| □ 肥後の雑賀氏 雑賀といえば、石山本願寺(元亀元年(1570)〜天正8年(1580))に本願寺の中心兵力として活躍、特に根来の鉄砲鍛冶と結んで、鉄砲を以って織田信長に対抗したことは有名であります。 その雑賀氏の一族が肥後に下って来たのは、雑賀衆(鈴木、雑賀、太田、平井等)が石山本願寺合戦で敗れ、尚また豊臣秀吉から本官地である紀州までも追われて、全国に逃れた。 その中で肥後の雑賀氏は、はじめ長門の毛利藩に仕官して長門国に居住していたが、再び浪人となり肥後細川藩士の乃美主人に縁あって主人方に居た所、寛永14年(1637)の有馬一揆(天草島原の乱)に西郡要人の組に付き出陣し戦功を立てたが、翌15年2月27日の城責めで討ち死にした。 西郡要人は、この戦での雑賀長右衛門の働きぶりをつぶさに細川忠利公はその功積を称えて直ちに士分として取り立てることにした。 しかし運悪くその時長右衛門の子供は未だ母親の胎内にあった。普通なら生まれていない子には身分がないのであるが、特別の計らいにより西郡要人預かりとなる。 寛永18年(1641)長右衛門の嫡男雑賀甚兵衛が4歳となって四代目藩主細川光尚公から認められて、西郡容人預かりから御中小姓組に取り立てられ、正式に支藩士の身分となったのであります。これが肥後の雑賀氏の初代となる。 そこで雑賀氏が肥後に来るきっかけとなった乃美主人という人物は、細川家家臣略系譜(県立図書館蔵)によれば、浦(乃美)兵部丞宗勝は毛利家の家臣で、その子息の三男が乃美主人である。 細川三斎公が豊前在城の時、知行千五百石にて召抱えられて以来細川藩士として肥後に来て代々仕えて、その子孫は 雑賀氏が乃美氏に「縁ありて云々」というのは同じ毛利藩であったこと共に水軍の水師であったことが要因で、細川藩にとって水軍の要になる重要な役割を持っていたからと考えられる。 まだ関連事項もかなり残っておりますが紙面の都合もあり概要を述べるにとどめさせていただきます。 掲載 「雑賀鈴木一族研究会」会長 雑賀圭五 |