はじめに

 鄭成功を題材に選んだ理由は、彼が日本と深い関わりを持つと言うことと共に、私自身にも少なからず関係があるからである。 私は京都府宇治市の、黄檗山萬福寺を総本山に持つ黄檗宗の末寺、観音寺の出身である。  黄檗宗*1の開山は隠元禅師であるが、幼いころ父から鄭成功と隠元禅師の関わりを聞かされたことがあり、そのことが鄭成功に興味を持った一つの理由でもある。 日本人の母を持ち、日本に生まれ、我が国日本と深い関わりを持つ漢民族の英雄である鄭成功は、以上に述べた個人的な理由からも卒業論文の題材にふさわしいと思った。 鄭成功は日本でも有名である。日本人とのハーフであるという点、また日本人が元来、判官贔屓であるという感情も合わせてどの中国の英雄よりも愛されている。文学作品では近松門左衛門の「国性爺合戦」*2 のモデルに成っているし、近年では野田秀樹が「国姓爺合戦」を元にし近代演劇として書き直した「野田版・国姓爺合戦」等もある。またゲームの世界でも明末の英雄として登場する。このように広く日本人にしられ、 なおかつ愛されている外国の英雄は鄭成功以外には居ないとわたしは思っている。しかし、調べるに当たってそれが故に苦労することもあった。日本人に愛されてると言う点、 また、これから述べていくが、明王朝復興に殉じたその劇的な一生で多くの小説の題材にされている一方で、研究書は意外に少なく、その資料を収集するのに苦労した。国立国会図書館に赴き検索をしたのだが膨大な文献が見つかる反面、そのほとんどが史実に基づいた歴史研究資料ではなく、その波乱な人生を描いた小説だった。読み物としては大変面白いが論文の資料としてはあまり役に立たなかった。市立図書館などでは小説等しかおいてなく、また書店でも同じ様な状態だった。また数少ない貴重な資料と思われる文献も一般貸し出しを行っていない物も多く非常に辛かった。なので参考にした文献はほとんど寺尾善雄の著書一冊といっても良いぐらいになってしまった。ただ、偶然一九九九年(台湾民国八八年)に台南を中心に鄭成功に関する展覧会、研究会が開かれていて幸運にも台湾の知り合いを通じてその論文集などを手に入れることが出来た。この論文集や資料集は当然中国語しかも繁字体でかかれていて読むのに苦労したが、日本では知ることの出来ない鄭成功についての記述をみることが出来て非常に役に立った。 この論文では、台湾では鄭成功はどう見られているのか、そして、日本では人格者、英雄として語られている鄭成功が、果たして本当にそうであったのかについて書いていこうと思う。
第1章  鄭成功の足跡  
第1節   生い立ちから渡明まで

鄭成功は一六二八年(明天啓四年)八月二十七日(陰暦七月十四日)に日本の平戸に生まれる。父は貿易商*3 そして母は日本人田川氏の娘である。幼名は福松で、長じて森と名乗り、後に成功と改名した。号は大木で、死後はその生き様になぞらえて忠節とおくりなされた。幼いころから文武に秀でていたそうである。7歳のころ母と弟を日本に残し父のいる明にわたり南京の大学に入った。このころ父の芝竜は明の呼びかけに応じて官位を与えられかなりの高官になっていた。十五歳で学生員の試験に合格して晴れて「秀才」となった。つまり科挙の第一段階をクリアしたのである。父の意向により科挙を通りそのまま文官として明朝に仕官するはずであった。高官芝竜の一門として、またその文武に秀でた人となりによって成功は周りの人望を集めて将来を嘱望される人物であった。  
第2節   滅清復明の旗を掲げるまで

時代は明末で李自成の反乱やまた力を付けてきた後金の攻撃もあって帝都北京は落城し皇帝は自殺した*4。歴史上明はここで滅び以後は清時代になる。しかし、まだ清は華北部を占領したに過ぎず、華南では明王朝の生き残りを皇帝に据え、清と戦ったていた。しかし、各個の諸勢力は互いに連携していたわけでなく、個別に王を立て抵抗していた。また擁立する者の思惑の違いから反目さえしあっていたのである。これでは勢いづく清軍に抵抗しきれるはずもなかったと思う。ほどなくして南京も落城した。明太祖の血筋である魯王、唐王はよそに逃れて生き残ったので、遺臣たちはこれを立てて明を名乗った*5。このうち唐王擁立には鄭芝竜も関与しており、南安伯に封ぜられ南明きっての重臣に収まっていた。落城した南京を逃れて成功も父の元に来ていた。そして二十二歳の時唐王(隆武帝)に謁見して朱姓を賜った。朱成功、国姓爺の誕生である。
 第3節   父との離反

唐王を立て重臣に収まった父芝竜だが、すでに明朝を見限っており清との接触を持っていたようである。元々芝竜は自分の立身の為に唐王に力を貸しただけで、清が地位を約束してくれるならいつでも清に降伏するつもりでいた。遂に芝竜は清の空手形*6を信じて清に降ってしまった。芝竜は成功にも共に降伏するように勧めたが、成功は頑として応じなかった。結局芝竜は騙された形で北京に護送軟禁され、成功は「殺父報国」の旗を掲げ、打倒清朝、明朝復興への戦いに身を投じていく。しかしなぜ成功は父と離反してまで明朝に忠義を捧げたのか。成功が育った時代すでに明朝は傾いており、滅ぶのは時間の問題であった。にもかかわらず成功は明室復興にかけた。それには母の影響が強かったのではないかと思う。成功と離れていた母も一六四五年(明隆武元年)に渡明していて、南京にいた。。ところが華南に進軍が攻めてきたのを受けて自殺してしまった。成功の母はいやしくも日本武士の娘であったので、敵に降るのを潔しよしとしなかったのだと思う。間接的ではあるが、成功が大切に思っていた母は清に殺されたし、なにより成功も母から「武士は二君に仕えず」という武士道精神を受け継いだのだと思う。そして唐王より朱姓を賜ったと言うことに恩義感じ、明朝に忠義を捧げたのではないだろうか。借りに、成功が先に清の皇帝に謁見し任官されていたとしたら、清に一生を捧げたかもしれないと私は思う。漢民族であると言う以前に日本人的精神が成功を忠義の士にしたのだと私は考えている。  
第4節   南京攻略

明朝復興を掲げる成功軍にとって最大の攻略目標は南京であった。王室復興の為には王都の回復が、なにより大切だと考えたのだと思う。今はまだ南京を攻める力はなく、清軍に抵抗する力はないから、福建の廈門や金門を拠点に江南での地盤を固め、それから北上し南京、そして北京を攻撃すべきだという家臣の意見に成功は耳を貸さなかった。ただひたすらに南京を攻略しようとする。この辺りから私は成功は戦術レベルでは優れた将軍であったが、戦略、つまり大局を見る目はなかったのではないかと考えている。忠義のあまり明室復興を思いすぎたことが、成功の視野を狭くしていたかもしれないが、家臣の言うとおり、成功軍は精強で侮りがたいとはいえ、清軍からみれば一辺境を押さえる反乱軍でしかなかったように思える。 清軍は北方の民族であるので、騎馬戦には強いものの、江南の様に川の多いところでの戦いには不慣れであった様だ。だから、福建を拠点に地盤を固めれば簡単には征服できなかったと思う。水軍は弱かったのだ。その証拠に成功が台湾に拠点を移してからしばらくは、降伏を勧めるものの大規模な攻勢にはでなかったし*7、成功の死後もなかなか台湾を落とせずにいた。成功は無理に南京攻略に打って出て無駄に戦力を消耗してしまったと私は思う。 それともう一つ、南京を落とすには奇襲しかないという進言にも成功は耳を貸さなかった。このことからも私は成功の将軍としての才能を疑ってしまう。  
第5節   台湾攻略にいたるまで

台湾攻略を行ったは、南京攻略に失敗し兵力を半減させてしまったのと、清が遷界令を出して、大陸封鎖をしてしまったので、廈門、金門の維持が難しくなってしまったことが理由である。 清軍は成功が南京攻略に失敗して兵を撤退させると、これを好機とみて反転攻勢にでた。成功軍は弱体化していて今ならうち破れるとみたのだ。しかし、南方での戦い、とりわけ水軍戦では大いに成功軍に分があり、大軍を送った清軍はこてんぱんに負けてしまった。依然として成功軍が侮れない戦力を持っていると知った清軍は降将の黄梧*8の進言を受け入れて大陸封鎖策の取った。遷界令とどういったものだったのか。以前は鄭成功の中枢にいた黄梧は成功軍の本拠地のである金門、廈門の弱点を知っていた。金門や廈門は沿岸近くにある小島で、守るには都合がいいがとても大軍を養うだけの作物はとれなかった。であるのになぜ軍を養えたかというと、大陸側の対岸の住民の協力があったからである。住民達が危険を冒して、大陸から海を渡って兵糧や軍資金をはこんでいたのである。これを知っていた黄梧は沿岸部の住民を内陸に移し金門廈門に近づけないようにすれば拠点としての力は弱体化し、無力化すると進言した。これを受けて清軍は沿岸住民を内陸に移し海岸から20キロ以内を立入禁止にした。これが遷界令である。さらに、福建や広東の役人の多くが鄭成功の息のかかった者、また協力的な者でこれらが、成功の目となり情報収集をしていたことを黄梧は知っていたので、これを排除した。 こうして収入源をたたれ、情報源も失い、連携を取りたかった永暦帝、李定国もやぶれ孤立無援となった鄭成功は新しい拠点を、しかも大軍を養える土地を必要とした。そこで浮かび上がったのが台湾である  
第6節   台湾の王道楽土

台湾は以前鄭氏が拠点としていたところで、海に囲まれ天然の要害であった。脆弱な清の水軍では容易には落とせそうもない。しかも土地も肥沃で大軍を養うこともできる。そういった分けで鄭成功は台湾攻略に取りかかった。建前上は新しい拠点をえて清軍に備え、機会をうかがって明朝復興のために、大陸に侵攻すると言うものであったが、実際には鄭成功は、すでに清の天下は定まり、もはや中原を回復するのは不可能であると考えていたようだ。その上で台湾を新しい国土として大明帝国を名乗り台湾に王道楽土を築こうと言うことであったようだ。 この考え方は国民党の民国政府とまったく同じであるのが面白い。台湾は地政学的にも大陸に対して重要な位置にあることの証明であると思う。 その当時台湾はオランダの支配下にあった。南京陥落の前後に大陸から逃げてきた漢民族も多数いたが*9、少数であるオランダ人が実権を握っていた。オランダ人はゼーランジャ、プロビンジャ*10の二つの城を築きそこに籠もっていた。成功ははじめ平和的解決の方法を探すがオランダ人は受け入れなかったので、武力に訴えた。大軍の成功軍にかなうはずもなくあっという間に両城は陥落し、以後台湾は鄭氏政権の支配下に入った。  
第7節   晩年まで

鄭成功と言うと台湾というイメージが強いが、実は鄭成功が台湾に渡ったのは晩年近くになってからである。成功が台湾を攻略したのが一六六一年(明永暦十五年、清順治十八年)で、翌年の一六六二年(明永暦一六年、清康煕元年)には、没している。台湾を拠点として清と戦ったのはむしろ子の鄭径や孫の代である。一六七三年(康煕十二年)大陸では呉三桂らの三藩の乱が起こり、鄭径はこれに呼応する形で台湾から打って出て、一時的に海燈を取り戻す戦果を挙げている。 夢はたせず台湾に没した鄭成功だが、開台聖王と呼ばれるように屯田兵制度などを行い台湾の開発に力を入れた。そのころの地名が今でも残っている。
第2章 鄭成功と日本の関わり  
第1節   鄭成功と日本

鄭成功は知っての通り日本の平戸で生まれた。(第一章、第一節参照)しかも、母親は日本人である。日本人が彼に親しみを持っているのと同様に、鄭成功も日本を故郷として親しみを持っていたようである。寺尾氏の著書*11には、冒頭に「国姓爺城中のありさま、男女の風俗、四季折節の儀式、城内正朔、元三に門戸に門松を飾り立つること、日本の如く祝したぐい、鄭成功、日本故郷を慕うの意深かりと見えたり」と、かいてある。これは五島一官*12の子が帰国後述べた感想であるらしい。大陸や台湾で、正月や春節を過ごしたことがないので解らないが、おそらく門松を飾ると言う風習はないと思われる。にもかかわらず鄭成功の城中ではそれが行われていたと言う事実は五島一官の息子が意深かりと言ったとおり、いかに鄭成功が日本に親しみを持っていたかの証である。成功は日本を単なる貿易相手と言う以上に、母の母国、そして自らの故国として友好国とみていたようである。 成功が生まれ生きた時代、日本は江戸時代初期で、丁度三代将軍家光、四代家綱の時代である。江戸幕府が開かれ、国政の基礎を固める時代であった。また鎖国し海外との交流を絶つ時代へと入っていく。時代はさかのぼるが一六一二年、鄭芝竜が家康に謁見した*13という記録も残っている。当時家康は家督を秀忠を譲り、駿府に隠居していたが未だ幕府に大きな影響力を持つ影の権力者であった。その家康に謁見を許されると言うことは、いかに鄭氏が大きい力を持っていたか推測できる。  
第2節   救援要請 乞師・乞資

鄭成功、及び鄭芝竜そして明復興を掲げる諸侯の、日本に対する乞師ははっきりと記録に残るもので二十三回*14も行われている。日本以外にもローマ教皇などにも援軍要請を送った形跡はあるが、その中でも日本に対する要請は数、質共に飛び抜けている。中には皇帝の勅書として援軍要請を行ったこともある。ご存じの通り漢民族は中華思想*15が表すとおり、歴史深き誇り高い国である。古くから交流があったとはいえ、東夷とよんだよその蛮族に力を借りようとして、皇帝が勅書まで書くのである。これはいかに明軍の情勢が苦境にあったかと言うことを表すとともに、日本に好意を持っていた証だと言えるのではないだろうか。失礼な話だが、中国人が素直に頭を下げるところは想像しがたいものがある。このことはそれほど大きな意味を持っているのである。 公式の記録では日本から救援を送った事はないことになっている。しかし「鉄人」「倭銃隊」*16の記述を見る限り、非公式の救援やまた浪人などが活躍の場を求めて大陸にわたり成功や諸侯に力添えしたことがうかがえる。 大陸の側では非常に日本を高く評価していたようだ。その理由に「倭寇」と呼ばれた海賊の猛威があった。倭寇の全てが日本人であった分けではないだろうが、その猛威は大陸の人に「屈強な日本武士」のイメージを与えていたようだ。一方、救援要請を受けた日本側ではどうだったのか。最初の内は幕府でも真剣に討議されたようである。たびたびの引用だが寺尾氏の記述によれば、徳川御三家も乗り気でごぞって総大将をかってでたようである。おそらくは内外に徳川の権勢をしめし、また国内に置いても自己の発言力を高めたいという思惑があったのではないか。家光も内々に承諾していたようだ。事実はっきりとした派兵の計画書も残っている*17。また、徳川時代にあっても大きな勢力を保っていた薩摩島津侯は、長く明と親交があったこともあり、兵4万と武器、物資を用意しあとは大陸側の使者を待つのみ、と言うところまで準備を進めていた。一見、国を挙げて旧明軍を援助しようとしていた日本がなぜ公式には一度たりとも兵を送らなかったのか。それは幕府側の内情が物語っている。その当時は徳川幕府も興ったばかりでまだ盤石とは言える状態ではなかった。諸藩の配置換え、キリスト教対策やまた三代家光公の死去など天下未だ定まらぬ状態だった。このような状態では、他国、ましてや滅んだ国家を手助けする余裕などなかったのである。また当時の清は飛ぶ鳥を落とす勢いの国で敵に回したくないという思惑もあった。南京陥落後は幕府も「救援拒否」の意向を決め以後は中央に届く前に長崎奉行によって救援の要請は拒否された これらの記述はほとんどが日本側の資料の記述である。悲しいかな大陸側の記録にはほとんど出てこない。なぜか。この辺りにも乞師が失敗に終わった理由があるように思われる。前に書いたとおり、中華思想を持つ大陸である。日本ごときに救援を求めた等という記録はプライドが許さず無視しているのである。わずかに、成功近辺に記録が残るだけである。つまり、鄭成功は日本に親しみを持ち、力添えを乞うたとしても、その使者もまた、親日感情を持ち合わせているとは言えなかったのではないかと思う。将軍(成功)の命令で日本に来たものの、やはり釈然とせず、大した努力せぬまま帰ってきたのではないかと思う。そうでなければ滅んだとはいえ大国の使者が、長崎奉行ごときに門前払いされておとなしく帰るわけがない。借りに、成功自身が使者として来日していれば親族の口添えも有ったであろうし、なにより心から救援を乞うことが出来たのではないかとおもう。長崎奉行が拒否しても、せめて江戸に話が行くまで粘ったのではないかと思う。そうなれば日本も重い腰を上げ国を挙げ援助したに違いないと私は思う。そうなれば歴史は変わっていたかもしれない。  
第3節   非公式の援軍

前節に書いた通り、公式的には一度も援軍を送らなかった事になっている。しかし実際は貿易の形をとった物資援助や、甲冑やの日本刀の製造技術そして義勇軍としての援軍が幾度となく行われてたいたことは明らかである。貿易は貿易であると考えるかもしれないが、それは明らかに間接的ながら援助だと私は考える。当時徳川幕府は鎖国政策を取っている。平戸を唯一の外国船寄港地とし、さらにキリスト教布教のおそれの少ないオランダ人に限定している。それ以外の国は立ち寄ることすら認めていなかった。であるのに鄭芝竜、鄭成功の鄭一族やその他の大陸沿岸部の有力諸侯との貿易が行われていた記録が残っている。物資のやりとりがあったとすれば密貿易と言うことになるのではないか。しかも鄭成功などの取引はかなり大きな物だったとおもう。中央幕府がこれに気が付かなかったとしても、長崎奉行辺りは気が付かないはずがない。西洋のコルベット船*18と東洋のジャンク船は形状も違うだろうし、鎖国をしていたくらいだから監視も厳しかったはずである。にもかかわらず貿易は行われていた。これは推測でしかないのだけれど、中央幕府も気づいていて黙認していたのではないかと思う。表面上は清のこともあり援軍拒否したものの、心情的には明軍に同情し助けてやりたい気持ちは有ったはずである。その気持ちが黙認と言う形になって表れたのだと思う。  
第4節
   隠元と鄭成功
冒頭で述べたように、隠元禅師は京都府宇治市の萬福寺を本山にする、黄檗宗の開山である。中国の古黄檗の出身で黄檗臨済を日本に伝えた。また仏教の伝道以外にも日本に多くの物をもたらしている。たとえばその名の示す通り、インゲン豆は隠元禅師が伝えた物だとされているし、みんなが家で気軽に飲んでいる煎茶*19は隠元が伝えた物である。そんな僧侶、文化人としての隠元とは別にもう一つの顔があった。それこそが鄭成功と私を繋ぐ線である。 一六五四年隠元は日本の長崎にやってきた。そして隠元を乗せてきたのはなんと鄭成功麾下の貿易船だったのである。この辺からも鄭成功と隠元禅師のつながりを伺い知ることが出来る。隠元禅師は福建省の生まれで、当時福建では相当名の通った高僧であった。傾きかけた古黄檗寺を再建し、また反清勢力の心の支えでもあった。当時の寺は抵抗勢力の一角でもあった。弁髪を服従の証とした清に抵抗するため、知識人達はこぞって頭を剃り出家してしまったのである。髪の毛がなければ弁髪できないという分けである。そして隠元禅師も大明復興の志を持っていたようである。黄檗臨済を伝えるため、弟子達の反対を押し切る形で渡日を決意した隠元禅師に、援軍要請の使者としての働きを鄭成功は期待したのではないかと、近年言われている。でなければ清軍が華南に迫るひっ迫した状態で仏教伝道の為だけに、抵抗勢力のよりどころである高僧を送り出すはずはなく、それに割く艦艇や物資もないはずである。同郷の士として、同胞として希望を託し、隠元を日本まで送ったのではないだろうか。また日本側でもその意志を感じていたようである。隠元禅師が来日した時にはすでに幕府は「援軍の必要なし」の意志を固めていた。心情的に助けては上げたいものの、これからの貿易相手として、また敵に回したくない国として清をみていた。そのようなところに、のこのこと鄭成功麾下の船でやってきた隠元禅師は、危険分子だったのだと思う。長崎を出て京都に着いた隠元禅師は、摂津普門寺に軟禁されてしまう。これは日本が隠元禅師を、鄭成功ひいては亡国大明の使者とみていた証である。でなければ、反対を押して仏教伝来のために渡来した高僧を軟禁するいわれがない。しかも隠元禅師は日本に多くの物もたらしているのである。 父は生前私に「隠元は鄭成功のスパイだったんだよ」と言ったことがあった。それはこのことをいっているのだと思う。スパイと言う表現はどうかと思うが、隠元禅師が黄檗臨済の伝道者、開山という側面と同時に、鄭成功の使者であると言う側面も持っていたと言う仮設は、私も信じている。つまり、隠元禅師が鄭成功との関わりがなければ日本に明禅、黄檗臨済の教えも、煎茶やその遊び心も伝わることがなかったのではないかと思う。冒頭に書いたとおり、そういった背景があって私は鄭成功に強い興味を引かれたのである。
 第5節   鉄人、倭銃隊
日本人が大陸で戦っていたと思われる証拠の一つが、鉄人隊や倭銃隊である。中国側の記述は往々にして大げさであるので何処までが本当かは疑わしいものの、活躍したであろう事実は疑いようもない。 大陸と日本ではその地形や政治背景の違いから武器、戦術が異なっている。古来日本では戦いとは一対一であり*20、名乗り*21を上げて戦った。一人一人の戦力が高いのである。それに夜戦も強い。一方、中国は集団対集団の戦いである。このことから武器の発展も違った。たとえば弓。日本ではまず弓を射かけ、そして白兵にはいる。白兵中は弓など使わない。そのため身の丈ほどもある長弓と呼ばれる弓が発展した。一方の大陸では短弓が主流である。これは乱戦時でもつかいやすい様に作られている。火器についても違いがある。西洋から大砲と鉄砲が伝わったが大陸では大砲を重視して鉄砲は発展しなかった。集団にぶち込むには大砲の方が優れているからだ。一方日本は鉄砲を選ぶ。大筒と呼ばれた大砲は命中精度も高くなく、使いにくいと判断されたのだろう。それに、最終的には白兵になるので、あくまで合戦初期の援護射撃として鉄砲を用いたのではないか。さらに刀剣も違っている。大陸の剣は、西洋のそれに近い。刃で切るのではなくてその大きさで相手を殴り倒す物であった。一方日本の刀は鍛え上げられた刃で斬る物である。 話がそれたが、倭銃隊とは日本式の鉄砲を用いる部隊で、鉄人とは鉄の甲冑をまとって日本刀を持つ部隊である。それらは日本人と日本人のような格好をさせた者で構成され常に前線で戦った。まず、みたこともない武器で挑んでくる兵は不気味であったろうし、前に書いたとおり、日本兵は倭寇のイメージがあって屈強な感じを受ける。(第2章、第2節参照)そこにいるだけ鉄人は大きな威力があるのである。さらに憶測ではあるが日本風の兵を戦わすことによって「我が軍には日本の後ろ盾がある」という宣伝の意味も有ったのではないかとおもう。強い日本の後ろ盾がある。これは大きな影響力が有ったに違いない。 すこし鉄人に関する記述を引用してみる*22。「重さ五百斤(約300キロ)の石獅子を抱え上げさせ、それを持ち上げ練兵場を一周出来た者五千人を選び、鉄の甲冑、籠手、腰当て、頬面などのをまとわせ矢が当たっても通らなかった。甲冑は五色に塗られ手には太刀を取っていた」また「みる者はこれを”神兵”と呼んだ」恐ろしく強かった事が想像できる。また清側の記述でもその鬼神のような戦いぶりは賞賛を込めて書いている。この鉄人部隊にはかなり手を焼いていた様である。清の主力はもちろん騎馬隊であるが、鉄人部隊はその鋭い太刀で馬の足を切りまくったので大いに苦戦したようだ。
第3章  台湾での鄭成功  
第1節   台湾での鄭成功

鄭成功はいろいろな呼ばれ方をしている。鄭成功、国姓爺、延平郡王、開台聖王などである。実は鄭成功というのは通名で正しくはない。成功の幼名は「田川福松」であり、渡明して鄭姓を名乗ると名前を「森」とした。つまり鄭森である。一六四五年(明隆武元年、清順治二年)二十二歳の時、唐王(隆武帝)より明朝の国姓(皇帝の名字)である「朱」を賜り、それと同時に名前を森から成功に改名した。このことが理由で成功は国姓爺と呼ばれるようになった。これ以前は「鄭森」であり、以降は「朱成功」が正しい呼び名なのだが、成功自身が国姓を名乗ることはおそれ多い事であるとしたので、今日でも鄭成功と呼ばれている。 日本ではあまり馴染みがないものの、台湾ではよく延平郡王とも呼ばれる。一六五二年(明永暦七年、清順治十年)、永暦帝より延平王に封ぜられた。であるので、以降成功は延平郡王と呼ばれるようになった。また、台湾では鄭成功は台湾を開拓した功績をたたえられて、死後神として祀られた。この呼び名が開台聖王である。ただし、開台聖王は台湾に貢献のあった異人を神格化した総称でもあるようだ。 台湾の地図をさっと眺めるだけでも気が付くことだが、至る所で「延平」「成功」「国姓」と言う字を目にする。台湾の多くの都市では延平路、成功路やなどと通りに名前が付いていたりする。これは国父孫文や、初代総統蒋介石にも引けを取らない扱いである。また台湾全土に延平郡王祠、開台聖王廟、鄭氏廟などと呼ばれる成功や鄭氏一族を祀る祠や廟がある。知っているだけでも、以前訪れた事のある台南、高雄や花蓮、台中、台北、基隆など主要な都市には必ずと言っていいほどある。大陸(もちろん台湾でもだが)見かける孔子廟や関帝廟と同じ様な感じであちこちに立てられている。また台南火駅の前には立派な鄭成功の像がある。これだけとっても台湾でいかに鄭成功が愛されたたえられているかがわかる。  台北の中心部に蒋介石を祀った中正記念堂というところがある。かなり大きな敷地を有していて、出入りは自由になっている。ここは市民の憩いの場になっていて、朝から太極拳をする人や、歌やダンスの練習をするグループもいる。また東の方には国父孫文を記念する国父記念館がある。これと同じように成功を記念した成功記念公園もある。日本人にはピンとこないかもしれないが、これは破格の扱いである。孫文*23は国父と呼ばれる通り、辛亥革命を指揮し旧王朝体制から近代中国へと導いた偉人であるし、蒋介石は台湾政府の初代総統である。この二人は台湾にとって押しも押される偉人なのだが、その二人と鄭成功は並び賞されているのである。すこし違うかもしれないが、日本で言えば三人は坂本龍馬と、伊藤博文と東郷平八郎と言った感じである。 では台湾で鄭成功はこれほどまでに英雄視されるのであろうか。スペイン、オランダなどの列強を駆逐し、台湾を漢民族の支配の元に解放したという事実もさることながら、台湾が置かれている現状や国民感情にその理由があるように思われる。 鄭成功が本拠を台湾に移したのは晩年近くになってからだが、*24その本意はともかく台湾を本拠にし大陸をのぞみ、滅清復明を唱えた戦った鄭成功は台湾人の心情に合致するのである。異民族に支配された大陸を台湾から攻撃してこれを取り戻す。まさしく台湾の置かれていた状況である。*25  第2節   大陸と台湾での鄭成功感について
台湾での鄭成功について述べてきたが大陸についても述べてみたい。大陸での鄭成功の扱いは、台湾のそれと逆と言っても良い。大陸では鄭成功が、オランダ人などを駆逐し漢民族の支配下に解放した「台湾解放」の観点から鄭成功を英雄視しているようだ。台湾と同様に、鄭成功が滅清復明*26を掲げ、異民族である清と戦った漢民族的英雄であるという考え方は変わらないものの、なぜ「台湾解放」を重要視するのか。鄭成功が台湾に拠点を移す前は福州、つまり福建省を拠点にしていた。そして大陸から台湾を解放したのである。このことが大陸の台湾政策に合致するのである。大陸を解放しようとした、台湾を解放した、と言う歴史的事実の影響から、心情的政治的にまったく同じアプローチの仕方で逆方向から鄭成功の功績をたたえているのである。またこのほかにも大陸と台湾で異なっているところがある。台湾を訪れ、いくつもの鄭成功像を訪ね歩いたが、そのほとんどどれもが文人姿なのである。鄭成功はもともと科挙に合格した文官であったが、明朝滅亡の危機をまのあたりして、衣を脱ぎ甲冑に着替えた武人である。その証拠に大陸側の鄭成功像はそのどれもが、いかめしい顔をして甲冑を着込んで矛を手に取る武人姿なのだそうである*27。しかし、前述の通り台湾の鄭成功像は、みな文官姿である。この違いも面白いところであるとおもう。台湾では「開台聖王」の名が示すとおり、台湾を開拓した為政者のイメージがより強く表れて文人姿の像が造られたのではないかと私は思う。台南の延平郡王祠にある鄭成功像*28も文人姿でとても穏やかな顔をしていた。同じ民族で同じように英雄とたたえている人物の感じ方が、これほど違うという事実は大変興味深いと思う。共通の言葉と文化を持つ物でも、置かれた立場が違うだけで、捉え方がこれだけ違うと言うことは、民族が違えばそれだけ異なった感じ方をする証拠であるとも言えるのではないだろうか。  
第4章   英雄鄭成功の虚像と素顔

鄭成功は多くの小説や文学作品の題材にされている。その中で鄭成功は才あふれ、覇気に満ちた完全無欠のスーパーヒーローとして扱われることが多いように思う。完全無欠とまではいかないくても、かなり美化されて描かれている。部下を思い、民を思い、そしてなにより明朝復興に全身全霊をかたむける忠義の士と描かれる。果たして本当にそうであったのだろうか?文献を読む内にこの疑問は大きくなっていく。 まず第一に、離反者が意外に多いと言うことである。もちろん求心力もあり、多くの部将が成功の元に集っても来るのだが、その反面それと同じくらい離反者を出すのである。確かに、清軍は強大で投降者を出すことは仕方ないかもしれないが、それでも腹心と頼む者まで離反して清に降るのは納得がいかない。第二に、清への反抗勢力を結局糾合できずに終わった、という点である。小説などで描かれているとおりの人格者なら、国姓を賜るぐらいの力を持って反清勢力を糾合し一本化出来たのではないだろうか。戦闘の記録を見る限り、戦術レベルでの鄭成功の才能は疑いようもなく高い。海燈を寡兵で死守したり、その戦い方の鮮やかさは清軍も一目置いてた。にもかかわらず南京を攻略できず、離反者を出し、抵抗勢力を糾合できず、結局は大陸で最大にして最後の砦福州金門を守れず台湾に逃げている。その理由は彼の感情的な性格にあるように思う。鄭成功は部下の失敗に異常なまでに厳しかった。戦は時の運が絡む部分もあると思う。ましてや相手は大帝国清の軍隊。一度や二度の敗戦は仕方のないことだとおもう。しかし、成功は許さない。たった一度の敗戦の責任を死を持って償わせようとした。つまり斬首使用とするのだ。そのたびにその他家臣は成功に助命を乞う 。打ち首は厳しすぎる、せめて謹慎にすべきだ、と助言する家臣の言葉に耳を貸さず追放してしまったりする。これでは他の家臣も気が気ではない。次は自分かもしれないと思うだろうし、味方に殺されるくらいなら、清に降った方がましだと考えても当然である。  一つの例として、黄梧の離反をみてみたい。彼が清に降ったにはいくつかの理由がある。まず、李定国救援作戦の失敗の責任をとらされて、甲冑五百領の制作費を負担させられた。李定国は鄭成功配下ではないが、かなりの力を持っていて、明朝復興には李定国との連携が欠かせないと成功は考えていた。にもかかわらず、黄梧は失敗してしまった。失敗の罪を償うのは当たり前で、それぐらいでは離反はしなかったであろうが、さらに海燈の守将に降格させられている。つまり、二重に罰を受けたのだ。また、親友であった蘇茂と言う将軍は一度の失敗の為に、成功に斬られている。こういったいくつもの事が重なって、海燈という廈門、金門に近い要衝を守る将軍は離反してしまった。 成功には寛容さがない。とにかく失敗が許せないし、さらに危険なほど潔癖である。確かに軍規は遵守すべき物であるし、世の中の規律も守らなければならない物である。しかし、それも時と場合によるのではないか。失敗した部下には必要以上に寛容にする必要はないが、時には失敗を許し挽回のチャンスを与える方が良い結果を生むこともある。その事が鄭成功には理解できなかった、もしくは理解できても許せなかったのである。その他の英雄に照らし合わせてみると、やはり部下に厳しすぎた者は、志半ばで倒れている。日本では織田信長が同じような気性の持ち主であった。部下の失敗は決して許さず、きつく当たった為天下布武を目前にして明智光秀に討たれた*29。また同じ中国の英雄でも、見あたる。テムジンのよきライバルだったジャムカも部下に厳しく、さらに捕虜にも容赦なかったの*30で部下の離反を招き、テムジンに破れている。また漢の劉邦と覇権を争った項羽もその容赦ない残忍さで部下を失い勢力で勝っていたのに劉邦に破れた。 こうした鄭成功のストイックさは元来の物であると共に、明室復興の大儀を背負う重責、その責任感の強さ、また若くして大軍の大将になったという背景によって、拍車がかけられたのであると思われる。 また、その責任感の強さ、元来貴公子*31であったという理由から他人の助言を素直に受け入れられない意固地さもあった。冷たい言い方だが、鄭成功は負けるべくして負けたように思え、小説の描くような人格者の悲劇の運命とは異なっていると私は考える。鄭成功にもう少し柔軟性があれば歴史は変わったかもしれない。ただ逆にいえば、その意固地なまでのストイックさがあったからこそ、無謀とも思える明朝復興の大儀に殉ずることが出来たのかもしれない。  おわりに
今回の論文を通して、いろいろと気が付かされたことがある。まず、台湾や大陸では、それぞれ深い理由があって鄭成功を英雄視しているということに気が付いた。彼らは、私達日本人が考えるように、漢民族として異民族の清帝国と戦ったから、と言う単純な理由だけで、鄭成功をたたえているのではない。台湾を解放した事であるとか、台湾を開拓した功績であるとか、大陸、台湾がそれぞれの理由によって鄭成功の功績をたたえていた。また同じ漢民族の英雄であるが両国は異なった感じ方をしていると気が付かされた。また、そのことは民族が違えば見方も違うと言うこに改めて気が付かせてくれた。 次に、鄭成功は決して小説に描かれるような完全無欠のヒーローではないことが解った。感情的であったり、少し心の狭いところもあったりと、いろいろな側面持ち、非常に人間味あふれる人物であると言うことが解ってきた。そのことが解ると、よりいっそう鄭成功に好感が持てるようになった。 最後に。今回の論文を通していろいろと知ることが出来たが、残念ながら、大陸での鄭成功に付いて調べられなかった。卒業論文がおわっても、これから先鄭成功についてはまだまだ調べて聞きたいと思う。
参考資料

・明末の風雲児・鄭成功 寺善雄著 東方書房刊
・アジア歴史事典
・鄭成功と同時代史研究史 鄭成功同時代史研究会刊 非売品
・NHK歴史発見 NHK発行(同名番組の本版)
・国姓爺・延平郡王・開台聖王 台南市文化資産保護協会刊(中文繁字体)
・中国大百科全書
・南海の風雲児・鄭成功 伴野 郎著 講談社刊
・鄭成功興台湾文化資産検討会論文集 台南市文化資産保護協会刊(中文繁字体)


*1元々は臨済正宗(りんざいしょうじゅう)という。黄檗臨済ともよび、元来日本にあった臨済宗とは異なる。禅宗の一つであるが念仏禅というその独特のスタイルと、中国様式の伽藍で他宗とは一線を画す 大本山萬福寺は隠元の故郷古黄檗にちなんでいる
*2 通常は国姓爺だが、作品名としては「国性爺合戦」が正しい表記
*3その実海賊まがいの行為も行ったらしい
*4北京を落城させ、明を滅ぼしたのは李自成の反乱軍でそのご明の降将呉三桂を先鋒に後金軍が入城して清をうち立てた。
*5北京を首都とした明に対して南明と呼ぶ。といっても福州や雲南の当たりが精々の勢力範囲でもはや中原に影響力を持つことはなかった。
*6清は領土と地位優遇を約束すると言う嘘の書状で芝竜を降伏させた
*7王朝の地盤を固めるので精一杯で台湾ごときにかまっていられなかったと言うこともあるかもしれないが
*8元は鄭成功の配下の将軍。本文中にあるように、親友を斬られたりしたことを恨み清に降伏していた
*9このとき台湾に移住した漢民族を台湾では本省人とよぶ。これに対して国共内戦で破れた国民党軍と移り住んだ人々を外省人と呼ぶ。
*10ゼーランジャ城は今は安平古堡と呼ばれる一級史跡になっており、鄭成功時代の煉瓦壁も一部残っている。資料参照
*11参考文献 東方書店刊、寺尾善雄著「鄭成功、明末の風雲児」冒頭より。補足−寺尾氏は田川氏の末裔の鄭氏と同級であるらしい
*12鄭芝竜の友人でその息子は福州に渡り鄭成功と共に3年過ごし帰国した−上記参考文献より
*13資料失念。前述の寺尾氏の著書にも記述はある
*14参考文献 前述の「鄭成功、明末の風雲児」201Pより。間接的、非公式な物を含めばもっと多いと思われる
*15中国が世界の中心であるという考え方。北荻、東夷、南蛮、西獣などと周りは全て野蛮人だとした。
*16文中にも述べているが鉄人は鉄の甲冑をまとい、日本刀をや大斧持っていた。倭銃隊は日本式の火縄銃を使用していた。
*17参考文献 「NHK歴史発見6」より。東京大学にその資料が残っている
*18オランダ人がどのような船で来ていたか解らないのだが、その当時はおそらくコルベット船を使っていたのではないかと思う
*19大本山萬服寺には全日本煎茶道連盟があり、祖父、父共に事務局長を務めていた。代々寺とのつながりから立塔の僧侶がつとめることになっている
*20戦国時代に入り、火縄銃が伝来したことや、これに着目した信長によって集団戦闘へと変わっていったのだが
*21「やぁやぁ、我こそは〜」と言う戦い前の儀式
*22参考文献「鄭成功 明末の風雲児」鉄人、倭銃隊の章より抜粋
*23中正とは蒋介石、中山とは孫文の号でありこれも台湾の至る所で目にする
*24第1章、第7節を参照
*25現在は少し異なっている。李登輝は二つの中国と発言して波紋を呼んだ
*26抗清復明という記述もある。がしかし滅清復明の方がかっこいいのでこちらを採用
*27聞いた話だが、海峡を挟み台湾を望む形で立っているそうである。
*28資料編を参照
*29近年になってからは、怨恨説よりも、信長を嫌った朝廷の陰謀であるという説が有力
*30ジャムカは捕虜を鉄鍋で煮た言われている。
*31 若くして科挙に通ったり、父芝竜は高官であったりしたことからかなりプライドの高い人間であったようだ。