このペ−ジは、皆様から寄せられた情報を掲載しました。
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 情報提供者 > 伏見元嘉  ( 平成14年1月2日メ−ル投稿 )

 おめでとうございます。写真が出てきませんでしたが、ネガが出てきました。小生は、鈴木氏の一支脈の「土居」氏を追跡しているので、詳しくは存じません。ネガを透かしてみると説明板には「鈴木孫市終焉の地」とあり、碑文には「鈴木孫市重行之略伝」となっております。参考になるようでしたら、焼いてお送りします。
伏見元嘉


  情報提供者 > 安部奈亮様 ( 平成11年3月23日孫市BBSに投稿 )

 雑賀衆について情報
 ご存知かもしれませんが、NHKのたしか「歴史発見」(「堂々日本史」の前の番組で、朝鮮の役のときに日本から朝鮮半島に渡って鉄砲を伝えて、さらに朝鮮軍の戦闘を指揮した「シャヤカ」という謎の人物を取り上げていました。「シャヤカ」は朝鮮に渡る前は阿蘇に逃げていたらしく、加藤清正とも知り合いで、朝鮮で加藤清正と密会しています。その時加藤清正は「シャヤカ」に、彼の妻の無事を伝えたらしいです。
 朝鮮の軍隊は、「シャヤカ」の指揮で見違えるほど強くなったといっていました。雑賀党の人物である可能性が高いと番組では言っていました。「シャヤカ」はその後、朝鮮に帰化したそうで、今もその子孫がいます。何処となく日本を思わせる村だったと調査した人が言っていました。
 
 安部様 > 早速図書館にいって調べてみます。たしか「歴史発見」の本があったと思いますので。


  情報提供者 > 池内晴紀様 ( 平成11年3月23日孫市BBSに投稿 )

 書籍について情報
 鈴木眞哉という作家の「鉄砲と日本人」という書籍を知っていますか。孫市殿の身内筋かも知れない。雑賀衆の話題が満載です。たしか、人物往来社であったと思うが。

 池内様 > 鈴木眞哉という作家は知っていますが、著書としては「鈴木一族」を知っているだけでした。手に入れたいと思います。


  情報提供者 > 倉富拓磨様 ( 平成11年3月27日メ−ル投稿 )

 鈴木重秀( 雑賀孫市 )についての情報
 鈴木重秀は、紀伊の国人鈴木佐太夫の末子という説もあるが、活動時期は兄の重朝より10年以上前にあたる。重朝は孫三郎、重秀は孫市と名乗っており、このあたりもどちらが年上かはっきりしない原因であろう。重秀の通称は雑賀孫市で1570年〜80年にかけて、石山本願寺に篭城し、根来衆、雑賀衆の鉄砲衆を率いて織田方を苦しめた。その後本願寺を退去し、1584年頃から秀吉に仕え、紀州攻めなどに参加している。孫市の活躍は半ば以上伝説化され、焙烙火矢( ほうろくびや)を使った船舶攻撃や水軍と協力した奇襲上陸など、大胆な用兵で知られている。


  情報提供者 >小野寺遠江守  ( 平成11年11月8日メ―ル投稿 )

 こんばんは。だいぶご無沙汰してしまいました。
当方、小野寺氏に就いて調査していたところ、『鈴木氏』についての記載がありましたので、参考になればと思い一部を抜粋しました。ご報告します。
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書名『岩舟町の歴史』(栃木県下都賀郡岩船町)103ページ

鈴木氏

 下津原の鈴木氏は、そのもとを紀州熊野新宮の鈴木左近将監重政に発し、天文年間、鈴木佐渡の時に下津原に移り住んだものという。
 本国の熊野新宮を出、諸国大社参りをなしつつ信州諏訪にしばらく滞留、ついで関東を志し現在のところに居を定めた。
 熊野神は朝野の崇敬を集めていたるところに勧請されたが、鈴木氏はその神を奉じて全国に発展したものである。しかし、下津原の鈴木氏は、信州の諏訪に滞留してのち移住してきた故に、その氏神として
 あそ山(三鴨山)の北麓に上諏訪
 中塚の中に         中諏訪
 屋敷の内に         下諏訪
の三社を祀った。
 慶長八年領主の佐野氏より下津原村山の秣場(まぐさば)の入会を許された百姓は鈴木九郎左衛門・鈴木次郎左衛門・・・中略・・・の十五軒であった。
慶長十九年から古河藩領となったが、当時下津原の村役人は、
 略
 原組年寄        鈴木多郎兵衛
 略
 新田名主年寄     鈴木次郎左衛門

であった。いずれも武士名であり、佐野家と主従関係にあったものと考えられる。この鈴木次郎左衛門は、さきにのべた鈴木佐渡の子対馬である。諏訪から移住した鈴木氏は、新田を開発して住んだものであることは、この村役人の構成からも窺い知ることができる。後略。
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 ついで『中世の小野寺氏』207ページ

 小野寺氏の末裔 小野寺きよは、関宿(千葉県)藩士鈴木由哲に嫁した。昭和二十年八月十五日、それは日本にとって未曾有の敗戦となった日であるが、この時の内閣総理大臣鈴木貫太郎は、きよの長男である。総理大臣として終戦に努力した。二男の孝雄は陸軍大将となった。
後略


  情報提供者 >左衛門佐ともーか ( 平成12年1月10日メ―ル投稿 )

 はじめまして。

 自分は以前より真田左衛門佐信繁(幸村)、豊臣小一郎秀長、雑賀孫市のファンですが、どうも雑賀衆については、和歌山県に博物館もなければ、資料も残ってなく、以前出ていた新人物往来社の「鈴木家の全て」も既に廃刊となっており、
(私は一度図書館で見ましたが)情報が掴めないままでした。

 以下、ウチの近所にある寺にまつわるいわく付きの伝説です。

 豊臣秀吉が雑賀衆討伐を行った際、泉州岸和田城に中村一氏の兵を駐留させた。しかしながら駐留兵数があまり多数でなかったことからか、雑賀衆の大軍団が海より岸和田に上陸しようとしたその時、大蛸にのった謎の法師が次々に雑賀衆の船団を打ち倒し、撃滅させたというものです。

 これは南海電鉄和歌山線の「蛸地蔵」駅にほど近い寺にその歴史を刻んだ石碑があります。(高札だったか忘れましたが)
信じられない「伝説」もあるものです。。。。。

 ウソかホンマかは別として。。。

 それでは。


  情報提供者 >播磨屋田中様 ( 平成12年3月21日メ―ル投稿 )

 播磨屋田中です。

 鈴木氏は熊野の穂積氏の分かれということのなっています。穂積氏は熊野大社の神官で、榎本氏、のちの鈴木氏とともに有史以前から熊野神に仕えたといいます。

 穂積は稲穂を積む、すなわち、神の依代としての高橋に通じる神事であったといいます。神は高いところを伝って降りてくるといいます。それに対して、稲穂を積んでそれに応えたということのようです。稲穂は別名「ススキ」とも称しく、それがのちに鈴木姓になったというのが定説となっています。

 鈴木氏の家紋として代表的なものが「稲穂」というのはこれからきているとのこと。さらに、熊野大社の神使はカラスでした。しかも三本足の。むかし、武士などが誓書をかわすときに熊野牛王の証文を用いましたがそれにはヤタガラスが描かれていました。すなわち、熊野の証明になっていたということのようです。

 熊野大社に因む族は、稲穂のほかに『ヤタガラス」を家紋として使用したのは自分の家が熊野鈴木(穂積)氏出身であることを子孫に伝えようとした表れでもあったと解釈されます。

 孫市の出自は明確ではありませんがものの本によりますと、鈴木氏の総本家である藤白鈴木氏の直系にあたるとしているものもあります。
 それだけに、熊野大社の使いであるところの「ヤタガラス」紋を高らかに用いたことは、納得のできるものではないでしょうか。ちなみに、抱き稲の紋も使ったと記しているものもあります。まさに、孫市は熊野の鈴木氏に相応しい家紋を使っていた。

 「ヤタガラス」といえば、酒は熊野のヤタガラスなどといって銘酒がありますが、なかなか美味しい酒ではあります。
小生、熊野が好きで、関西に住んでいたころは機会をみつけては、田辺方面からあるいは、奈良・十津川方面からあるときは、新宮まで足を伸ばして熊野川を上るという風に熊野にはまっていた頃を思い出します。
 あの頃は、今ほど「家紋」というものに興味が濃くなかったこともあっていま思えば、もっと熊野らしい家紋を採集しておけばなどと悔やんでいます。
 もっともあの界隈は酒もうまいし、肴もいいし、しかも温泉がある、いいところですから、それだけでも十分楽しめますが。


 

制作/企画 「歴史浪漫」  鈴木 稔

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