其の二

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西暦 和暦 記    事
1563 永禄5年

3月5日、泉州久米田合戦にて畠山高政、三好実休を敗死せしめ、
雑賀勢鈴木孫九郎重宗戦死。(畠山記)

7月、湯河直春、鈴木孫一ら雑賀五荘郷の衆に起請文を呈す。

9月29日、鈴木孫一ら雑賀の衆、湯河宗慶に起請文を呈す。

1564 永禄6年

宇治鷺森に御坊を移す。(鷺森旧事記) 9月三河一向一揆起こる。

1568 永禄11年

織田信長の家臣柴田勝家、佐久間信盛ら高屋城を攻める。鈴木
孫市重意の名あり。(畠山記)

1569 永禄12年

織田信長は、畠山義宣らと高屋城を攻める。鈴木孫市重意、土橋
小平次、的場七郎らの名があり。(畠山記)

1570 元亀元年

7月27日、三好三人衆が摂津(野田・福嶋と思われる)に入り、布陣
する。これに鈴木孫一(南海治乱記等は、孫市)らが加わる。

8月17日、三好の兵が河内古橋城を攻撃する。
8月26日、織田信長は足利義昭を奉じて、摂津四天王寺に布陣。
これに応じて雑賀三組の雑賀衆が参陣する。

9月12日、本願寺勢が挙兵して信長に対抗する。(石山合戦)
9月18日、鈴木伊賀守らが信長を撃退する。
9月20日、雑賀衆が出撃して信長の兵を撃退する。
9月23日、織田信長は兵を撤収して帰陣する。

1572 元亀3年

4月、雑賀衆ら大坂に上がる。

5月、雑賀湊の衆が四国阿波に渡り、「紫雲の乱」に参加する。

11月、本願寺が織田信長と講和する。

1574 天正2年

4月2日、本願寺勢は、織田信長の再来襲に備えて雑賀の衆を頼
む。
4月3日、織田信長が大坂石山に来る。

10月、鈴木孫一は足利義昭に協力を約する。

1575 天正3年

4月、織田信長が石山に来襲。一転して河内に転ずる。

6月27日、再び本願寺勢は雑賀衆の上坂を頼む。

8月22日、本願寺は篭城をきめ、雑賀衆に協力を頼む。

10月、再び本願寺と織田信長は講和する。

1576 天正4年

4月、織田信長が石山御坊を包囲する。
4月18日、本願寺勢は、雑賀衆の援助を乞う。

5月3日、鈴木孫一らは信長の兵を三津寺に撃破して、信長勢の
篭る天王寺を包囲する。(佐久間軍記では、鈴木孫市の名)
5月7日、信長が救援に天王寺に来て、石山御坊周辺にて大激戦
となる。(信長公記) このとき、織田勢は雑賀孫市の首級を挙げた
(言継卿記) と振れまわる。
5月9日、雑賀孫市の首級とされるものを京に曝す。(笑止なり)
5月、織田信長は、雑賀五組のうちの宮郷太田党に謀略をめぐら
せる。
5月21日、本願寺は、織田信長が紀州雑賀を攻める意図あること
を伝える。

6月5日、信長は石山御坊より去る。
6月6日、鈴木孫一らは、佐久間安政らと交戦す。
6月28日、本願寺勢は、雑賀衆に毛利氏へ兵糧補給を依頼する。
この後、鈴木孫市は播州へ向う(毛利元就記)とある。

7月14日、毛利輝元の命により、部将児玉就英( 「川の内衆」、毛
利直属の水軍を言う )が、 村上武吉( 村上水軍 ) その他能島水
軍、来島水軍らの来援を得て石山本願寺に兵糧を運びこむため、
摂津木津川口に来襲。雑賀水軍の協力得て、信長の九鬼嘉隆を
主力とする水軍と戦闘、これを撃破し、兵糧を運び込むことに成功
する。( 第1次木津川口海戦 )
毛利氏からの兵糧補給に鈴木孫市出向える(芸候三家志)とある。

11月5日、本願寺は鈴木孫一らの上坂を求める。

1577 天正5年

2月2日、織田信長は紀州雑賀攻めを決行。この後、鈴木孫市の
名が諸書に出る。
2月13日、信長は京を出陣す。
2月16日、信長の先陣が泉州貝塚に至り、泉州貝塚に陣を構えて
いた雑賀衆は撤退する。
2月22日、信長の兵は、孝子峠を突破して中野城に到達す。
2月28日、中野城は開城に至る。

3月1日、信長の兵が鈴木孫一の居城(調査中)を包囲する。
3月15日、鈴木孫一ら雑賀衆は、信長に降伏す。
3月21日、織田信長は雑賀より撤兵する。このころから、雑賀衆内
部にて抗争が起こる。

8月16日、鈴木孫一らは、親信長派の雑賀衆と交戦し、名高浦に
破り日方城を陥れる。(日方記によると雑賀孫市義方とある)

10月11日、本願寺勢より雑賀衆の上坂を求められる。

1578 天正6年

3月、本願寺より再三にわたり淡路岩屋に出兵を求められる。

4月4日、織田信忠が石山御坊に迫る。

5月2日、本願寺より播州上月への出兵を求められる。
この月、宮郷太田城と雑賀衆らが争う。のち講和する。

7月7日、本願寺より播州高砂に出兵を求められる。
7月8日、本願寺より紀州門徒宛てに、信長の大船(鉄張船)に対す
る対策が指示される。
このころ、雑賀、淡路の本願寺門徒が信長の大船と泉州淡輪沖に
て交戦する。
7月17日、本願寺より信長の大船対策のため雑賀衆の上坂を求め
られる。

8月28日以後、本願寺より再三に渉り上坂を求められる。

11月6日、毛利の援軍と木津川口にて再び交戦、九鬼水軍の鉄張
船6隻とも7隻ともいわれる艦隊が、毛利の西国船600隻余りと戦
闘するが九鬼水軍の大勝に終わる。( 第2次木津川口海戦 )
これにより、石山本願寺は毛利の支援の望みを絶たれる。
この月、荒木村重が信長に謀反し、その応援のため鈴木孫一が摂
津有岡城に入る。

1579 天正7年

1月、摂津有岡城にいた鈴木孫一は、城を出て摂津花熊城に入る。

2月、雑賀衆が明石に要害を構える。(四国軍記)

4月6日、本願寺より雑賀衆の上坂を求められる。

9月、摂津三木城に土橋平丞、渡辺藤左ヱ門ら雑賀衆あり。(別所
長治記等)

10月15日、摂津ひよどり塚の砦が陥落する。

12月3日、本願寺は、雑賀の年寄衆を招集して講和の談義を行う。

1580 天正8年

3月20日、鈴木孫一ら勅史への暴行事件につき起請文を提出。
本願寺文書の署名人に、湊平大夫高秀、岡太郎二郎吉正、松江源
三大夫定久、狐島左ヱ門大夫吉次、鈴木孫一重秀、とある。(本願
寺文書)

4月8日、鈴木孫一ら本願寺教如を支持する連判状を呈す。本願寺教
如は、雑賀門徒をはじめとする諸国の本願寺門徒の強い懇請もあり、
石山御坊に籠城して信長に抵抗する主戦派とされている。
4月9日本願寺顕如は、長男である本願寺教如に石山本願寺を譲り紀
州の鷺森に退去する。

8月2日、本願寺教如が石山御坊を退去し雑賀に移る。石山御坊焼失
する。

1581 天正9年

8月23日、本願寺顕如は、鈴木孫一と土橋若大夫との抗争に対して、
鈴木孫一に説諭する。

12月、織田信長の使者に、鈴木孫一が取次。(鷺森日記)

1582 天正10年

1月23日、鈴木孫一らが土橋若大夫を殺害する。(鷺森日記)
1月28日、本願寺顕如が再度鈴木孫一を説諭す。

2月8日、鈴木孫一らが、織田信長の支援を得て栗村の城を陥れて、
土橋若大夫一派を倒す。

6月2日、本能寺の変起きる。
6月3日、鈴木孫一は本能寺で変が起き、信長の死を知り岸和田城へ
退去する。(鷺森日記)
6月4日、鈴木孫一の居城が焼かれる。
6月13日、山崎において合戦が起きる。

1583 天正11年

4月、羽柴秀吉が岸和田城に兵を入れ、このため紀州勢としばしば衝
突す。

7月4日、本願寺が拠点を鷺森から貝塚へ移す。

1584 天正12年

3月、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が交戦する。(小牧合戦)
3月18日、雑賀衆ら陸海より大挙して岸和田城に迫る。
3月21日、雑賀衆、根来衆らが大挙して北上し、羽柴秀吉の兵と交戦
する。(多聞院日記等)

4月9日、長久手の合戦起こる。

8月、鈴木孫一は、羽柴秀吉の鉄砲頭として尾張へ。

9月、雑賀の鈴木某が四国の長宗我部氏と協議のため阿波へ赴く。

1585 天正13年

3月21日、羽柴秀吉の兵泉州に発向し、紀州勢の諸城を攻撃する。
雑賀城には鈴木左兵ヱ、雑賀孫六 (根来寺焼討太田責細記)の名が
みえる。
3月22日、雑賀衆は内争により自壊する。
3月23日、雑賀衆は沢城を明渡し退去する。
3月24日、羽柴秀吉が雑賀に入る。
3月25日、鈴木孫一は、本願寺顕如の要請をうけて、太田城に降伏を
薦めに赴く。

4月、鈴木孫一は子 (名は不詳なり) を羽柴秀吉に人質として差し出
す。

9月、本願寺は許されて、貝塚より大坂天満に移る。

1589 天正17年

5月2日、平井(鈴木)孫市郎義兼没する。(平井蓮乗寺墓碑銘)

11月、鈴木孫一郎某が、豊臣秀吉の鉄砲頭として小田原攻めに参
加す。

1590 天正18年

3月、豊臣秀吉は京都を発向し小田原に向う。鉄砲頭として鈴木孫三
郎重朝 (伊達家文書、当代記)の名がみえる。

7月7日、小田原城が落城する。

1592 文禄元年

3月、豊臣秀吉は軍を発し、肥前名護屋に向う。鉄砲大将として鈴木
孫三郎重朝 (太閤軍記)の名がみえる。(朝鮮出兵)

4月、肥前名護屋に着陣す。

7月22日、秀吉上坂す。鈴木孫一郎、鈴木孫三郎は肥前名護屋の留
守居役となる。

1593 文禄2年

10月5日、秀吉の能稽古に当たって、鉄砲頭鈴木某は警護の役を仰
せ付けらる。

1594 文禄3年 4月、秀吉は有馬に湯治す。警護に鈴木孫三郎 (浅野家文書)あり。
1595 文禄4年

1月3日、秀吉の草津湯治に当たり、鈴木孫三郎が美濃土岐宿の警護
を仰せ付けらる。

1598 慶長3年

8月18日、豊臣秀吉没する。

1600 慶長5年

7月17日、石田三成らが挙兵する。

8月1日、伏見城守将鳥居元忠を鈴木孫三郎重朝が討ち取る。(石川
忠総留書)
8月5日、鈴木孫三郎重朝が豊臣秀頼より感状を受ける。(雑賀文書)

9月15日、関ヶ原の合戦が起き、西軍敗戦す。鈴木孫三郎重朝は伊達
政宗を頼り、奥州に赴く。(雑賀系譜)

1603 慶長8年

2月、徳川家康征夷大将軍となる。

1606 慶長11年

7月13日、鈴木孫三郎重朝は、徳川家康により知行3000石をもって召
抱えらる。

10月18日、家康は、鈴木孫三郎重朝に献上品の礼状を出す。

-完-


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