなかの本願寺門徒によって事前に本願寺勢に漏れており、結局この作戦は失敗に終る。(
佐武伊賀働書 )
この後乱戦模様となるが孫一らの奮闘によつて信長勢は総崩れとなった。鈴木孫一らは信長の兵を三津寺に撃破して、信長勢の篭る四天王寺を包囲する(
佐久間軍記では、鈴木孫市の名)。
5月7日摂津の国四天王寺付近にて激戦となるが、この時の雑賀衆の激しい攻撃で信長は、足を負傷したという。真偽のほどは定かではないが、当然起こりうる可能性は大である。このとき、織田勢は雑賀孫市の首級を挙げた
(言継卿記) と振れまわる。
また、この前後に、雑賀から「馬上百駒、鉄砲千挺ばかりが加わった」とし、その鉄砲大将には「的場源四郎、さいかの孫市」らで、「然る故紀伊国勢中々強く御座候」と高い評価を受けている。(
真鍋真入斎書付 )
5月9日雑賀孫市の首級とされるものを京に曝すとあるが(言継卿記)、笑止なり。
6月6日に鈴木孫一らは、佐久間安政らと交戦している。6月28日、本願寺勢は、雑賀衆に毛利氏へ兵糧補給を依頼する。
この後、鈴木孫市は播州へ向う(毛利元就記)とあるが、孫一かどうかは定かではない。
7月13日、毛利輝元の命により、部将児玉就英(
「川の内衆」、毛利直属の水軍を言う )が、 村上武吉( 村上水軍 )
その他能島水軍、来島水軍らの来援を得て石山本願寺に兵糧を運びこむため、摂津木津川口に来襲。雑賀水軍(
雑賀には、鉄砲衆だけではなく、海賊衆もいた )の協力得て、信長の九鬼嘉隆を主力とする水軍と戦闘、これを撃破し、兵糧を運び込むことに成功する。( 第1次木津川口海戦 ) 毛利氏からの兵糧補給に鈴木孫市が出向える(芸候三家志)とある。11月5日本願寺は鈴木孫一らの上坂を求める。
この年に、織田信長朱印状(天正4年5月16日付)をみると、雑賀衆は内部対立して分裂するようすが窺える。
< 1577年(天正5年)
2月13日、信長は、紀伊の畠山貞政が雑賀衆、根来衆と呼応して挙兵したことを契機に、容易に落城しない石山本願寺の外堀を埋めるべく、嫡男信忠(
幼名奇妙、生母は生駒の方 ) と共に、紀州雑賀に出陣する。
この前の年に内部分裂していた 雑賀衆のうち、雑賀三組(
中郷、社家郷、南郷 )と紀州根来寺の杉の坊の手引きで進軍。2月16日信長の先陣が泉州貝塚に至り、泉州貝塚に陣を構えて
いた雑賀衆は撤退する。2月22日信長の兵は、孝子峠を突破して中野城に到達し、雑賀衆の牙城中野城を2月28日に攻め落とす。3月1日信長の兵が鈴木孫一の居城を包囲する。
3月15日孫市 ( 鈴木孫一 )
ら雑賀衆は信長に誓紙を入れ降参 ( 「紀州雑賀の陣」と作者が勝手に命名する。
) する。3月21日織田信長は雑賀より撤兵する。このころから、親信長派の雑賀衆との間で激しい対立抗争が起こる。
8月16日鈴木孫一らは、親信長派の雑賀衆と交戦し、名高浦に破り日方城を陥れる。(日方記によると雑賀孫市義方とある)
10月11日再び本願寺勢より雑賀衆の上坂を求められる。
信忠を守将として中野城を守らせ周囲を征討するが完全に平定できず、出陣した兵が15万
とも伝えられるが、雑賀は容易に平定できない。雑賀衆の粘り強さといえばそのとおりだが、それだけではないような気がする。
3月21日信長は、安土に帰る。( 安土に楽座を設ける )10月10日、例の、松永久秀親子(
まだ生きていた )が、織田信忠の攻撃を信貴山城に受け自殺する。10月23日、羽柴秀吉中国攻めのため京を出陣する。
< 1578年(天正6年 )
この年の正月、織田信長は摂津の国石山本願寺攻めを布告。3月15日全軍出動の命下る。
4月4日織田信忠、石山本願寺を攻撃。雑賀衆をはじめとする本願寺方はこれを防ぐが、形勢は次第に不利となる。
九鬼嘉隆は、先の木津川口海戦で大敗を喫した信長の命により鉄張船(
我が国初の鉄甲船 )を建造したが、これが完成し、6月26日雑賀水軍と交戦してこれを破る。9月24日本願寺顕如が衰えつつあった本願寺勢を救済するため紀州門徒に鉄砲千挺を届けるよう求めた(本願寺文書)。11月6日、毛利の援軍と木津川口にて再び交戦、九鬼水軍の鉄甲船6隻とも7隻ともいわれる艦隊が、毛利の西国船600隻余りと戦闘するが九鬼水軍の大勝に終わる。( 第2次木津川口海戦 )これにより、石山本願寺は毛利の支援の望みを絶たれる。
この年の11月荒木村重が信長に謀反し、その応援のため鈴木孫一が摂
津有岡城に入る。上杉謙信、山中鹿之介没。
< 1579年(天正7年)
1月摂津有岡城にいた鈴木孫一は、城を出て摂津花熊城に入る。5月11日安土城天守閣完成し織田信長これに移る。9月2日荒木村重が尼崎に逃亡するが孫一の足取りは掴めない。しかし、12月3日に本願寺は雑賀の年寄衆を招集して重要な講和の談義を行っているので、ここに出席するため上坂したと考えても不思議ではないだろう。
この年、信長は、キリスト教宣教師オルガンチノに、安土においてキリスト教寺院建立を認める。軍師竹中半兵衛没。
< 1580年(天正8年)
1月17日播磨の国三木城が羽柴秀吉により落城す。城主別所長治自害する。
3月5日、権中納言勧修寺晴豊らが、勅命による本願寺と織田信長との和睦の交渉に奔走し、本願寺顕如が石山本願寺を退城することを約定して和睦が成る。( 石山合戦の終結 )
3月20日鈴木孫一ら勅史への暴行事件につき起請文を提出。
本願寺文書の署名人に、湊平大夫高秀、岡太郎二郎吉正、松江源
三大夫定久、狐島左ヱ門大夫吉次、鈴木孫一重秀、とある(本願寺文書)。
勅史への暴行事件という重要な事柄を示したこの古文書により、雑賀の鈴木一族の頭領は鈴木孫一であると比定できるのではなかろうか。
4月8日鈴木孫一ら本願寺教如を支持する連判状を呈す。本願寺教如は、雑賀門徒をはじめとする諸国の本願寺門徒の強い懇請もあり、
石山御坊に籠城して信長に抵抗する主戦派とされている。
この連判状は、勅命により和睦した法主本願寺顕如の意思に反してまで呈したものであり、鈴木孫一がこの頃までは反信長勢であった、ということを示す重要な手懸りとなる。一方、この日に法主蓮如が鷺森に退去にあたり鈴木孫一らが、法主蓮如に忠誠を誓う起請文もみられる(雑賀衆起請文、西本願寺蔵)。
4月9日本願寺顕如は、長男である本願寺教如に石山本願寺を譲り紀州の鷺森に退去する。しかし、本願寺教如は、雑賀門徒をはじめとする諸国の本願寺門徒の強い懇請もあり、
石山本願寺に籠城して信長に抵抗する。父本願寺顕如は、再三にわたり教如を説諭するが、聞き入れられず息子の違勅に胸をいためるが、教如もひとり自分自身の問題として片付けるわけにもいかず、決意を固くして頑強に抵抗するので、ついに、教如の弟である本願寺准如を嗣としてこれを立てた。
本願寺は、これを境に、東西に分離していくのである。のちの豊臣秀吉から
父本願寺顕如が、京都七条坊門堀川の地を寄進されてできたのが、現在の「西本願寺」であり、徳川家康から長男本願寺教如が烏丸六条の地を寄進されてできたのが、現在の「東本願寺」である。
8月2日、新門跡(
一門の祖の法流を継ぐもの、寺院の長官などをいう )本願寺教如が大阪石山本願寺を退去し雑賀に移る。
11月17日織田家部将柴田勝家が加賀の国の一向一揆を鎮圧。ここに織田信長の最大の敵であった一向一揆が事実上消滅する。(
「百姓の天下」の夢もここで消滅 )
< 1581年(天正9年)
2月28日、織田信長は明智光秀に命じ、京都において御馬揃を行い、正親町天皇をはじめ、摂家、公卿等々が観覧する。
8月30日織田信長は高野山を攻め、高野聖千人余りを処刑する。
8月23日本願寺顕如は、鈴木孫一と土橋若大夫との抗争に対して、
鈴木孫一に説諭する。
10月25日羽柴秀吉、吉川経家の鳥取城を攻め落とす。
12月織田信長の使者に、鈴木孫一が取次する(鷺森日記)。
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