
□雑賀一族の系譜□
□ はじめに
雑賀を「サイカ」と訓ずる。この同訓のものに「最賀」「西河」「斉賀」「斉下」がある。これを「サイカ」「サイガ」と訓ずるも、その血脈には雑賀氏と同じくする。
姓氏の由来については、古代より地名によるものと、職業にかかわるものが多いとされている。雑賀氏は前者の一つで、その大方は、本姓鈴木氏ではあるが、その本貫地紀伊国海部雑賀荘の地名にちなんで、雑賀を姓とする。ただ、なかには鈴木姓雑賀氏とはかかわりなく、藤原姓雑賀氏もあらわれるが、諸国に起こる雑賀氏の多くは、前者鈴木姓雑賀氏の分流である。
よって本書は、この雑賀氏族の宗家鈴木氏、また、その宗祖穂積氏にまでさかのぼって筆をすすめる。これについては、諸種の古文書、並びに子孫にのこされた家伝の系図に基づいて稿述するのであるが、ここに、なお補うものがあるとすれば、各家の系図に補点されたい。
□ 目 次
□ 宗家鈴木氏について
古文に、「鈴木氏は天下の大姓にして、その族類の多きこと、他にその比を見ず」とある。諸国における鈴木氏は、桓武平氏よりあらわれた北条氏流、千葉流、また種々の鈴木氏があるが、その中でもっとも多いのは、紀州熊野を発祥の地とする鈴木氏である。すなわち、これが雑賀氏族の宗家となる鈴木氏である。
この鈴木氏の宗祖は、穂積氏である。またこの氏の遠祖をたずねれば、神別第一といわれる物部氏で、古文書によれば、物部氏は神武帝御東征以前、饒速日命(
にぎはやひのみこと )がその部族を率いて筑後川を遡り、九州の東海岸に出て、四国の北岸を縫い畿内地方に達し、河内、あるいは熊野より大和に入った。
のち、物部氏は大和朝廷の中にあって、軍事、刑罰をつかさどる。そして、造(
みやっこ )、首( おびて)などの姓をもつ配下を従えて勢力を得、雄略朝のとき、大伴氏とならんで、武力の中核をなした。
これが継体天皇の御代になって、物部麁鹿火( あらかび )があらわれ、大伴金村とともに大連となって政治の主導権を握り、当時の国内の紛乱あるいは朝鮮問題に対し、武将として重きをなし、とくに筑紫国造磐井の乱を鎮定して軍功をたてている。しかし、新興氏族の蘇我氏と対立し、敗れて、物部氏の本宗は滅ぶことになる。
だが、推古朝のとき、ふたたび物部一門が歴史に登場することになる。これは聖徳太子の登用によるものである。のちに壬申の乱が起こる。物部雄君は大海人皇子の舎人として功あり、ついで天武天皇十三年、八色の姓の制定に際して、物部麻呂は、物部氏の本拠である石上神宮の所在地にちなんで石上朝臣と改姓する。ただし、この改姓は本宗に限られ、氏人や旧部民の有力者には物部姓を名乗るものが多かった。すなわち、"物部八十氏"といわれるほどに一族は諸国にひろがったのである。『天孫本紀』によれば、石上朝臣家がこの「物部」八十氏の本宗であるという。
鈴木氏の宗祖穂積氏もまた、この物部八十氏のひとりである。古文書によれば、大和国山辺郡穂積邑より起こる。また『姓氏録』左京神別に「穂積臣、伊香賀色雄命の男大水口宿禰の後也」とある。
これを略系によって示せば、次のようになる。
饒速日命---彦湯支命---出石心命---大矢口宿禰命---大綜杵命---伊香(賀)色雄命---大水口宿禰
⇒
穂積臣、采女臣の祖、鈴木氏の大祖也。これより五代の孫に穂積臣眞津連公があらわれ、以下穂積臣を名乗る。(
穂積系図 )
鈴木氏族は、この物部系の穂積氏より出て、はじめ紀州新宮を本拠としたが、のちに名草郡藤白湊に移り、その地の王子社の神官となり、ここを中心に発展し、同じく熊野に勢力を扶植していた大伴系の榎本・宇井(
丸子氏の本姓 )とともに三家と称された。すなわち、諸国の鈴木氏の多くは、この流から分かれる。
『熊野権現縁起』に、「鈴木氏が稲穂を紋とするは、先祖穂積氏が熊野の神に稲の穂を献じたことによる」とある。また、『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」条に「鈴木氏は熊野三旧家のその一なり。この地、古へ熊野神領となり、鈴木一族、地頭となりて、この地に移りしならん」と。
また、「鈴木三郎重家、その弟亀井六郎重清は、源義経に仕えて、所々に軍功ありし事、諸書に見えたり。その家伝に云ふ、鈴木重国といふあり、南方八荘司の旗頭にして、同治郎重治(
或いは云ふ、重国三男 )と、世々藤白を領す。所縁ありて源家に属し義朝に近習す。義経の未だ舎那王といひし時、熊野詣して、鈴木の館に逗留す。この時、義経扈従の士佐々木秀義六男、亀井重清をして重国の一子三郎重家と、兄弟の誓ひを結ばしめ、両人をして籤を取りて、重家は家に留まり父を養ひ、重清は義経の軍中に従はしむ。義経奥州に落つる時、高館に安堵するよし、飛脚到来につき、重家、伯父の重次と山伏の姿となり奥州に下る。重次は病ありて参州刈屋に留まる。重家は奥州に至り、衣川にて兄弟死す」とある。
これよりさき、源平争乱のとき、鈴木氏族は熊野の別当湛増(たんぞう)から、榎本、丸子とともに「頼切りたる侍」とされ、熊野水軍の中枢たるべき武将となっている。また、重家は鈴木党の総領として頼朝から所領(
紀伊 )を与えられ御家人の列にその名をつらねている。しかし、前述にある通り、頼朝の奥州征伐のとき、義経が自害する直前、義経の身を案じ、はるばる熊野から平泉にかけつけ、義経に殉じている。
これが、宗家鈴木氏の歴史上にあらわれるもっとも大きな事績といってもいい。ここで重家までの略系を次に掲げる。ただ鈴木氏の系譜は『鈴木系図』のほかに、さきに挙げた『穂積系図』、『亀井系図』、『権現三姓系図』等数種あり、ここでは『穂積系図』を主とする。
饒速日命---彦湯支命---出石心命---大矢口宿禰命---大綜杵命---伊香(賀)色雄命---大水口宿禰
⇒
穂積臣、采女臣の祖、鈴木氏の大祖也。これより五代の孫に穂積臣眞津連公があらわれ、以下穂積臣を名乗る。(
穂積系図 )

□ 紀伊国の雑賀氏
雑賀氏は、本姓鈴木なり。『続風土記』雑賀荘和歌浦条に、
「雑賀城跡、村の入口、妙見堂山の北の端にあり。鈴木佐大夫の城地なり。佐大夫は七万石許を領す。(
七万石許を領すといふ。疑はしけれども、「士姓旧事記」に出ずるを以て、姑く原文に従ふ)。天正年中、本願寺光佐当国鷺森に来て、雑賀の一族を頼む。同五年、織田内府、その子信忠、信雄、信孝をして、軍兵を率いて雑賀の一族を攻む。そのとき雑賀の一党、太田、土橋、岡崎等二千余人山口にて防戦す。織田の軍、利を失ひて退散す。同十三年、豊臣太閤大兵を挙げて根来を滅ぼし、あわせて国中を平げむとす。鈴木孫市(
佐大夫の男 )、佐竹伊賀守、根来寺の僧徒、泉州千石掘の積善寺に城を築き、防戦すといへども、太閤の兵遂に根来を焼き、大田城を降すを以て、鈴木は城を出でて降参し、佐竹は熊野の山中に遁る。佐大夫は藤堂高虎の智略に落ちて、粉川にて切腹す。雑賀城没落ののち、町屋は多く和歌山に移る」
とある。
ここに述べられている戦乱は、一向一揆の世にいう石山合戦である。元亀元年正月、本願寺十一世の法主顕如(
光佐 )が、織田信長より石山から退去せよと命ぜられた。これが契機となって、顕如は諸国の門徒に激をとばして立ちあがることを訴えた。これに呼応して立ちあがったのは、戦国最大の鉄砲二集団、紀伊伊那賀郡の根来寺の僧兵を中心とする根来衆と、海部郡雑賀に根拠をかまえる雑賀衆である。
この雑賀衆の首領は、本姓は鈴木、雑賀孫市重秀。父は雑賀七万石を領有する鈴木佐大夫である。
ここで、すこしく、本願寺と雑賀衆とのかかわりをみてみると、戦国中期、雑賀を中心とする地域の農民の信仰は真宗本願寺派一色にぬりつぶされていた。そこで、これらの門徒農民を支配する土豪、国人衆は、みづからの政治的、社会的立場を守るため、信仰とは別に本願寺の門徒化していかざるをえなかったのである。すなわち、この門徒国人が雑賀衆である。
その主なものの名を挙げると、鈴木孫市重秀、その同族源内大夫、左近大夫、三郎次郎、六郎兵衛、孫郎大夫、亀大夫、また岡本太郎次郎吉正、狐島左衛門大夫吉次、栗村三郎大夫、宮本兵部大夫、松田源三大夫、岡崎三郎大夫、土橋若大夫などである。
史料によれば、当時、雑賀孫市は七万石を領有し、鉄砲三千丁、兵船二百艘を保持し、織田軍との小地域戦闘にあたっては不敗をほこっていたという。これは孫市の智略、勇武を天下に喧伝するものであった。それがゆえに、顕如がもっとも頼みとするものはこの雑賀衆で、つねに雑賀の兵六、七千人は手許においていた。
天正五年二月、装備と訓練のゆきとどいた織田軍が来襲する。これに対する根来、雑賀衆のほか、和泉の門徒が和泉貝塚、千石掘、畠中にたてこもり、また一方、瀬戸内の海賊衆を味方にひきいれて態勢を整えた。
この戦いに名をあらわすのは、雑賀孫一郎、同入道三縅、土橋平次、的場源七郎、渡辺藤左衛門、岡崎三郎大夫、根来岩室坊清祐らである。その数一万余名。しかしながら、織田の大軍の勢いにおそれて、戦わずして諸城から撤収した。これを知って織田軍は貝塚に入り、道場をはじめ民家をことごとく焼き払い、本陣を佐野(
泉佐野市 )にすすめ、かねて信長に内通していた根来杉之坊が織田の陣営に加わり、雑賀討ち入りの策をたてた。
この雑賀討ち入りについて『大阪府の歴史』はこう述べている。
「織田軍は信達( 泉南郡泉南町 )にすすみ、ここで雑賀進撃の陣立てをととのえ、軍を山手と浜手に分けて雑賀に攻め入り、三月一日には雑賀の大将鈴木孫市の城にかかった。雑賀衆は得意の鉄砲をもって防戦したが、持久戦になると地元民衆の被害がつのることをおそれて、やがて降参を申し入れた」とある。
この戦闘において、石山本願寺はまったく孤立化し、さらに、たのみの綱としていた毛利の水軍が、木津浦の海戦で織田軍九鬼嘉隆の建造した新造戦艦に打ち破られ、情勢はもはや信長の圧倒的に有利となり、天正八年閏三月五日、本願寺側は全面的に講和条件を受け入れ、四月九日、顕如は石山を開城し、紀州鷺森に退去した。この退去に際し孫市雑賀水軍二百艘を率いて紀州雑賀岬を出航し、大坂の木津川尻に錨をおろして門主およびその家族、一山の重役を収容している。
この雑賀孫市をはじめとする雑賀党に織田信長は畏怖にちかいおもいをもっていた。ここにその証あり。石山本願寺明渡しの和議が成立して、本願寺側から信長に差出した血判の起請文の一条に「雑賀之者共、御門跡次第可致覚悟之由、誓紙可申付事云々」とある。
しかしながら、これで戦いは終ったわけではない。天正十三年三月、信長の死後、全国統一の覇者となった豊臣秀吉の根来・雑賀衆の討伐がはじまった。そのころ、雑賀孫市は泉州積善寺にいる。この城攻めの総大将は秀吉の弟、のちの大和大納言秀長で、孫市に誓紙まで書き送って開城をうながした。孫市これに従って城を出て、単身、紀州粉河寺に行き、そこで死んだ。古文書によれば切腹とある。
(注)
粉河で切腹して死んだのは、「佐大夫」と前述してあるが、ここでは「重秀」になっている。前者は、藤堂高虎の謀略によって、後者は、羽柴秀長の誓紙によって、となるのであろうか。
この孫市の子に平井孫市あり、母の出自は詳かではないが、母の実家のある平井村で育てられた。幼名は豊若丸。のちに雑賀姓を名乗る。そして、この孫市が水戸徳川家に仕え、水戸雑賀氏の祖となる。
(注) 鈴木佐大夫---鈴木重秀( 雑賀孫市 )---平井孫市となるのであろうか。
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