1998.10.30  フリューゲルス合併の話

 

 ついにつぶれるクラブが出てきてしまった。つい先日に「日本のサッカー界はどこか変だ」って話を書いたばっかりなので、あまりのタイムリーさにびっくりしてしまった。タイムリーなのを知ってるのは俺だけだと思うが。

 この様子ではまた、どこぞの読売の社長辺りが「企業名を閉め出したリーグが悪い」てな事を言い出すんではないかと思うけど、それもどことなく頷けるから不思議だ。リーグ開幕当初に川淵チェアマンが言っていた「地域密着」の理想は確かにもっともだけど、あの当時の状況を考えたら企業の力を軽視するのは合理的とは言えないんじゃないだろうか。

 そもそもそんな物があるとして、日本のスポーツ文化は他の国とは違っている部分が多い。サッカーリーグを作るにしたって、外の方法を参考にしながらも、もうちょっと現状を見てシステム作りをした方が良かったのではないか、という議論が今更出てきてもおかしくはないだろう。

 ヨーロッパを見てみると、クラブチームの地域密着というのは、ずいぶんと進んでいる。試合行うだけでなく、それ以外の部分でも地域への還元が行われている。これなしに地域密着のシステムはできない。そしてそのためには、スポンサーとなる企業の力が大きいのだ。クラブチームが経営するグッズショップや運動場を作るにしろ、試合開催による地元の経済効果を生むにしろ、バックにある企業が協力しないとどうにもならない。ヨーロッパのモーターショーのOPELのブースにミランの選手が並ぶように、チームは企業に還元し、地域にも還元し、地域の人はチームの試合やグッズに金を払う。そういった循環が長く行われることで、地域に密着したプロスポーツのシステムが構築されていく。試合場に来た人にたまごっちを配っている場合ではないのである。

 口先だけの理想を語るばかりでカネの流れも人の流れも分析し損なったJリーグのまずさは、別に今になって表面化したわけではない。ただ非常にドラスティックな出来事があったことに他ならない。ようやく一般紙の一面に記事が載るようになったのだから、喜ぶべきかも知れない。

 いままでJリーグを支えてきたのは、異常な好景気の残りかすと、浅薄なサッカー人気だけだ。今では前者はもう残っていないし、後者もずいぶん目減りしてしまった。当然である。

 何年か前、国立競技場に横浜マリノス対ジュビロ磐田の試合を見に行ったことがある。バックスタンド中央の席で見ていたのだが、ジュビロの若手福西という選手が交代で出てきて、僕は少し注目してみてみた。最近フル代表にも呼ばれるようになってきているようだが、その試合以降はほとんど見ていないので今彼がどうなのかは良くわからない。若いながらも、比較的戦術眼がしっかりした、将来性のある選手に映ったのを覚えている。

 試合の途中、中盤の底の位置に入った福西が、攻撃陣形が中途半端であるのを見て、一旦ボールを後ろに戻したことがあった。それ自体は取り立てて言うほどのことはない、まあ、落ち着いたプレーであるくらいの物だが、僕の後ろの席にいた若い女性はそれが気に入らなかったらしい。

「何でボール下げちゃうのよ!だめじゃんあいつ!」

 お、結構いい選手が出てきたな、と思って試合を見ていた僕はその言葉にがっかりしてしまった。立った一つのプレーの是非を巡って、ここで議論をしても仕方がないが、その言葉に唖然としたのをよく覚えている。当時の僕のサッカーを見る目が(もちろん今でも)優れているかどうかはわからないが、あそこで無理に前方にパスを出すような選手を見るために、僕は金を払いたくない。そのチケットは貰い物だったのでそんなことを言っても仕方がないが、とにかくあのプレーは全く「だめじゃん」と責められるようなプレーではなかった事を断言しておく。これは多分間違いない。僕と一緒に試合を見に行った僕よりもよっぽどサッカーを知っている友人が、スタジアムをあとにして「あんな奴がいるから、日本のサッカーファンはレベルが低い」と言っていたからそのはずだ。ここであえて自信がなさそうにしているのは、むろんジョークである。サッカーを知らないサッカーファンのためにあえて説明しておきたい。

 日本人がサッカーを知らないのは仕方がない。野球の影で日陰のスポーツだったサッカーが、そんなに理解を得ていなくても当然なのである。応援の仕方を知らないのもしょうがない。なにぶん初心者のやることである。僕も今だってずぶの素人みたいな物だ。よく教えてくれる人に巡り会えて多少偉そうに語っているが、所詮はこんなもんである。それでも去年のトヨタカップをテレビで見たバイト先の人に、「やっぱりすごいな。良い試合だったな。」と言われて、絶句するくらいにはサッカーを知っている。ここ数年のトヨタカップでもかなりひどい試合であったはずだ。

 にわかサッカーファンが、突然偉そうにサッカーを語り、サッカーが一種のファッションになったのは、概ねマスコミの影響による物だ。サッカーという名前が付けば番組が作れてしまうような環境で、誰がサッカーを知るようになるのだろう。このメディアの時代、文化の担い手としてのマスコミの役割は大きい。そのマスコミが率先して軽薄サッカー文化を作り上げていたのだ。叫ぶしか能がないようなアナウンサーと、自己顕示欲の固まりしかないような解説者で作られる試合の実況放送、話題性と人気の後を追うような選手の紹介。テレビや新聞のお粗末な批評。経済につみ取られた文化の芽がここにもある。

  選手の側にも問題がある。そもそもあの程度のプレーしかできなくて大金をもらうのが不思議だ。サッカー選手は、サッカーがずば抜けて上手いから金がもらえるのである。いい大人がボール蹴りの遊びで稼ごうと言うのだから、相当のレベルにないと難しい。へたくそでも、マスコミに取り上げられ、チームから大金をもらえばそれですんでしまう。ぼろい話である。プロ化が実現されたからといって、つい昨日まで草サッカーの延長のようなプレーをしていた人々が、なぜ突然金持ちになってしまうのか。訳が分からない。

 選手を育てるのはチームや自分自身である。能力に適切な金を払い、向上心をもって仕事(練習、試合)に励む。社会人として当たり前のことをしているのだ。確かにサッカー選手はサッカーに人生の大部分を費やし、その寿命は短い。体を削って仕事をしているし、人を呼んで金を取るわけだから、それなりの金を貰うのもわかる。だが、仕事に対して金を貰うのは、ごく当たり前の経済行為である。夢を与えるとか以前の問題で、もらっただけの仕事をする必要がある。

 選手の能力が低ければチームは大金を払うべきではない。しかし選手は金を貰う。選手がへたくそであれば、その試合に金を払うファンは文句を言うし、ブーイングをする。だが、選手が下手だと知っていてなければそれもできない。マスコミにいい選手といわれれば、声援を送る。これで選手が育つわけがない。

 試合がまずければ、客は金を払わない。客が金を払わなければクラブは経営が立ちゆかない。だから物事がシビアになっていく。その仮定で、いい選手を育て、いい選手を見極める必要が出てくるのだ。ところが、試合がまずくても人は金を払う。選手は金を貰う。開幕当初の状況はこういったもので、これが今の大不況を招いている。当然のことだ。

 僕は1サッカーファンとして、良い試合を見たいし、それが日本人の、自分の地域の選手の物であればますますいい。顔のいい選手が見たいわけでも、言動の派手な選手が見たいわけでもない。そんな物はプレーのあとだ。チラベルが日本で有名なのはその豪快なプレースタイルと派手な言動のためだが、どう選手が世界的に有名で、日本で有名になることになったのは、GKとしてのレベルが高いからだ。有名だから上手いのではない。上手いから有名なのだ。こんな当然のことが、以外にコンセンサスを得られていない。これが日本のサッカー文化だ。

 よくなってほしいよな。

 

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