日本の歴史のうえで、真の天下取りは誰か、と問えば作者は躊躇なく「織田信長」という。他にも、武家の棟梁とよく教科書でいわれる「源頼朝」や室町将軍の「足利尊氏」などもそうかもしれないが、いずれも、天皇を錦の御旗として担ぎ、そのご威光により幕府を開いた。しかし、「織田信長」は、このような古い手法を一切考慮せず、ひたすら自分の信ずるままに天下布武を目指した。当時の慣習からすると「うつけ」そのものであった。
 
 1575年(天正3年)5月21日に宿敵武田軍団を長篠に破り、東国には最早信長に抗する力を持った勢力は存在しなくなった。唯一脅威として存在したのが「越後の上杉謙信」だが、彼も3年後の天正6年3月に脳溢血で黄泉に旅立った。残りは西国の「毛利」、九州の「島津」ぐらいのものだろう。勿論異論があるのは承知しているが、大局的に見れば事実だろう。にもかかわらず、信長は、天正3年5月以後は何故かモタモタしている。それは石山本願寺を支える「雑賀衆」の存在が、長篠の合戦以後の信長にとって最大の敵であったからである。
 
 「石山合戦」は、1570年(元亀元年)から1580年(天正8年)の約10年の長きにわたる戦いであったが、この10年の歳月は、信長にとっては手枷、足枷をはめられた状態でいかんともしがたい苦渋に満ちたものであった。
 本願寺そのものは、信長に対抗できる兵力を持っていたわけではなく、よくいわれるのが「一向一揆勢」で、「南無阿弥陀仏を唱えながら死して極楽浄土へ行くべし」を合言葉のようにして、信長と苛烈な戦いをした。と歴史の「通説」や「定説」などでは書かれているが、果たしてそうであっただろうか。

 当時最強と言われていた武田騎馬軍団を退けた信長の兵力は、武士、農民等の混成部隊ではないプロのいわば職業的武士であった筈だ。このような織田軍団を相手に10年もの間一揆勢が戦える筈もなく、やはりそこにはその一揆勢を指導、指揮できる職業的武士がいたと考えるのが普通だ。その指導的役割を果たしたのが鈴木重秀( 雑賀孫市 )に代表される「雑賀衆」であると作者は考える。   


平成11年4月24日 箕浦様
 「信長の最大の敵」大変面白く読ませていただきました。石山本願寺との戦いの裏には雑賀衆がいたというわけですね。とにかく、信長にとって見栄も欲望もない一向一揆衆は、今までの敵と違って非常に戦いにくい相手であったことは事実でしょう。


平成11年4月26日 K-be様
 僕は今まで信長最大の敵といえば、彼自身もおそれていたといわれる武田や上杉、石山本願寺なのではないかと考えていましたが、雑賀衆が本願寺の裏にいたとすればこれは紛れもなく最大の敵になると思います。
 他にもう一人、信長の大きな( 最大といえませんが・・・)を挙げるとするならば、やはり武田信玄ではないかと思います。信長自身、彼のことを相当恐れていたようですし、結局二人が直接刃を交えることはありませんでしたが、もしも信玄がもう少し生き延びて織田領に攻め入ってきたら、歴史はどうなっていたか分からないのではないでしょうか。


平成11年4月26日 天陽様
 信長は京を制圧してからというもの、一勢力だけを相手に戦っている時期がありませんでした。将軍を敵にまわしたせいもありますが、不幸なのは彼が優秀過ぎる部下を持ったからでしょう。例えば、羽柴秀吉と明智光秀を山陰・山陽から同時侵攻させるかたわらで、徳川家康に武田勝頼を攻撃させています。敵が多かったというよりも、わざと敵しか作らなかったのです。自分がただ一人の武士になるために他をすべて否定しました。その結果が、本願寺の跳梁です。本願寺に織田家を滅亡させて、取って代わろうという意思はなく、自然後回しになったのでしょう。本願寺は武士ではないから、結局、信長の最大の敵は、信長が抱いてしまった思想にあったのではないでしょうか。

続き:: 4月28日
 戦国武将はプライドの塊のようなもので、信長も類に漏れなかったはずです。ひとたび、本願寺を敵と決め、そこに雑賀衆が味方してしまえば、それらを潰滅させるしか選択肢はなかった。でも、信長は同じ鉄砲からスタ−トした同類として、また、優れた技術を愛するが故に雑賀鉄砲衆を欲したのではないでしょうか。本願寺との戦争を長引かせたのは、どこかに雑賀衆への愛着があったはずです。ですから、雑賀衆は信長最大の敵てはなくて、「最愛」の敵だったのではないでしょうか。


平成11年4月27日 筑前守様
 (1) 石山合戦が10年も続いたのは、本願寺( 雑賀衆 )の武力と、混成部隊をまとめた雑賀衆( 鉄砲の存在 )によるものが大きかったことは否定できないと思います。しかし、それだけだったでしょうか ? 最近ではオウムに代表されるように「宗教」という存在もあったのではないでしょうか ? 情報が極端に少ない時代、お経を唱えて死ねば極楽浄土へいけると洗脳されれば徹底抗戦の道しかないと思います。また、農民達にとって他に取るべき道も無かったと思います。
他の要因として
1 攻めにくい場所
2 内応者がほとんどでなかった
3 毛利水軍の存在
 (2) 武田騎馬軍団について
 武田騎馬軍団を壊滅させたのは信長の兵力というのは少し疑問です。「兵力」では断然甲州兵の方が強かったと思います。信長が勝てたのは兵器とその運用と勝頼の気質だと思います。本来なら追撃戦をするのが当然であるのに、敗走する武田兵には行いませんでした。 「職業的武士」=現代でいう「職業軍人」とは少し違うのではないでしょうか? 雑賀衆はそうだったかもしれませんが。信長の兵特に足軽などはお金で雇われたただの傭兵にしかすぎなかったのでは?( プロ意識のない兵 )。

追記::皆さんにご意見をお聞きしたいのですが。
 石山合戦や延暦寺焼き討ち、長島一向衆撲滅等苛烈な行動をした信長ですが、宗教そのものは禁止していませんでしたよね。
何故でしょうか、彼独自の哲学・美学によって行動していると思いますが。-------->この疑問に答えられる方は、ここへメ−ルをお願い致します。または、孫市BBSにてお願い致します。


平成11年4月28日 雷震子様
 信長最大の敵というテ−マを「信長最大の危機」という観点から見るとよくわかると思います。信長最大の危機は、
その1
 いわずと知れた「桶狭間」ですね。この時点の最大の敵は「今川」です。まだ自国の尾張そのものも平定出来ていない、弱小の戦国大名でした。しかし、信長の天分により運が彼を助けた。
 最近の歴史家の中に桶狭間に勝利したのはそれなりの戦略と必然性があったという人がいますが、私はそうは思いません。まったくの偶然でした。もし雨が降らなければ、もし斥候が今川義元の所在を確認できなかったら、奇襲は成功しなかったでしょう。
その2
 そのふたつは、浅井朝倉連合軍との戦いです。姉川のあと武田信玄が足利義昭や本願寺などと連絡をとりつつ上洛しょうとしたが、どういうわけか朝倉は本国に引き揚げています。まさか越前の一向一揆と信長が手を結ぶわけもなく、また、彼一流の凋略や裏工作が成功したとも思えない。朝倉が引き揚げなければ信長包囲網が完成して最大の危機となったでしょう。武田信玄単独で果たして信長と戦えたか疑問です。
その3
 その3は、三好一党、本願寺との戦いです。三好はともかく、本願寺そのものは「殿原衆」という武士団を抱えていましたが、これは宗主を護衛する任を負っているだけで戦力とは呼べませんね。また、西国の毛利の援護があったにしても、10年もの間戦えるとはとても思えません。地理的な条件などを考えてみると、やはり「雑賀衆」の存在を無視することは出来ませんね。雑賀衆が本願寺とりわけ一向一揆を指揮、指導したと考えるのが妥当ではないかと思います。


平成11年5月3日 にんじゃ様
 信長最大の敵は足利義昭でしょう。もちろん、義昭一人では何も出来ませんが、その点では武田信玄や上杉謙信も同じことがいえるでしょう。本願寺も苦しめたという意味ではNo1かもしれませんが、所詮、攻めあぐねたという話しですから。
 天下が見えてからの信長を窮地に陥れたのは武田、朝倉、浅井、本願寺などのいわゆる包囲網ですが、絵を描いたのは、将軍義昭その人です。腐っても鯛、足利将軍の音頭がなければこの同盟は結べなかったでしょう。その意味で最大の敵ではないでしょうか ?


平成11年5月3日 極めし者様
 信長最大の敵それは・・・・・・時間・時代( くさいですねぇ )   ( 注 )管理人いわく・・・・・全然くさくない。本当に「時間」かも。


平成11年5月3日 マモル様
 天正3年以降の織田軍団は、だいぶ様変わりしますからね。モタモタせざるをえない状態だったと思いますよ。
一つは、天正3年11月( だっけか? )の信忠への家督譲与。そして美濃、尾張の割譲。
一つは、同年の越前の国割。柴田勝家らが越前統治を任され、軍団制とも言える制度が始まっている。
一つは、柴田を皮切りに、明智、羽柴らも単独で征討に出かけるようになる。
 ですからねぇ・・・
 信長の最大の敵は・・・自分の天下一統構想かもしれませんね。