雑賀衆・鈴木孫市の実像


鈴木・雑賀一族研究会 研究員 鈴木 勲
加賀鳥越城主鈴木出羽守末裔

 

□戦国を震撼させた雑賀衆・鈴木孫市

 戦国時代も半ばを過ぎた時、従来までの戦いを一変させる新兵器が登場した。鉄砲⇒火縄銃である。
 この新兵器を駆使し、戦国大名に恐れられた雑賀党とは・・・・・・・。
 『雑賀衆を味方にすれば合戦には必ず勝ち、敵に回すと敗れる』
全国の有名大名が信じ、あの手この手で味方にひきいれようとした戦国時代の傭兵集団が紀州の雑賀衆である。雑賀衆が当時、最強の傭兵集団と目されていたのは、棟梁格の鈴木孫市を筆頭に射撃の名手を数多く揃えた特異な鉄砲集団であったからである。

 鉄砲が種子島に伝えられたのは天文12年(1543年)であり、これが日本の軍事上の大きな転換点になったことは改めて説明するまでもない。ただ、伝来後しばらくの間、鉄砲は敵を驚かす程度のもので実戦には役立たないと考えられていた。それをいち早く実戦に威力を発揮する新兵器として仕立てあげたのが雑賀衆であった。
 雑賀衆とは、紀ノ川河口の大きな三角洲にあった雑賀荘(現在の和歌山市)をはじめ、紀ノ川北岸の十ヶ郷、宮郷、中郷、南郷の五つの荘が形成した雑賀五搦をさす。その雑賀五搦は共和国のような体裁をなし、五つの荘の長が協議、相談して共和国の運営に当たっていた。鈴木孫市はその長の一人である。戦国当時の雑賀五搦の人口は約七万人で、うち八千人が鉄砲を主力武器とする兵であったといわれている。

 また、雑賀衆の保有した鉄砲の数については、さまざまな説があるが、少なくとも三千挺はあっただろうというのが、まず間違いないところである。元亀元年(1570年)から始まった石山本願寺と織田信長との戦いの渦中に、顕如上人が、雑賀衆に鉄砲一千挺を早急に調達するよう要請した証文も残されている。
 織田信長は、元亀元年の石山合戦の直前に先端が切られた姉川の合戦で五百挺の鉄砲を使っている。だが雑賀衆は、それより遥か20年も前から鉄砲隊を組織し、戦場で鉄砲を自在に使いこなしていたのである。
 

□黒潮を利用した種子島との往来で鉄砲をいち早く導入

 では、なぜ雑賀衆は諸国の大名に先駆けて強力な鉄砲集団を組織できたのであろうか。まずは地の利である。
 紀州に鉄砲を持ち込んだのは、根来寺の僧坊の一つである杉之坊の有力者・妙算の兄で、紀州小倉の豪族・津田監物である。監物は鉄砲伝来の情報に接すると即座に種子島に渡り、鉄砲製造の鍵となる螺子切りの技術や火薬などの製法をなどを学び、天文13年(1544年)に帰国したとされている。種子島に鉄砲が伝来した翌年である。
 監物が鉄砲のことを早くに知り得たのは、紀州・和歌山の港が天然の良港だったここと無関係ではない。紀州沖には黒潮が流れる。黒潮には上り潮、下り潮があり、下り潮に乗れば、当時対明貿易の拠点だった種子島まで和歌山港から四日程で到着できたという。

 さて監物の持ち帰った鉄砲技術は、まず根来に入った。根来はもともと高度な技術が要求される宮大工、鎧鍛冶が多くいたところであり、たちまちのうちに鉄砲の銃身の巻き立て、尾栓の螺子切りの方法を編み出していった。それまでは、螺子切りの技術がないため、一発撃つたびに鉄砲の尾栓が飛んで使い物にならなかったのである。
 根来では鉄砲生産技術が急速に浸透した。同時に、鉄砲の技術は、根来と目と鼻の先にあり、かっ、血縁関係も深かった雑賀にも伝わったことはいうまでもないことである。
 かくして紀州には真言宗・根来寺の僧兵を中心とする鉄砲集団の根来衆と一向門徒でもある雑賀衆という二つの強力傭兵集団が誕生することになるのである。

 ところで、根来衆と雑賀衆は地縁、血縁関係を保ちながらも宗旨の違いからか、それとも、ともに独立不羈の紀州人の気質からか、度々対立した。ただそれがお互いに鉄砲の製造、射撃技術、戦術を磨いていったとも思えるのである。それに、紀州人には海外交易の中で自然に育まれた、新しいものに対する咀嚼力がある。それで根来、雑賀の鉄砲技術の進歩は急ピッチで進んだ。特に雑賀衆の工夫には、瞠目すべきものがあった。

 当時の火縄銃は今日のもと込め式の銃と違って反動が少なく命中率も高い。さらにダムダム弾のように馬の頭を打ち砕くほどの殺傷力があった。しかし、難点も多かった。まず、火薬である。火薬は吸湿性があり、天候が悪いと湿ったり固まったりして発火しなかった。発火しても弾が十米程前にポトリと落ちるような状態になる。それをどのような天候でも発射出来るような硝薬の調合法を開発したり、火薬と弾を別々に込めるのではなく、薄紙で火薬と弾を一緒に巻いて薬莢のようなものをつくり、それを装填する。"早合わせ"という装填法を編み出したりしている。この早合わせで装填のスピ-ドは従来の三倍になったという。また、銃口と鉛弾の口径の調整技術も磨いた。さらに銃には、弾が右にそれたり上昇カ-ブを描くなど、それぞれ癖がある。雑賀衆はそれらを慣らしながら使い、弾込め訓練にも心血を注いだに違いない。


□高価な鉄砲の大量調達を可能にした雑賀衆の恐るべき財力
 
 雑賀衆の鉄砲集団組織でもう一つ忘れてならないのは、数多くの鉄砲を調達した"財力"の凄さである。雑賀荘のあった紀ノ川下流の沖積平野は肥沃で、紀州では最も米の生産性の高いところである。元来が豊かな土地柄なのだ。それに加えて雑賀衆は天然の良港・和歌山港を持っていた。神戸港は地形が悪く、強い西風が吹き、とても良港といえる港ではなかった。大阪の港も浅くて大型船が入れない。そこで、海路大阪に運ばれる物資は、まず和歌山港まで運ばれ、そこで小さな船に積み替えて大阪に送られていた。和歌山が畿内における海上交通の要衝の地だったのである。

 黒潮を利用しての海上交易も盛んであった。当時、種子島が対明貿易の拠点であったことはすでに述べたが、明との交易で仕入れたのは絹、宗銭、水銀、薬などで、それらを日本で売れば、仕入れ値の十倍で売れたそうだ。それだけに雑賀衆が対明貿易で得た利益は膨大なものであったと推察できる。
 鉄砲は泉州・堺でも盛んに作られていたが、堺での当時の鉄砲の値は、一挺が米十五石であったと古文書にある。雑兵の年棒が一石八斗だったというのだから、現在の大学新卒者の年棒を二百五十万円と仮定すると、鉄砲一挺で二千万円ほどした計算になる。雑賀衆は、それほど高価な鉄砲を短時日の間に数千挺も調達しているのだから、その財力には驚かざるを得ない。

 雑賀衆が鉄砲集団を組織し、各地に赴く傭兵集団となったのは、応永六年(1399年)に畠山基国が紀州の守護となってから代々守護職を継いでいた畠山氏の兄弟に内紛があり、そこに傭われて参戦してからである。
 以後、近代兵器を大量にに揃え、自由に酷使できる戦闘集団は松江、越後などの各地の大名の要請を受け、雑賀を出て戦った。その戦は負け知らずであり、戦勝後に各大名から参加報酬を受け取った。その額は定かではない。しかし、領地の代りに得た金銀での報酬は相当な額であったと思われる。雑賀衆は、後の天正五年(1577年)に、織田信長の雑賀総攻撃を受け、さらに天正十三年(1585年)、豊臣秀吉攻められ四散するが、多くの雑賀衆は床下に秘蔵していた金銀で、明治初年まで働かずに生活してきたという話しも伝えられている。

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歴史浪漫 ( 旧歴史ネットワ-ク )      管理者 鈴木 稔

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