蓮乗寺

「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」の墓がある平井・蓮乗寺




蓮乗寺山門

 

 開基

 開基は不詳であるが、当寺に伝わる「鈴木孫市郎義兼守本尊由来書」によれば、天正十年(1582年)の織田信長の鷺の森本願寺攻めのとき、鈴木孫市郎は負傷するが、肌身に付けていた阿弥陀如来本尊の御加護によって大事にいたらなかったことを感謝して、この阿弥陀如来御本尊を守本尊として安置したのがはじまりである。従って、開基は天正十年以降であると推定できる。

□ 開基者 

 当寺院の開基者は、「鈴木孫市郎義兼釈法誓」です。

□ 由緒

 弘法大師が高野山に金剛峯寺を建てたのは弘仁十年( 819年)であるが、以来朝廷や幕府の庇護を受けてこの大道場は大きな権勢を誇って、紀北一帯は真言宗のメッカであった。この真言宗の根本の地に浄土真宗(一向宗)本願寺派門徒が入りこんだのは、高野山開山より七百年後の天文年間であった。
 紀ノ川流域にできた大デルタ地帯は、永い年月を経て水陸の天恵を受ける沃野となり、富裕な農漁民らによる進んだ文化圏、雑賀の荘を形成させていった。この人々達がやがて浄土真宗(一向宗)に帰依して一大勢力を形成していった。
 永禄六年(1563年)に来日したとされるポルトガル・イエスズ会宣教師ルイス・フロイスもその著書「日本史」に、富裕な農漁民らによる進んだ文化圏の存在を紹介している。
 
 開祖親鸞の時代には、紀州全体で5ヶ寺に過ぎなかった浄土真宗(一向宗)の寺は、蓮如上人の時代には64ヶ寺になり、雑賀の荘だけでも43ヶ寺になった。さらに顕如上人の時代になると紀州全体で146ヶ寺、雑賀の荘だけで96ヶ寺を数えるという脅威的な広がりをみせた。しかし、当時は必ずしもそれぞれが寺院の形をなしていたわけではなく在家の門徒が多かったのだろう。当寺もそうした道場の一つであったと考えられる。
 

雑賀孫市像

雑賀孫市像

雑賀屋商事(株) 雑賀政徳氏ご提供
現 岡本様 所有

 元亀年間から天正年間にかけて、一向宗門徒にとっては史上最大の法難である石山合戦のおり、生命・財産を投げ打ち、ひたすら本願寺をお守りした門徒衆の中核となったのはいうまでもなく雑賀衆であった。
 その頭領の一人鈴木孫市が居を構えていた場所が「平井政所」(現在の寺より約100メ-トル西)で、その地域の人々が平井道場、或いは孫市道場と呼んだのが蓮乗寺の発祥です。


  □ 守本尊
御本尊

鈴木孫市が、自己の守本尊を安置
 当寺に伝わる「鈴木孫市郎義兼守本尊由来書」によれば、天正十年(1582年)の織田信長の鷺の森本願寺攻めのとき、鈴木孫市郎は負傷するが、肌身に付けていた阿弥陀如来本尊の御加護によって大事にいたらなかったことを感謝して、この阿弥陀如来御本尊を守本尊として安置したという。

□ 鈴木(平井)孫市郎藤原義兼墓   
平井孫市郎義兼墓  鈴木孫市郎義兼の没年は、墓の主石に天正十七年(1589年)五月二日と刻まれている。この墓の主石は天保三年(1832年)五月上旬に第九代鈴木正因により新造されているが、台石は古い形式のものである。
 
 この墓の主が、鈴木孫一重秀ということになれば、多くの謎が解けるが、残念ながら別人である。
 この墓の主は、頭領の鈴木孫一重秀が不明になった後、残された鈴木一族を取り纏めた重要な人物であることは間違いない。


 上記画像の掲載については、平井・蓮乗寺のご住職の鈴木 稔様( 幹事と同姓同名です。)の許可を得ています。また、画像の提供者は同ご住職鈴木 稔様です。当ホ-ムペ-ジの管理・運営についてのお問い合わせは、歴史浪漫(旧歴史ネットワ-ク)鈴木稔宛へお願い致します。

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