| □ 諸国の雑賀氏
会津国
史書に、会津藩は孫市の武名によってその血族の者を高禄で召抱え、代々、雑賀孫六郎、孫六と名乗らせたとある。
幕末、会津藩士に雑賀孫六の名があらわれる。会津戦争で活躍し、さらに奥羽同盟の戦力強化のため、江戸から榎本武揚を司令官とする旧幕府艦隊を呼び寄せる使命をはたす。のち、この榎本艦隊の旗艦「開陽」の乗組士官となり、函館へ行き諸方で転戦している。とくに大鳥圭介らとともに室蘭へ行き、ここでフランス式砲台を築造する準備に参加、その働きは目覚しかった。
しかし、函館戦争後の消息はまったく知られていない。
越中国
砺波郡の豪族也。『三州誌』遊部( 在石黒郷遊部村領 )条に、「天正中、雑賀安芸守據れり。又成政布営の地と云ふ」とある。一説によれば、雑賀安芸守、紀州雑賀の鉄砲衆を率いて戦場をかけ、大いに威をふるったという。
この合戦とは、越中における本願寺教団の武力蜂起、いわゆる一向一揆である。
加賀国
古文書に「河北郡高戸峠砦は越中川上の雑賀日向守の居たり」とある。この雑賀氏もまた紀州雑賀氏の族で鉄砲衆を率いて本願寺教団の戦力となって、紀州雑賀氏と相呼応して戦っていたのである。
しかし、この雑賀氏の裔は詳かにされていない。
讃岐国
『南海通記』に「野原の雑賀、岡本、藤井云々」と載せてある。この雑賀氏もまた紀州雑賀氏の血脈をひくもので、石山合戦において毛利水軍とともに、雑賀水軍として活躍した。
ちなみに雑賀水軍とは、中世においては熊野海賊といわれていた。そして、その戦艇はお関船といい、六百石積みほどのものであった。
この讃岐の雑賀氏の名は詳かではないが、ただ『太平記』三十八に、讃岐の鈴木氏に「孫七郎行長」の名がみえる。さきにも述べてあるように雑賀氏、すなわち本姓鈴木氏である。
□ 拾 遺
鎌倉幕臣に雑賀氏あり。『東鑑』巻四十四、四十七、五十に「雑賀太郎尚持」、また『承久記』巻一に「雑賀の次郎」、また『太平記』巻二に「雑賀隼人佐」、巻二十六に「雑賀次郎」、また室町幕府の臣に「奉行衆・雑賀」の名が『文安年中御番帳』に載せられている。
□ 雑賀氏の家紋
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| 三つ柏 |
丸に三つ柏 |
丸に蔓柏 |
雑賀氏の用いる家紋としては、右柏紋の使用例が多いが、
古来柏葉は神事と関係の深いものであり、為に雑賀氏が家
紋としたものか。雑賀氏は本姓穂積姓鈴木氏であり、熊野
神社の神官として勢力を持っていた。 |
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| 橘 |
丸に橘 |
三つ橘 |
橘紋も使用例が多いが、これが雑賀氏に家紋として用いられ
るようになった由来は明らかではない。 |
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| 八咫烏 |
烏を熊野の神使としたのは、その由来は極めて古く、「神武天皇
が熊野から大和に攻めのぼったとき、霊夢によって八咫烏を先導
とされたと記紀にある」( 日本紋章学 )。八咫烏紋を用いている雑
賀氏は茨城県と宮城県の雑賀氏、二氏がある。 |
以上のほか、「剣片喰」、「石持ち片喰」、「立ち沢瀉」、「丸に立ち沢
瀉」、「丸に三つ割花菱」、「丸に違い鷹の羽」、「五三の桐」、「丸に隅
立て四っ目」、「丸に横木瓜」、「左三つ巴」、「下り藤」、「笹竜胆」、「丸
に地紙」、「久世橘」、「亀甲に一角字」、「結い錦」などがある。
この項は雑賀氏五十家の使用紋を調査確認の上整理したものであ
る。 |
-完-
余談ながら当サイトの管理人の家の家紋は、上の「丸に三つ柏」です。また別に「丸に違い鷹の羽」を使用することもあるそうです。
この「雑賀一族の系譜」は、当会会長雑賀圭五から拝借し、掲載許可を戴いたものです。大変貴重な資料ですので、ほぼその全文(
一部管理人おいて補足した部分があることをあらかじめお断りしておきます。)
を掲載させて戴きました。
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