□ 萩藩の雑賀氏

 ここに雑賀氏家伝の『雑賀織江範正(家)系譜』あり。それによれば範正は萩藩士、格式は大組に属し、禄高は三百石。初代教行から十一代。宗祖は大織冠藤原鎌足の後胤雑賀少輔太郎範勝で、初代教行は、範勝十一代の孫刑部三郎範房の二男にあたる。一族紀州にあり。
 正平十七年(貞治元年)、教行、足利二代将軍義詮に仕え、のち相州、武州に転ずる。時、南北朝争乱期に入って十有余年、諸国に乱あり世さだまらぬころである。
 のち、四代常澄のとき、義詮に属して功があり、周防、長門、石見三国の守護となった大内氏に属し、居を備中国に移す。またその子範治のとき、周防吉敷郡に居住した。
 天文二十年、大内義隆、家臣陶晴賢の反逆にあって長門国大寧寺で自刃、大内氏が滅ぶ。こののち、雑賀六代隆知が毛利元就に随身す。

 これが雑賀氏の毛利氏に仕えるあらましであるが、この雑賀氏と紀州雑賀、すなわち雑賀衆とのかかわりあいはいかなるものか。史書によれば、石山合戦のとき、雑賀衆と毛利氏は同盟を結び、共に信長と戦った。その縁により、雑賀氏族から毛利の臣になることは奇異なことではないとする説がある。しかし、紀州雑賀氏の起こりは穂積姓とされる。山口雑賀氏は藤原氏を祖とする。ただ『尊卑分脈』によれば、藤原南家に「範房」という名があらわれ、この南家中には「範」の諱の一字を持つものが多い。また紀州にかかわるものに北家藤原師尹から出た熊野別当族があり、この氏族の諱の一字に「範」、「行」の多いことを記して、『雑賀織江範正家系譜』を次に掲げる。

 『教行』⇒左衛門佐、足利義詮に仕え相州、武州に転ずる。

 『直行』⇒遠江守、足利氏に属し武州児玉郡に居住す。

 『知澄』⇒豊前守、足利氏に属し武州に住す。

 『常澄』⇒刑部二郎、大内氏に属し備中国に居住す。

 『範治』⇒遠江守、大内氏に属し周防吉敷郡に居住す。

 『隆知』⇒半十郎、紀伊守。毛利元就に随身す。妻は松岡治部少輔道興の女。天正十年六月十八日卒。行年八十九。

 『隆利』⇒次郎、刑部丞。輝元公より感状を賜う。妻は服部豊前守の女。慶長十年乙巳四月十四日卒。行年七十九。

 隆興⇒別家して越前に住すも、のち毛利氏に属し防州に居住する。嫡子なく断絶。

 ⇒雑賀式部少輔の養子となる。

 ⇒丹治

 『元相』⇒清四郎、三郎兵衛、号元理。

 正利⇒外記、寛永十五年戊寅二月十七日肥前島原において戦死。

 正相⇒木工之助、島原の役において戦死。

 『就正』⇒亀之助、忠兵衛、次郎右衛門。妻は内藤信濃守就貞の女。元禄六年癸酉十月二十二日卒。行年六十六。

 就宗⇒不詳

 勝之⇒丹宮

 『勝正』⇒半十郎、三郎兵衛。妻は毛利四郎左衛門就常の女。享保十二年丁未三月九日卒。行年七十六。

 正真⇒新九郎のち入道、服部入庵改め玄貞。

 正好⇒初め渡辺半弥、権兵衛。実は奥平美作家臣幸与右衛門の長子。吉就公御代、江戸において召抱えられ、吉広公御代のとき勝正の養子となる。妻は乃美八郎左衛門供之の女。正徳四年甲午九月十五日部屋住の内卒す。

 『範正』⇒亀之助、次郎右衛門、織江。実は正好の長子。父病死により祖父勝正の嫡子となる。

 ⇒久松牛之助、九郎右衛門。実は正好の二男。三井吉左衛門資英の養子となる。

 ⇒冨千代槌、次郎、半十郎。


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