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3 本能寺の変
< 1582年(天正10年) 本能寺の変
織田信長に戦勝の祝辞を述べに来賀した徳川家康、穴山信君(
旧武田家の家臣 )らを接待饗応した明智光秀は、備中( 中国地方 )出陣のため近江坂本に入り、ついで丹波の亀山城に入った。
1月23日鈴木孫一らと土橋若大夫らの抗争が激しくなり、とうとう土橋若大夫を殺害するに至った(鷺森日記)。1月28日本願寺顕如が再度鈴木孫一を説諭するが、2月8日鈴木孫一らが、織田信長の支援を得て栗村の城を陥れて、
土橋若大夫一派を倒す。この頃の孫一は親信長派だったのか分からないが、織田信長の支援を得て栗村の城を陥れたことはどうやら事実のようだ。
5月29日織田信長は、信忠、森蘭丸ら数名の近臣を引き連れて京都本能寺にに入る。(
信忠は妙覚寺 に入る )
6月1日、明智光秀は兵1万3千を引きつれ亀山城を出陣。兵は亀山城から京都に向け老ノ坂を通り沓掛に至り小休止。ついで、嵐山の麓を流れる桂川に出、合戦準備を行い、本能寺に突入。
織田信長の軍は、150人程の人数であった。信長は自害。信忠も二条城で自害して果てた。6月2日のことである。( 本能寺の変 )
ただひたすら 「天下布武」
を旗印に生きた信長の49年間、まさしく、「下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり」であった。
6月3日鈴木孫一は本能寺で変が起き、信長の死を知り岸和田城へ退去する(鷺森日記)
。6月4日鈴木孫一の居城が焼かれる。
6月13日山崎において合戦が起きる。
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