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雑賀鉄砲軍団の人物紹介
( 鈴木一門衆 )
1 鈴木佐太夫 ?〜1585年
雑賀鈴木一門の棟梁( 年寄衆 )で、鈴木重秀(
当ホ−ムペ−ジでは、「雑賀孫市」と呼ぶ )の父と言われる人物。信長の天下統一を数年遅らせた雑賀鉄砲集団の頭領。雑賀衆が住した紀伊は、高野山金剛峯寺をはじめとする寺社勢力が強く、有力な大名が登場しなかった。その代わりに中小の土豪が力を持ち、自治組織を持つに至っている。雑賀衆もそのひとつであった。佐太夫は本願寺光佐と結んで織田軍を苦しめたが、1585年(天正13年)豊臣秀吉の前に屈した。
2 鈴木重秀「雑賀孫市」
当ホ−ムペ−ジの主人公で、鉄砲の名人で雑賀鈴木一門の首領。佐太夫の末子?。重複するので詳しくはこちらへ また、「孫市と雑賀衆の情報」にも掲載文がありますので参考にして下さい。(
管理者 )
3 鈴木重朝 生没不詳
鈴木佐太夫の子という説が有力だが、活動時期は、重秀よりかなり後で、重秀の弟あるいは子ということも考えられる。一説によると「雑賀孫市」は重朝であるともいわれている。秀吉に仕えて1万石の所領を与えられていたが、鉄砲衆を100人ほど養っていたという。当時の軍役は1万石あたり150人〜350人位だから、全体の半分位が鉄砲という火力重視の編成だったということがわかる。1600年(慶長5年)重朝は西軍として伏見城攻略に参加。老将鳥居元忠を討ち取った。しかし、関ヶ原の合戦で西軍主力が大敗を喫し、敗戦後所領を没収され、浪人となって伊達政宗のもとに転がり込む。1606年(慶長11年)に徳川家に3千石で召抱えられ、1615年(元和元年)の大阪夏の陣では旗本の鉄砲衆を統率。しかし、あまりにも鉄砲が多すぎたため、大阪方の突撃で簡単に敗走した。戦後は水戸の徳川頼房付を命じられた。
以上1、3は、「倉富家資料館」の倉富拓磨氏の情報提供によるものです。
( 雑賀衆 )
1 岡吉正 生没不詳
紀州雑賀の土豪で、岡家の惣領。太郎次郎と名乗り、雑賀孫市と共に大阪石山本願寺に篭城した。雑賀鉄砲衆として活躍し、射撃の腕
はかなりのものであつたようで、自身鉄砲を手にとって指揮したという。
1576年(天正4年)5月3日( 第二次石山合戦 )の合戦では織田方の大将原田直政が討ち死にし、本願寺勢の大勝利に終わった。しかし、7日に信長の奇襲攻撃が敢行され、敗走した本願寺方に多数の死傷者が出ている。かなりの激戦だったようで、このとき陣頭に立った信長は、狙撃されて大腿部に重傷を負ったという。一説では、これは、「岡吉正」が放った弾だったという。
2 土橋重隆 生没不詳
土橋平次の名が石山本願寺篭城時の槍持ちとしてその名が見えるが、同一人物かどうかは不明である。土橋守重の父。
3 土橋守重 ? 〜1582年
紀州雑賀の国人土橋重隆の嫡男。1573年紀州北部の国人を代表し、追放された「足利義昭」を迎える。また、四人の子息をともない、しばしば石山本願寺に篭って本願寺勢に加勢。その正確な射撃で織田方に苦戦を強いた。雑賀孫市とは仲が悪かったので、本願寺では異なった持ち場を守ったという。1577年(天正5年)には本願寺から退去した(
孫市らが信長に誓紙を入れて降参したとされる年 )が、紀州の自領に篭って抵抗を続けた。しかし、1582年(天正10年、「本能寺の変」の年)に信長に通じた孫市(
個人的には、この部分はカットしたいが− )が、雑賀城内の反信長勢力の一掃を企み、抵抗の意思が固い守重とその一族はこの時に皆殺しにされたらしい。
4 堀内氏善 1549年〜1615年
熊野神宮別当( 長官 )。兄氏高の後を継いで、新宮城主となった。はじめ秀吉の紀州攻めに抗したが、後に降伏して家臣となり、二万石を領す。以後、山崎の合戦でも功を立て、朝鮮出兵の折にも水軍として活躍している。しかし、関ヶ原の合戦で九鬼嘉隆に呼応し西軍に荷担したことから所領没収。加藤清正預けとなり、熊本で没した。
以上は、「倉富家資料館」の倉富拓磨氏の情報提供によるものです。
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